【漫画評論】藤本タツキ「チェンソーマン」第17巻を読む
起き抜けに、それも朝飯前に一気に読んでしまった。
画力はあいかわらず荒れているが、話は一応進行している。じっくり練り上げて描く時間は無いということでしょう。ゆえに、作品としてすごく面白いわけではないのだが、すごくあがいています。ほとんど苦しまぎれの展開が続く。つまり、作者は重要なことを提起しており、そのことを理解する必要がある。
まず、現代ではヒーローという概念を解体しないと、ヒーロー漫画は成り立たない。ヒーローという現象はファシズムの源泉だからだ。ここまで自己言及的な作品が少年漫画として曲がりなりにも通用しているのは驚きだ。こういうことをやってきたのは新井英樹や浅野いにおなのだが、彼らはあくまで青年漫画だからね。それだけポストモダンの状況が進行してきたということだろう。
昔の「デビルマン」(永井豪)では、善だと思っていたものが悪であった、というひっくり返しはあっても、善悪という概念そのものは健在だった。 この「チェンソーマン」ではもはや何が悪で何が善か、という見分けがつかなくなってきている。まさにポスト・トゥルースの世界にふさわしい混沌。統一協会やその分派がモデルになっているが、世界観の元ネタになっているのはジェームス斉藤(中村カタブツ君・編集)などの陰謀論サイトでしょうね。
これまでの漫画や文学が最後の拠り所としてきた、幼い子供の無垢、という正義の根拠にも寄りかかってないです。ナユタの言動にその認識が現れている。子供ゆえにピュア、ゆえに己の欲望や暴力衝動に忠実、という描写であり、現代的だ。だから正義という概念なしに、主人公が行動する理由を探さないとならないです。これはキツイのだが、作者は恋というモチーフを出してきます。
そしてこの作者にとって、恋とは敵対関係を含んだ憧憬あるいは親愛さである。どうやら現代におけるラブコメとはそういうものらしい。昔から本質的にはそうなのだろうが、恋とは対等な人間関係でなければならないから。つまり、どちらかがどちらかの付属品や従者のようになっては恋とは言えない。「男と女は五分と五分」(中上健二「軽蔑」)。他人の人格を所有しないし、道具化しない。これが唯一残った倫理的な規範です。
ではヒロインのアサはどうかというと、彼女は主人公とは敵対していないし、従属してもいない。端的に言って「あまり関係ない」。話に絡ませづらいし、実際のところほとんど絡んでない。今のところ彼女自身の明確な意思があるわけでもなく、何事にも受け身で消極的だ。
自分の欲望に忠実な狂った人間だけが世界を変えることができる。このテーゼに基づいているはずの漫画で、なぜこんな人物がヒロイン(本来なら新・主人公)なのか。いぶかしいが、これはなるべく普通の女の子を描いてみたいということなのだろう。彼女が異常なシチュエーションに巻き込まれながら、何を求め、決断していくかがカギとなる。やはり彼女が新たな主人公なので、そこをどう描くのか。もっぱら男性の視点から発想するこの作者には難行で、周囲のアドバイスが必要でしょう。この作者は自分にとってリアリティのないものは描きたくない。その勘だけが作品にとって頼みの綱になっているが、女性の内面を描くのはそうはいかないわけで、行き詰ってますね。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?