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【民俗学漫談】学校の形式

学校という代わりを作り出すシステム

で、そんなわけで、近代以降、国民国家の成立に合わせて学校を作りました。

その学校という場を作るのに、用いたモデルは、別に寺子屋じゃありませんよ。あれはコンテンツは参考にしたんでしょうが、形式は違います。

学校が参考にしたのは、軍隊ですよ。

面白いですよね。大半の教員やもちろん学生も戦争など口にするのも嫌だという人びとが多いと思いますが、その人々が暮らしを成り立たせている、つまり貨幣を得ているのは、軍隊を参考にしたシステムなんですよ。

軍隊は規律なんですよ。

時間を守り、規律を守る。下っ端にとっては、それがすべての世界です。

ちなみに、日本で明治時代に入って、学校ができました。

そこには、公家の子弟も通ってきます。

ところが、公家の子弟は、時間をまったく守らなかったらしいですね。教師の指示にも従わなかったらしいです。理解できなかったんでしょうね。

今は、天皇の直系でさえ、時間を守っています。

それどころが天皇ご自身も守っていまするね。

これが、異常なことに気がつかないんでしょうか。

規律を守るのは、それが効率がいいからにほかなりません。上にとって。

すべて、効率に還元されるシステムなんですよ。システムも個人もユニット化されます。

ユニット化と言うのは、代わりが効くということです。

生徒だろうが、教師だろうが、校長だろうが、やめたら別のユニットを補充すれば済む。そういうシステムになっています。便利ですね。

少し極端な言い方をしますと、第一次大戦のヨーロッパ戦線、前線に『穴』が開く。機関銃によって。その空いた『穴』を『埋める』ために徴兵制がとられる。

全然イコールではない話ですが、どこかにその感覚が残ってはいやしまいかと。

軍隊では、落伍者を人間として劣等者として扱います。学校も同じなんですよ。成績が悪ければ、「分かりやすく」「悪い点数」をつけるますね。人間関係も同じです。学校へ行きたくないと思って、行動で示せば、それはもう「マイナス点」「不合格者」なんですよ。

軍隊には、試験がありました。と言っても、ある基準を設定して、健康度ごとのベレル別に振り分けるための物です。

通常は「甲種合格」と言いますね。これは、肉体的エリートですね、明治時代当初の話ですが。軍隊で十分機能すると言う事です。

続いて「乙種合格」「丙種合格」と続きます。

丙種は、虚弱な人と言うことで、まあ、通常、軍隊からすれば、「不合格」なんでしょうが。

で、問題は、この検査、軍隊のための物であったんですが、この「甲種合格」が一種のステータスに歪められてしまいます。

簡単に言いいますと、甲種、乙種はいいんですが、「丙種」以下は、まともに結婚ではなくなります。国家から、「肉体的に欠陥がある」と認定されているようなものですからね。

民衆はどうしても「仕分け」という、わかりやすいものにしがみつきますから。

レッテルなんて、ドーパミン出てるんじゃないんですか。

よく、レッテルを張りつけたがる方がいますよね。人の事情というものを簡単に済ませたがるわけですよ。本来、曖昧であってしかるべきものを、把握できないものとして、そのままにしておくことができないのかもしれませんが。

そこで、逆に「丙種合格」にされた人は、何も合格じゃない。落ち込みますよね。

こうして、まず、同じ年齢、そして、「検査」の上で同じ能力のものを集めるのが軍隊です。

服装も同じ。給食も軍隊が発祥ですよ。

似合わない服を着させられる。

栄養オンリーの皆と同じ食べ物を食わされる。今は少し違うんでしょうが、「給食を残すな」と言うのがありますね。

でも、言う割に、社会全体が食べ物を残しては捨てていますよね。

この辺の教育は、上手くいっていないと思うんですが。

ちなみに、私は、給食はあまり食べられなかったんですよ。で、残すと怒られますからね。怒られたくないから、最初から少なくしてもらっていました。

今は食べ物は残さなくなりました。米粒も気づく限りは残しませんよ。

給食に愛情なんてないじゃないですか。工夫もないし。

好きな人が作ったものなら、まずくても食いますよね。食えるものならば。

あとは、学校は、別に相性も良くない人と席を並べる。とか、

尊敬もしていない、意気投合もしていない者の指示に従う。

ベルや号令に従って動く。

これに慣れるのが学校の目的ですね。

私は、何年か前まで、よく放送大学を見ていたんですよ。

放送大学は面白いんですが、裏を返せば、当時の私が「正解」があるものを好んだからなんですね。

間違ったことに対する罰が激しい環境で育ったから、マニュアルを求めるんですよ。

正解が欲しかったんですよ。

学校は「正解」を示しますよね。毎日、毎時間。しつこいくらいに。

そして、「正解」は、一つだけある。ということにして。

こどもがいる知り合いに聞いた話ですが、今、小学校から、意見や感想を言わせるようにしているみたいですね。で、それは「正解」かわからないから、教師は肯定するだけ。

テレビの見過ぎで、「コメント」しないと、キャラが立たないとでも思っているんでしょうか。

芸人じゃないんですよ。

じっくり考えたいこどももいるでしょうし、わからないものは、「わからない」と言えるこどもを育てた方がいいんじゃないでしょうか。

正解は自分で作る。さらに、問題も自分で作る人が運が良ければ成功しますね。

大人は忘れたがる

で、そういった、人間をユニット化するのが学校の形式なんですよ。

黒板があって、教壇があって、生徒が並んで同じ方向を向いている。

たまにシフトチェンジする生徒がいると、戻そうとする。

学校は、その形式をとっている以上、ソフトの部分を変えても、状況は変わらないんですよ。

村の構造、住宅の配置を変えなければ、習慣を変えないように。

それでも、大人たちは、文句を言いながら、あい変らず、学校にやる。

文句を教員に向けてばかりで、原因が学校の構造にあることに気づこうとしない。

自分で見てきているはずなんですけどね。

現状の学校に通うということが、リスクを伴うことだということが。

なぜ、放っておくんでしょうかね。

人間の脳は、そういう構造をしているんですよ。自分の「多幸感」を妨げるものは、「ノイズ」としてしか反応しません。

大方の大人は、自分が経験してきたくせに、忘れてしまうんですよ。

まあ、大方の人びとは、「無事に」学校を卒業できたことでしょうから、別に変えるほどの事はない、と。

個性抑圧シフト

学校は、「個性を育む」と言いながら個性を抑圧するシステムを敷いていますからね。「個性抑圧シフト」ですよ。

人間に自然に備わっている、一人の人間として存在するという権威をナチュラルに抑圧し、まあ、やさしく言って、社会という顔の見えない主人に奉仕させるためのロボット化なわけですわ。

そりゃあ、ぐったりしますね。個性があるこどもにとっては。

心身ともに傷つけられながら、しかも、「今日も傷つけられる」と承知しながら、その場に向かわなくてはいけない。なんで?

納得なんて、できるわけないんですよ。

しかも、それを何年も繰り返すわけですよ。

学校は、軍隊式のシステムはもう無理だと思いますよ。

むしろ、幼稚園のシステムを導入した方がいいと思います。

今の学生が幼稚だと言っているんじゃないんですよ。

むしろ幼稚化しているのは教員側じゃないかと思われますが。

教育機会の平等が、人間関係の不平等につながっているのなら、ゆるい場を作ったらどうですか、と言うことなんです。

知識を効率的に詰め込むのなら、一人の教師が教壇に立って、大勢の学生や生徒を前に授業を行う形式がすぐれているとは思いますが、今のweb時代は、自分で、アプリでもインターネットを使って、覚えた方がはかどるでしょう。

ちなみに、私の英語の能力は今が一番です。自分で参考書やWEBで勉強しただけですが、中学高校大学で勉強した時よりもずっと英語が読めます。

そんなものなんですよ。学校で勉強するなんて、建前なんですよ。あそこは、文部省認可の人間を「生産する」ための場なんですよ。

みんな、インタラクティブなデバイスや、エンターテイメントを重視したコンテンツに慣れていますからね。一時間半も講義に付き合っていられないんですよ。

大学も、放送大学みたく、45分授業にしたらどうですか。あとは自習で。もしくは質問タイム。とか。一部の教員、答えられないでしょうけど。

教員の思い違いがあるんですよ。情熱うんぬんの以前に。

学校制度だって、作った当初は、皆、平等に国家のために働く人ができると思っていたんですよ。

ところが、教員は真面目ですからね。消毒された世界で育って、「先生」に感謝するような学校生活を送れるという、幸せな結果を最終的には得た。

実は運がよかったということなんですが、それを知らずに、知らないことを知らないんですが、教師にありがちなパターンですね。知らないことを知らずに、自分が良い学校生活を送れたのは、自分の力と先生や同級生のおかげと考える。そこにたぐいまれな運の要素が入り込んでいるとは知らずに。

前に、サイコロの出目の話をしました。4回振って6が二回出た。次に6が出る確率はどのくらいか。やっぱり6分の1です、と。

でもね、現実は6がそれだけ出たら、6の出る確率はやっぱり他の出目と比べて高くなるんですよ。

そもそも、現実の世界で、狂っていないサイコロなんてないんですよ。

あ、サイコロの話は比喩ですよ。サイコロの事を言っているんじゃなくで、現実の現象の事です。

想定したもの通りに存在しているものなんてありません。

一部の方は、特に安定した職業や、敬意を伴った権力をお持ちの方は、サイコロの出目はそれぞれ6分の1として行動しているんですよ。

比喩じゃなくて、話にならないのは、そこなんですよ。

制服には、個人の趣味嗜好は存在しない。制服を着ることで、集団の前に、個人の精神を抑圧するわけです。
で、そこに外見上の平等が現れるわけです。階級も経済力も知能も関係なく。
ところが、子供たちは対等というものに堪えられない。
どうにかして、優越感を味わおうとして、弱い対象を見出す。
日常的に、ボディーブローのようにストレスを与えてくる者は、人に対して小競り合いを求めているようなものですから、離れた方がいいわけです。
大人でも、経験不足なのか、そもそも精神が幼稚なままなのか、自分が主導でないと気が済まないようなのもいて、そういう者は、おしゃべりでさえ疲れるわけです。

社会という顔の見えない主人に奉仕させるためのロボット化、というこですが、これはつまり社会から利益を得るほど得をする社会システムになっているということですよ。

これの本質、気づいていますか。

そうした中で、メンタルの『いかれている』連中が、競り合い、自分の都合で周りを混乱させ、出世する。社会からいくらでも利益を得ようと働きかける。

それは、周りの優しい人、おとなしい人が、譲歩しているからにすぎません。

優しい人、素直な人が幸せになれるような社会にするのが文明人なんじゃないでしょうか。

人格の継承の難しさ

人類が技術や文明ばかり発展して、個々人の悩みが解消されないのは、
テクノロジー、それに伴う知識は継承されるのに、人格が継承されない。

人格を継承するのがとても難しいからに他なりません。

テクノジーは、言葉による、もしくは文字による情報を伝えれば継承されます。

そうして、太古から人類は、一人の人間の経験や知識に頼ることなく文明を発展することが可能になりまして、これが他の社会性のあると言われる動物との違いであります。

社会に限らず、芸術や研究、または資産や、もしくは政治基盤などは個々人で継承できますが、人格は継承されるとは限らない。

人格は、近くで見ていても、それに価値を感じないのかもしれません。

人格よりは、知識であるとか、資産であるとか、または権力に魅力を感じ、それは継承したいが、人格は継承せず、あくまでも自分の個性によってやっていきたいと考えるのが人間というものです。

人格は情報ではないんですよね。

本を読んだり、講演を聞いたところで、人格がまともになるとは限りません。

人格を継承することは将来可能なのでしょうか。

SFっぽい話になりますが、人格者の人格、優しい人の優しさを脳に移すことは可能なのでしようか。

可能になったとしても、しないでしようね。

優しさよりも、強いメンタルをお望みになると思いますよ、皆さん。

得たいわけですから、人間は。

テクノジーや知識を得れば、この世のものを得る可能性が高まる。

人格者になっても、何が得られるんでしょうか、というお話ですからね。

しかし、馬鹿にされようとも、人格というものを教えるのが教師の役割だと思いますがね。

新資本主義に教師までもが染まっている場合ではない、まして若者がその新資本主義のシステムに染まるのを止めなくていいんでしょうかね。

現状、知識やテクノロジーの習得どころか、その辺の過程さえ取っ払って、お金さえ手に入れば何でもいいという様な風潮さえあります。

昔話じゃないんですからね。

いや、昔話だって、最後にお金持ちになるのは、優しい人と相場が決まっていたのですが、今時は、単にお金が欲しいで、上から下まで染まり始めている気がしないでもありません。

『弱者』という謂い方をマスコミまでがするようになりました。

労(いた)わるための言い方ではなく、見下したり、社会問題として揚げてしまい、自分には関係がない問題とするための言葉に見受けられます。

昔、プロ野球の野村監督は監督就任時に弱かったチームを率いて『弱者には、弱者の戦い方がある』と言いまして、データや奇策を多用して優勝するまでになりました。

今、社会において経済的に恵まれない人々まで、『強者』のやり方を見習って、そこから抜け出したらいいという様な考えが蔓延していると思います。

政治や行政、マスコミを見ている限りそのように言い放っているように見受けれます。

弱者が強者を見習っている限りは、対等になることは難しいと思います。

当時のスワローズがジャイアンツと同じ方法で野球をしていたら、毎年優勝争いをするようなチームになったとは思えません。

当時のスワローズは、『巨大戦力』と言われ、強かったジャイアンツが嫌がるような戦い方をしたわけです。

しかし、実際、皆が皆、同じ生き方をしてくれた方が都合がいい、皆が皆、大人しく資本主義のルールや思想に沿ってお金を目指してくれた方が都合がいい、そう仕向けるのが新資本主義なのでしょうが。

同じ土俵で戦う必要はないんですけどね。

学校では、知識を教えるのに忙しいんでしょうね。
カリキュラムもあるでしょうから。

しかし、大学くらいは人格を教える余裕くらいありそうですけれどね。

確定申告というものがある、ということくらいは教えといた方がいいかもしれませんが、今時、アルバイトでも自分で申告させるようなところもありませんでしょから、いいのかもしれません。

昔は、アルバイトは社会保険にも入りませんし、なんなら、所得税も引かれなかった、つまり、個人事業主的な扱いだったんですよ、私が最初に仕事をした編集プロダクションは。

それで、確定申告をしないといけないんですが、さっぱりわからず、最初の確定申告の時は、あとから得た知識で計算すれば、多めに税金を納めてしまった記憶があります。

学校における個性化

近代になって、目的を持った理性の働きというものが見いだされて、重視された。

この目的というものなのですが、人の精神を安定させ、努力させる効果があります。

ただ、これも慣れすぎると、人間自らをも制度化してしまう。

制度の中に人間を当てはめようとするあまり、その制度の中にいる人間が他人どころか、自分も制度の中で、目的を持った要素として考えるようになる。

そうして、あらゆることに対して根拠づけをする。

行動のひとつひとつに。また、それを求められる。

ヒステリー的であってエロス的でない理性というものが重要視される。

学校に通うことで形作られていく心というものは、近代的意識です。

近代的意識とは、合理、論理を重んじ、制度の中に納まり、分類できるものを重要視し、それ以外をむしろ分離しようとしつつ、その実、破壊してしまう。

小児がより良くしようと思って手を出したがために壊れてしまう玩具をイメージしてみればいいでしょう。

小児は、物体の構造をすべて把握しているわけではないのに、よりよくできると思うわけです。

この世界、自然、または人間の心の複雑さを近代的理性をもって、正そうとする。

物事をあれかこれかで考え、自分の論理、秩序にないものは、間違っていると判断する。

そうして、矯正した暁にできあがる人間というものは、その教育した人間、知識を与えた人間、援助した人間にとっての正しい形であるにすぎず、より豊かで貴重なものがあったとしても、気づかなかったとしたら。

その『師匠』なり、『アドバイザー』なり、『コーチ』なりが。

これは何も学校だけではなく、社会一般、人間関係に言えることでして、ある種の対等というものを理解できずに人とかかわろうとしがちな方々に備わっている傾向です。

こじつけ、ひとりよがりであり、物事や人の行動や過去に意味づけ、言説化したがる。
そのような思考の体質が出来上がってしまっている人が活躍している人の中にも少なくありません。

下手をするとその人の個性、まだその人が気づいていないけれども、なんとなく好んでいるような感覚を沈黙させるようなことをしかねないわけです。

知識や自分の経験をもとにしたセラピーやカウンセリングや教育は。

小説を長年書いていて思うことは、人に対しても、想像力や知識を駆使して状態を探り、決めつけることが少なくなかったのですが、それは客観性を欠いていたわけです。

特に近代小説を手本にしていましたからね。私は。
情況を把握するという行いが、自らの秩序に入れ込むことに過ぎないわけです。

どこか弱い部分があるのなら、それを正し、克服すべきという思考に染まっているんですよ。

人間は、どこか弱い部分があるなんて当たり前のことじゃないですか。

それを完璧でない、さらにはメディアでいわれるレベルの人並みになっていない、なっていないのなら、どこか間違った部分があるのだろう、そこを直さなきゃ、と駆け出すのが近代の自我なわけで、近代小説はもともとそういう構造になっているわけです。

人の行動を訓練する。

会話でさえ、技術を用いる。話す技術、聞く技術とか言っていますよね。

今、小児のころから、学校において、自分の考えを持つようにし、それを言語化して発表するようなことをしていますが、自分の考えは皆、すでに持っている。ただ、小児はそれを言語化していないだけ。

大人はそれを忘れて、言語化せず、意見を言わない生徒や学生は、個性がない、何も考えていない、と思い違いをするわけです。

そうして、無理に自分の考えを言語化することに慣らされたら、人格や考えが身に着く前に、考え方や個性がますます平坦で一般されたものになる。

それを『伝わる』と評価しているのが、学校における個性化なのではないでしょうか。

平たく言えば、これ、『全員、秀才を目指せ』といっているようなものでしょう。

その価値を第一にさせてしまえば、現在の秀才の価値が上がるという寸法です。

さすが、頭いいですね。

やっていることは、優越感のせめぎあいで、なぜせめぎ合うのかしれませんが、金銭欲名誉欲はもちろんのこと、知識、それを生かした仕事、創造的な仕事でさえ、数字に置き換えられてしまう。

優越感に連なる手段に過ぎないのですよ、知識を得ることも仕事をこなすことも。

それをとてもたやすくできるので、SNSが流行っている部分もあると思います。他人から自分を際立たせたいという欲望を引き受けるプラットフォームとしてよくできたものです。プチ芸能人になれますからね、気分的には。芸名も自由に付けられますし。しょせん気分ですが、気分は大事ですから。

あれはバーチャルなものであることさえ理解していれば、競ったり祝祭気分でやればいいと思いますよ。リアルは今時、せめぎあいではなく、助け合いの時代、また、祝祭がなかなか難しい時代ですから。

今、デザインでさえ、『どうしてその色にしたのか』、『どうしてその形にしたのか』、『どうしてその写真がその位置にあるのか』などと、いちいちデザイナーが説明するそうですが、言語で説明し切れぬ部分を含むから視覚表現が成り立つのではないかと思いますよ。

自分を数値化するほど、存在意義が揺らぐ。

より大勢の価値観に呑まれてしまうから、競争相手が増えますし、そもそも競争する必要のないものまで競争させられる。

数値化なんて、わかりやすいだけです。教師が評価が楽だから数値化し、その感覚が生徒に蔓延ししてしまう。

いっそ、評価なんてやめればいいんじゃないでしょうか。

なんで、学校で評価なんてあるのでしょうか。

どうして子供たちが、一方的にただ同じ地域の同じ年に生まれただけで、評価され、ランク付けされなきゃいけないんでしょうか。

こんなの、早生まれが損するだけですよ。また、おとなしい人、気の弱い人が損するだけですよ。ハンデ戦もいいところですよ。

比較して早生まれの人が苦労するわけですが、それはランク付けなんてするからでしょう。

教育と数値化は切り離せられないんでしょうか。

情報の片付け

制度の中で、理性のみを重視したら、素直な人であるほど自らの直感・エロスを抑圧しようとする。

そうして、あらゆる活動が憂さ晴らしになる。

例えば、旅行でも行きたいからとかというよりも、むしろ、観光情報を自分の頭に入れてしまったからそれを片付けるために行く。

行けば片付くだけで、さほど楽しいわけではない。

服をはじめ、日常品でさえ、値段で買うかどうかを決めるのは、その心情の底に憂さ晴らしがあるからですよ。

文学でさえ、憂さ晴らしが初めにある。

素直であるほど、制度の中でエロスを抑圧することばかり考えるから、何が大事なのかがわからなくなりかねない。

そうして、損得でばかり考えるようになるが、現象の一つ一つにまで根拠づけをしないと不安になってしまう。

あらゆることに根拠づけ、または意味づけをして、世界を象徴で埋め尽くすということは、ホイジンガが中世の秋で書いていたと思います。

出来事や物事を偶然として片づけられるような強い精神力をどのようにしたらもてるのでしょうか。

会社の形式

会社も同じですよ。

学校で学んだことをそのまま持ち込んだ方が楽ですからね。

組織形体が軍隊と同じです。

CEOという役職があります。

Chief Executive Officerの略で、「最高経営責任者」とか訳されています。

とても大ざっぱに「社長」と同じ使い方をされていますが、このCEOは、もともと「将軍」の事を指しました。

総指揮官ということです。CEOは。

軍隊の上の方は常に戦略を考えている。その戦略を実際に意思決定を命令を下す。それがCEOの役割です。

構造に人間は支配されますからね。

会社が用いている構造の中で日々動いていれば、それに従いますよね。

従った方が、楽、それが「慣れる」ということなんです。

会社というものは、構造が軍隊の組織が商業をしているわけですよ。

19世紀の資本家に比べて、無茶ができなくなっただけ。比較の問題に過ぎません。

そのような形態を持った組織が人を募集し、人を使っている。

そもそも「リクルート」の第一の意味は、「新兵募集」という意味ですからね。

会社ができた時に、すでに長年存在していた軍隊の組織の構造や運用の仕方、ヒエラルキーを参考にしたわけです。

めんどくさいですからね。新たなものを作り出すのは。



荒れ地

最近、「荒れた老人」とか言われていますが、ああいう方々は、最初から荒れているんですよ。学校でも、会社でも、不平等的人間関係を押し通し、その場を「荒野」と化し、自分の家庭を「天国」と見なそうとしてきたから、今さら変えられないだけです。

世代によらず、学校で人を押しのけたり苦しめたりする方法を学んでしまったんですね。それを暗に認めてしまったというわけです。自分も周りも。

変えられないでしょうね。

世界の平和を望んている人には、たまりませんね。

教師の大半は、自分が学んだ方法を伝えることしかできないんですよ。学者になるための知識を、しかも自分のやり方でしか教えられない。

優秀なコーチは、選手に見合ったアドバイスができるんですが、まあ、教師は、自分は教師や教員で、コーチではない。と言うかもしれませんね。

教師にしてみたら、「おれの知っている学校と違う」と言うことになりますか。

「おれの知っている中学生、高校生はこんなんじゃなかった」と。

知らないことを知らなかったわけですね。

昔のように、権力かざして、人の人格歪めるようなやり方が、今は通用しませんので、教師も戸惑ってしまうでしょうね。

教師の方も理解したがるあまり、細かいところまでかかわろうとしてしまうと、威厳や尊敬がただの抑圧機関となりかねません。

まあ、大学に関しては、「のんびりやりたい」方は、時代に合っていません。学生がかわいそうですので、研究だけしていたらいいでしょう。研究もしていない方は何をするんですかね。企業へのアテンドでもするくらいでしょうか。

今時、教師と学生の区別を権威としてしている時点で、つらいですよね。とくに大学は。

結局、学校でいくら道徳だの倫理だ、個性だなんだと教えようと、幸せになる唯一の方法が金と権力であることを、あらゆるメディア、あらゆる人間が人々に向かって語っている。
また同時に、そうではないと主張するものでも、裏では営業を欠かさず、優越しようとし、数字を気にしてはばからないという矛盾した姿を見せる。鼻が利く人間ならかぎつけるが、まだ若い学生などは、メディアでもまして教壇にでも立たれたら、なんだか、もっともな話だと思ってしまう。

前、とある大学でシステムの仕事をしていて、授業の立ち合いをしていたところ、ゲストスピーカーの方が、『人生遠回りした方がいい』と、曖昧な言い回しでおっしゃっていましたが、皆、近道や正解を知りたいから、見ず知らずの人間の話を聞いてるのに、それは単に、結果から自分の正当性を主張しているわけで、それは予備校の合格体験記と同じなわけです。

そういう方は、たいてい、人の事情というものを酌もうという頭がありませんから。対等以下になればとにかく偉そうですし、どことなく芝居じみたしぐさや笑い方をします。

かつて、ジゴロはビシッとした格好をしていました。高級スーツを着て。

今は、そんな恰好したら胡散臭いだけですから、代わりに実績やもっともらしい知識、数字を示すわけです。

ビシッと。前に出て。

アートスクールなどでは、『私は学生を混乱させるためにいる』と言ってはばからない先生もいらっしゃるようで、その方が、はるかにまともなわけです。

若者が騙されるのは、権威だとか、はっきりと『これはこう』と明示してくるわかりやすさに、引っかかるのであって、それを予防するために呼んだ者が、明確にプレゼンしてしまうことの矛盾を依頼している側がまず気付いていない。

考えさせずに、正解らしきものを与え続けるというものが、人を操ろうとし、出世をもくろむ側の手段なわけですから。

学生はわからないのだから、教職員がもっと観察力や嗅覚を鍛えないと。

悪魔は悪魔の姿をとって現れないのですよ。

笑顔やもっともらしい経歴や実績を示して、ささやき、信用させる。

そんなものはエデンの園のころからわかりきった話ですよ。

人を騙ろうとする者は、みすぼらしい格好でfは現れないわけですよ。
神話の神様じゃないんですから。
心のきれいな農民かどうか試すために。

しかし、また、学生の話を聞いていると、完璧なものより不完全なもの、どこかぬけたものに対して趣味嗜好が移ってきている気はします。

それは一つの希望ですね。

皆、きらびやかなものに惹かれ、華々しく活躍する世界にあこがれます。

しかし、そのためにはよほどの環境を持ち続けられるか、もしくは、これは、皆、言っているように意志の力がいります。

才能よりもむしろ意志の力といった方が正確なくらい、意志の力が必要なのですが、この意志の力とははっきり言って、異様な精神のことでもあります。

まず、普通の人とは、思考が違いますから。対等な立ち位置で、クローズされた空間で会話すればそれは知れます。

ですが、ふだん、心の扉をオープンにしている人は、ものすごい勢いで閉められるよう、構えておかないといけません。

駆け込み乗車をするサラリーマンを防ぐ程度の生ぬるい閉め方ではなく。隔壁レベルが必要です。

まともな精神の人は、それを知った方がよろしかろう。あこがれの職業があったとして、どのようにしたら、その世界、異様な精神の持ち主が跋扈している世界で、どのようなスタイルならやっていけるのか、そういうポジション、スタンスはどこにあるのか、それもほとんど同時に考えないとならないかと。

意志の力、つまり精神エネルギーは、無限ではないことも、どこかで頭に入れておかないと。

今の世の中は、『できない人』に対して冷たく、『できる人』、もしくは図々しい人に甘くなっているように思われる。

できない人に対して、『やればいいじゃん、皆やっているよ』で済ませ、事情というものを鑑みようとする心が失せているようにも見える。

そんなことは子供でも言えます。

それは、学校で均質化の教育が進んだせいなのか、はたまたgoogleのせいなのかはわからない。

もともと富国強兵のために、つまりは国家に奉仕するためにつくられた装置ですから、人を一つの軸で評価するようなシステムになっているんですよ。

でも、今は、もう少し余裕あるんじゃないですか。

皆、孤独が怖いから権力を求める。権力とは金力や知識の力も含まれる。
自分は役に立つということをアピールせずにはすまない。寂しいから。関わりたいから。
孤独が怖いからこそ孤独でないふりをする。
孤独であることに自分が気づきたくないから、権力を、それを支え、眼に見える形にしてくれる金力を求める。
お金だけではなく、数字を求めてやまない欲望は、これ権力を求めているわけです。
学校の教室に始まって、スポーツ選手、経営者、会社従業員、クリエイターでさえ。
で、なんで権力を求めるかといえば、孤独が怖いからですよ。
『人間は、そもそも孤独である』なんて、軽く言われますが、そうはいっても知能がある限り寂しいわけですから。
ただ、そこで権力を求める方法以外に、何かないんでしょうか。
皆、学校で、孤独を振り払うには、権力だ、と教わったり、自分たちで身に着けてしまっているんですよ。
人生全般で考えれば、『マイペース』ということがどれほど難しいことであるか。

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