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己に迷うて物を逐(お)う

後になってから、「あの時はよかった」と思い返す。
「あの時は何でよかったのか」と原因を求める
同じ状況を望むにつれて、「これがよかったのか」、「あれがよかったのか」と思いをめぐらせ、やってみる。しかし、既に状況が違うから、舞台が変わっているのに、同じ演技をしても同じ効果は生まれない。


貨物崇拝(カーゴ・カルト)と呼ばれる心理がある。
メラネシア人の話で、かつての南洋諸島に日本軍や、続いて米軍が現われた。空港を作り、飛行機が着陸し、中から、貨物が現われる。貨物は食料が満載だ!
そして、日本軍が、米軍が消える。
メラネシア人は何をしたのか?
枝を集めて滑走路を造り、照明の代わりに、かがり火を焚き、しまいに、木工細工でヘッドレシーバーを作り、飛行機を着陸される身振りをしたのである。
メラネシア人にとっては、貨物を積んだ飛行機を着陸させるために必要で作られたものが、それがあるから飛行機がやってきたのだ、と考えてしまった。
これは、予祝儀礼ともいえなくはない。
予祝儀礼とは、たとえば、藁をまいて、その年の稲作を予言する行為である。
そのノリで、メラネシア人は、技術的な問題も呼び込もうとした。


と、メラネシア人の事を笑っていられない。似たようなことを"文明人"も平気でやっている。(この辺は、「偶然」の統計学 2015 デイヴィッド・J・ ハンド 訳松井 信彦に書いてあります。たぶん。確か。)
「あのころは、これをやっていたから」、「これを食べていたから」、「こういう服を着ていたから」よかった。と、思うのは、貨物崇拝と同じである。しかし、状況をどうにかしたいという思いが、これをさせてやまない。
「今、何をすべきか」「どうしたらいいのか」「自分に何が足らないのか」「頑張らないと」と、プレッシャーを自分にかけるように仕向けられた情況に自分から進んで乗っていく。情況が自分の実力でどうにかなるとつい、考えてしまう。
でも、情況は把握しきれない。
もしも、人に価値ということがあるのなら、人の価値は価値の見えない報酬を見る目があるかどうかではないか。
結果がすべて、とはいう場合だって、把握しきれていない結果もあるでしょ。わかりやすい結果以外の結果がある。人は気づいていない結果。その部分を自分で理解して受け取れる人は、つぎつぎと仕事ができるんじゃないか。

因果関係ではなく、『縁起』を感じることができるかどうか。
自分のことを知る、とはたやすくいうけれど、自分とは、自分と環境の事に他ならない。

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