見出し画像

仕事の学校


仕事は、「そういうルール」のゲーム。

仕事の先回り

別にお茶だしだの、机を綺麗にしておくだのという話ではなく、仕事の先回りということがあって、自分がまだ経験したことのない仕事を引き受けることになった場合、その時点で勉強を始めるのではなく、すぐに仕事に取りかかれるようにしておくには、本を読んだり、人に聞いたりしておく。
聞かれそうなことは知っておかなくては。
自分なりの努力で、理想の自分に近づける訳がない。
同じ結果を出すのにも、自分とあの子では同じ努力で済むわけではない。
自分がどれほど努力すれば目標に到達するのか、それは自分でもわかりません。
やってみないとわからないのです。
その場合、自分に可能性のあるもののうち、どれをやっておくか。
例えば、広報をやりたいと思っている人がいて、その可能性がないわけではない場合、広報、マーケティング、デザイン、どれからやればいいのか。

いちばんすきなことを今やる

これだと思います。
仕事は、受験勉強ではありませんし、なるべくなら好きなことをしていたい。
好きなことばかりやっているから人と違うことができる。
その好きなことをやるためには、やはり「先回り」が必要なのです。

まずはじめに、得意なものを作る

昔、デザイナーさんに、illustratorやphotshopどれを先にやったらいいかと聞いたとき、とにかく得意なアプリケーションを一つ作ることと教えてもらったことがあります。
デザイナーさんにしても、得意分野があります。
広報一つにしても、自分が何が得意なのか、把握する。
その一番得意なものこそが、今後一生かけて育て上げる自由の翼なのです。
自分の特殊な「欠点」は何なのか。


自分の持ち物を把握する

好きなことは、ある時期に明確にしておく必要があります。
自分は何が好きなのか。
漫然と考えようとすると、他人や流行に影響されてしまいます。
まずは、自分が今、何を持っているのかを把握してみましょう。
適当な紙に書き出してみます。
技能や得意分野、やってきたことや、社会的に持っているもの。
これらすべてが自分の持っているものなのです。
すでに仕事を始めているのであれば、自分の持っていないものを欲しがるよりは、自分の持っているものを使い、また組み合わせたほうが、ずっと「効率的」です。
また、例えばイラストが好きということがあったとして、いわゆる萌え絵が好きなのか、ハイアートに近いものが好きなのか、もしくは、グラフィックデザインと組み合わせることが好きなのか、いろいろと探るほどにあるかと思います。
こういうことは、自分で気にしてあげないと、なかなか気がつきません。
それは自分を大切にするということに他なりません。
仕事は、決して自分の時間をお金と引き換えることではありません。
仕事は自分を大切にするためのものなのです。


やれることからやってみる

今、自分が仕事場に於いて、何を担って、何を期待されているのか。
とりあえず、認められていることを全力でやってみることです。
範囲いっぱいまでやってみると、不思議なことにその枠が揺らいできます。
その揺らぎが次の世界への道しるべとなります。
何かが見えてきたら、その感触を大事にして、それは、自分にとってどのような可能性があるのか、見つめてみましょう。
例えば、はじめ事務をやって、次に広報に抜擢されたのなら、もう事務には戻れないというくらいの意志をもって取り組んでみる。
その全力こそが自分の限界を揺るがし、自分を成長させるのです。
世界に対するコミュニケーションの仕方を変える。
仕事は、常に、今がチャンス
仕事は、自分だけで行うものではありません。
それであれば、自分を固定するのではなく、その場において、固定している物は何かを見抜いて、そこで今迄の経験や知識をどう生かしてよりより流れを作るのか。

自分を改革せずに固定したまま、組織に入ったところで、周りの人から見れば、「上の人が変わるたびに仕事のやり方が変わる」だけとなり、資源の浪費にしかなりません。
自分は有能だとの思い込みが自分を固定化させます。
例えば、文学が好きで、大学ではアートや民俗学を学んでいた人、こういう人は、相当どうにかしないと、仕事には役に立たないわけです。
なら、どのような仕事のやり方にしたら、そのいくぶん特殊な能力が生かせるのだろうか。
それで、本を読んだり人と話すと、コンテンツマーケティングというものがあることを知る。
さらには、自分が「日常に埋もれているものを見出す能力」があるのなら、そのアーティスト的視点で、組織を改革できないか。
それを考えていたら、実際、ウィーンにアートを作らないアーティスト集団がいるという話を聞いて、それだ、と思う。
それでも、いきなり実績もないのにそう言う事をやり始めても、周りが納得しないので、納得させるために、まずは、わかりやすい数字で示された結果を出す、ことが目標となります。
自分がやってやろうという気持ちです。
コツは、一つの用件を伝える時に、すっと、別の根回し的なものも滑り込ませることです。
量をこなすことにより、質が高まる
脳は、楽をしたがります。
言い換えると、質を高めて労力の量を減らそうとします。
仕事をする際にも、なるべく量を減らそうとします。
しかし、量をこなしたことのない脳は、質を高める方法を学べません。
質というものは、量をこなして、脳にその分野の知識、技能、感覚ができて初めて、何を減らして、何に注力すれば良いのかがわかってきます。
例えば仕事Aをしているとします。
「質を高める」を履き違えると、この仕事Aの範囲内で質を高めようとします。
それでは、仕事Aが仕事A'にしかなりません。
その仕事A'という代物は、自分とって効率が良くなっただけで、人にはわかりづらく、引き継ぐのが難しい仕事になってしまいます。
「担当や上長が変わるたびに仕事のやり方が変わる」というのは、この、量を増やさずに一定の仕事の中だけで効率を上げようとする脳のサボり癖からくるものだと思います。
質が高まるのは、A+B+C+Dをこなしてみて、初めて可能になる現象です。
仕事Bをこなすことにより、仕事Aだけでは気がつかなかったやり方を見いだせるということがありますし、何よりA+B+C+Dをこなすことにより、いわゆる化学反応が生じ、融合し、新たな仕事を作り出せる可能性が出てくると思います。

それは、すでに自分の世界を作り出しつつあるということになります。

勘所をつくる

いわゆる「勘所ができる」とは、経験したことのない仕事でも、なんとなく、ここをこう押せば、できるだろうということがわかってくる状態です。
例えば、SEやヘルプデスクという仕事をやっていると、人からコンピューターのことを聞かれます。
自分が知らないことであれば、ネットで検索して、大抵のことは解決してしまいます。
ところが、「勘所ができていない」専門家以外の人は、自分が知りたいことをどのようなキーワードで検索したら良いのかもわからないのです。
この「勘所」ができてくると、ようやく一人前に近づいてきたということになります。

縦で収まらないのならなら横にする

棚に物を収めようとして、収まらない場合は、向きを変えて収めますね。
同じく、仕事をこなすうちに、教科書通りや教えてもらったやり方では、難しいことが出てくるでしょう。
通常のやり方では、締め切りに間に合わない場合、今までの方法では進行が滞る場合、そういった場合は、別の手を考えることになります。
別の言い方をしてみる。レイアウトを変えてみる。
別の手を考えつくのも仕事の勘所ができてくるからに他なりません。
二の手、三の手を用意しておく。
仕事を進めるコツです。

時間を相手のために使う

自分の時間は、自分のために使いたい。
自然な考えですが、人類は、ほぼすべてがこの考えで生きています。
「経済的な自由」などという矛盾した謂(いい)も自分の時間を自分が使いたいとの念から発した言い方かと思います。
ここで、自分の時間を人のために使う人がいたら、それだけで貴重な存在になります。
人のために使うということはどういうことでしょうか。
時間を守ることは、その最も効果がある方法です。
待ち合わせに遅れないことや締め切りを守ることは、それだけで相手の時間を削らないことになります。
さらに、締め切りより前に作ったり確認したりすれば、相手はそれだけ余裕を持てます。
5日締め切りのものがあったとして、5日に送ったら、相手は5日から作業ができます。
ここで、3日に送ってあげれば、相手は3日から始めることができます。


料理してから出す

仕事をしてゆくと、打ち合わせや会議に加わることになると思います。
その際、聞きたいことや確認したいことをその場で口頭で話したら、相手は、理解に時間がかかります。
会議においては、最初にこちらが伝えたいこと、相手に確認してもらいたいことを資料にして、用意しておく必要があります。
メールの転送なども同じです。
いくら相手のメールや添付にすべて書いてあるからといって、それをそのまま送ってしまっては、相手が要件を読み解くのに時間がかかってしまいます。
忙しい人なら、読まないかもしれません。
転送メールであっても、自分で要件を編集してから相手に送るようにしましょう。
これは、ウェブサイトなどでも同じです。
文字が多くて最初から最後まで読まないと何が書いてあるのかわからなかったり、自分でリンクを探さなかったりするサイトは、相手の時間を削ってしまいます。
料理してから出してあげる。
原材料のままだと、相手が料理をしなくてはいけないのです。
現代人は、自分の時間を自分が使うことに慣れているので、なるべく料理して、受け手は、「食べるだけ」にしておきたいものです。

人と話すときは、メモをとる

人と話すときのコツは、なんといっても、「自分の話を聞いてくれる」と思わせることです。
相槌を打つことも大事ですが、ノートを持っていってメモをとることによって相手は「自分の話を聞いてくれる」と思います。
自分の言葉を記録してくれる人は、人は信用するものです。
何より、自分の知らないことを人は教えてくれるものです。

メモは、自分のため以上に相手への気遣いなのです。


人からのアドバイスは、無視するか、編集しなくてはならない

初めてやることが多かったり、もっとうまくやりたくなったりしてくると、人に仕事のやり方を聞くことになります。
ただ、人は、自分成功体験を自分の努力や才能、果ては、人格によったものとしたがる傾向があります。
つまり、自分のようになれ、といっているのです。
生物は、本能的に「自分」を増やそうとします。
ありがちなパターンが、親が子に対して、また恋人が相手に対して、そのようにふるまって相手を歪(ゆが)めることがあります。
偉い人でも、精神的な老人でも自分の成功や得ている立場を、自分が把握している範囲でしか知らないのです。
何がどうなって、この世界が成り立っているのか、すべて知っている人などいません。
しかも、人は、自分の正しさを示そうとする傾向があります。
アドバイスというオブラートに包んで、自分の思い通りにならなかった憂(う)さ晴らしをするということは珍しいことではありません。

その人を見習うのではなく、その人のやり方を参考にする。

参考書の答えをそのまま書いても正解にはならない。全く同じ問題は出ないから。
仕事のやり方も同じで、あくまでも参考にすることになります。
そのままイコールで自分の生活に適用できる最適解を人は欲しがりますから、Webにも格言が載っていたり偉い人のお話が紹介されていたりします。
しかし、格言は、文脈抜きで語られることが多い。聞いただけで、成し遂げた気分になるし、続きが省略されていることが多い。
例えば、シェイクスピアのアントニーとクレオパトラに
いや、ポンペイ、神々がすぐ願いを叶えてくれぬからといって、それだけで卻けられたとは申せませぬぞ。
という言葉が出てきます。
これだけだと、自分の願いを諦めてはいけないという文脈で語られそうですが、続きがあります。

第二幕第一場
メーナス いや、ポンペイ、神々がすぐ願いを叶えてくれぬからといって、それだけで卻けられたとは申せませぬぞ。
ポンペイ その御座に祈願を捧げている間に、肝心の欲しいものが腐ってしまう。
メーナス 人間、わが身のことはわからぬもの、時にはおのが禍いともなるべきことすらねだりかねませぬ。それを我らのために賢き御手が卻(しりぞ)ける。つまり、祈ったものを失って、かえってこちらは得をするというわけです。
むしろ、
天地これを授く。我走り求めざれども必づ有るなり
との道元(曹洞宗の祖)の言葉に近い話になります。
格言って、興奮はしますけどね。
すごい武器を手に入れたかのような。
でも、その使い方まで、格言には書いていないんですよ。

ある種の対等関係をもって仕事をしてみる

仕事をする上では、上下関係があり、上のものは、それにすがって仕事をしている部分があり、それを何かと誇示する傾向があります。
それを仮に20世紀的仕事のやり方とします。
その20世紀的仕事のやり方は、少数のスーパーエリートが社会に存在し、他の者は、封建制や軍隊組織の名残の中で暮らしていた時代のものでした。
しかし、スーパーエリートが減少し、人々は、自分の楽しみや成長を優先させるようになっている現代では、それを踏まえたやり方の方が、楽しく仕事ができます。
すでに美大の特に現代アートの学科では、教員と学生、どちらが教える立場なのかは、曖昧になっています。
例えば、学生がいわゆる二次創作のような作品を作ったとして、それが教員の知らないジャンルであれば、教員は教えることはできないのです。
その場合、アートとしてのコンセプトづくりや、インスピレーションを与えるにとどまります。
同時に、教員は、知らないジャンルに触れることにもなるのですから、逆に教員がインスピレーションを得る機会も多くなります。
それは、どちらが教える立場で、どちらが教わる立場なのか、曖昧なままの方が双方の成長に繋がる場として機能している例です。
基本的には、どちらかが教える立場になるのですが、教えられる立場の人も、ある種の対等関係をもって接することが、その場を大事にしているということです。

場をつくれる人になってみる

その場を大事にしているということは、その人といる場や時間を大事にしているということであり、ひいては、その人を大切にしているということに他なりません。
自分の考えを出すばかりでは、新しいものは生まれません。
人間一人の想像力には限りがあります。
「意思を持たぬ自由」といえば、言い過ぎになるかもしれませんが、それは、自分の頭を「自由編集状態」にしておくということでもあります。
その状態にしておけば、自分の外にあるもの、仕事でも風景でも、自分の編集方針や趣味嗜好、技能などに応じて編集し、新しいものを作り出すことになります。
さらに、その作り出したものに対して、対等にある人がコメントをしてくれたり、その人なりの編集方針で加わってくれたりすれば、自分だけでは生み出せなかったものが作れるのです。
20世紀的仕事にしがみついている人々は、それをさせなかったわけです。
仕事も組織のためと言いながら、自分の正しさの補完的な場として、利用しているに過ぎなかったからです。
相手を尊重するということを敬語や礼儀をもって接するということに限定し、それ以外をさせないのは、20世紀的です。
20世紀的仕事のやり方にしがみついている方々は、ある種の対等関係が苦手です。

すでに存在している場を変えるということは、それなりの力が必要です。
しかし、「場」こそが、自由な雑談を生み、インスピレーションを与えられる場となるのです。
雑談が得意な人は、ある種の対等関係でいられる場を作れる人ともいえます。
意見を言う、と言うことは、その人では気がつかなかった問題を作り出すことでもあり、それは、人に「気づき」を生じさせ、別の世界を見せることにも繋がってゆくでしょう。
それはアートの存在意義でもあるかと思います。

自分を大切にする

仕事は一対一ではありません。
自分が相手にお願いをしたからといって、応分のものをそのまま返す必要はありません。その分、自分の仕事に力を注ぐことにより、巡り巡って、自分を助けてくれた人のためになることもあるのです。
受験勉強ではないのですから、同じ仕事、同じ結果だとしても、自分なりのやり方があるはずです。
アドバイスされたことも、違うと思ったら、止めればいいのです。
そのためには、自分のことをよく知らなくてはいけません。
自分の仕事のやり方、趣味嗜好、技能は現在、どのようなものとなっているのか。
つまり、体や脳がどのように出来上がっているのか。
すでに出来上がっているものは仕方がありません。
それを別のものに変えようとするのではなく、今あるものを用いて、または今までとは別の組み合わせ方をして、仕事をこなす。
自分を大切にするということは、自分の場も大切にするということ。
パブリックにおいて、自分の場を作る。
それが自分を大切にすると言うことです。

たくらみを持つ

組織と自分なら自分の方が大事に決まっています。
組織のためではなく、とにかく自分の成長につながるような「生活」を目指す。
仕事は生活の一部なのです。今の仕事を我慢したら、生活があると言う考えは、学校を三年間我慢したら、その先に自分の生活があると思い込むのと同じです。
生活の一部としての仕事であって、仕事を我慢した後に生活があるわけではない。
仕事をこなしながら、その実、自分を成長させるという「たくらみ」を持つ。
組織に向かっては、仕事をしながら、その実、自分のために仕事をする。そのくらいの「たくらみ」を持つことが自分を大切にすることにつながります。
それを続けるうちに、今までとは違った景色が見えてくるでしょう。

自分が好きなことは離してはいけない

組織と自分なら自分が大事なのは当たり前。
自分よりも組織を大事に思うということはない。
しかし、仕事をこなさなければその先はない。
仕事をこなすことによって、今まで見えなかったものも見えてくる。
仕事をこなしながらも自分の好きなことを見出して、それを大事にする。
仕事をこなしているフリをして、自分を成長させる。
好きなことがわからない場合は、まず、自分がやってみたいことをやる。
今、思いつかないのであれば、何が好きだったのか、思い出して見る。
とりあえず、目標に近づくことで、以前は気がつかなかった「好きなこと」が見えてくる。
それは、自分の世界が広がったということ。

自分のためか、人のためか

人のために動く人は、重宝がられる。
欲張りな人間に他人は与えようとしない。
人間は励ましたいという願望もある。
頑張っている人には与えたくなる。
しかし、人のためと言いながら、こうしておいた方が得だな、と考えて動くわけであるから、それは自分のためとなる。
目先の欲望をかき集めるのか、ルックアップして、自分がやれることを求めるのか。
伝えて欲しかったり、ccをつけて、というのは、「みんなで仕事をしよう」 ということ。

「欠点を見ない」と言うやり方は、仕事場では有効だと思う。
仕事は、人柄より機能が優先される部分がある。

とりあえず、目標があったら近づいてみる。

毎日の義務仕事ばかりしていては、時が過ぎ行くばかり。
好きなことを目標に立てて、とりあえずはそれに向かってみる。
近づくにつれ、それは自分の求めていたものではないことがわかるし、近づくことで、別の好きなことが見えてくる。
行き先を自分の意思で決めているわけではない。
だからこそ近づいてみようとしてみる。
目標を立てて、進んでゆかないと、脳は楽をしたがる。現状に満足しようとしたがる。

自分の能力の使い方を覚える

能力の出し方は、アイデアの出口を見出すということであり、自由を求めがちな精神に、むしろ出口を与える。

広報場。楽しく仕事をする風潮を広めたい。
世俗と同じ価値基準で生きていたら、楽しくはないと思う。
同じ価値基準で生きていたら、競争になるに決まっている。
自分を主人公と思い込みだすと、面倒くさくなると思う。

仕事というものはふつう、「真面目」やるものと教え込まれていたでしょうが、人間の心は、そもそも「真面目」に考えすぎると鬱になるようにできていると思われます。
「真面目」な事ばかり考えるという事は、「真面目」という、実は存在していない理想を説明しようとしているわけだから、そこには、フィクション性のうすい、単なる嘘が混ざってくる。
それにも耐えきれないのではないでしょうか。
本来、そのずれを受け止めるために、ユーモアや比喩や様式美や芸術と言う手法が用いられてきたはずです。
例えば理念を「説明」しようとして「明るく正しく」などと言う言葉をそのまま用いるのはフィクションにもなっていない、「嘘」が混ざらずにはすまないでしょう。
その「明るく正しく」をエピソードや比喩で伝えるのがフィクションであるということです。
やっている当人が、それが理解できるか否か。
不真面目と言うわけではなく、本気で「遊ぶ」事や、人と違う視点を持つ人にとっての真面目にやるという事は、傍から見ていると、ふざけているように見えるはず。
今迄「真面目」にしか語られてこなかったジャンルを今までの慣習通りに「真面目」にやる必要があるのでしょうか。
ここまで、アートでも文芸でも映像でも漫画でもフィクションが進んでいるのに。

自分で使う文房具を会社から支給されたものを使う必要性があるのだろうか。
青春の「こじらせ」を仕事上の新しいやり方に用いることもある。

「こじらせる」は、まともな経験をしないまま進んでしまい、なおかつ諦められていない状態を指す。
むしろ自分に言い聞かせているだけ。

『実力をつける』というよりも、『実力を示す』ことを念頭に
ふつう、自分のやりたい事をしようとします。
ところが、他の人びとも同じ思考という事に若いうちは気づきにくい物です。
自分を強く見るあまり、個性ではなく、自分の想いをどうにかして現実のものとすることに躍起(やっき)になりがちなのです。
自分の個性と、自分の想い(欲)が一致していないのです。
そこから、自分が実力をつけることばかり考えてしまいます。
その自分がつけたい実力が自分にふさわしいかどうかまで考えないことが少なくありません。
自分に相応しいとは、自分の能力や趣味嗜好、自分を(お金やプライドや情念を越えて)信頼してくれている人たちを大切にし、また生かしながらつけられる実力であり、また、その身に着けた実力を発揮できる場をもっているという事に他なりません。
なぜなら、自分というものは、自分プラス環境だからです。
だからこそ、自分を信頼し、好意を持ち、惜しまずに接してくれる人を大切にできるか否か(それは人を見る目も持てるようにならなければならないのですが)、自分の実力を示せるかは、それにかかっていると言っても過言ではありません。
自分を信頼してくれる人と接しているうちに、自分が何をしたら力を発揮できるのかが分かってきます。
何をやり、どこを努力し、何を選ぶのか。
それは、自分の本当の想いとは、ずれがあるかもしれませんが、『本当の想い』というものは、動物的な部分、いわゆる爬虫類脳で考えられているものが少なくありません。
若い時分からそれでうまく生き続けた方は、それでもかまわないのかもしれませんが、そうでない人が、意志と欲念を混同し、『想いは通じる』と、自分を辛くさせるような道へ向かうのを推奨する風潮には賛成しかねます。
全員が恵まれた環境や持って生まれたものを持っているなら、あとは『意志』、『想いの強さ』の勝負になるのでしょうが、残念ながら現実はそうなってはいません。
多くの人びとと似たような欲を叶えようとし続ければ、競争にさらされるだけでしょう。
そこで、『実力をつける』というよりも、『実力を示す』ことを念頭に置くことをお勧めします。
まだまだ基礎的なものを身に着けなくてはならない時期は措(お)くとして、すでに実力はあるのです。
たいていは、そのすでにある実力を『自分の想いを叶えるのに役に立たないから』という、とても一般的な理由で育もうとはしないのです。
メディアで話題になっている人々のような、恵まれた物をもっているのなら、話は別ですが、ああいう人々を基準にして、生活を成り立たせ、感情を良くしようとするのは、うまいやり方とは言えません。
巷(ちまた)にある、ハウツー本は、それこそ、その著者以上に恵まれ、能力がある人に参考になるのではないでしょうか。
自分がまだやっていなかったり、気づいていなかったりする方法を、そのような本を読み、自分の仕事などに応用できる環境・能力がある人向けではないでしょうか。
実力を示すには、すでに自分にある能力を把握することです。
それには、自分で好きなジャンルをやってみる。数をこなす。さらには、意見を聞く。それをやったうえであれば、その時点でさらに実力が着いています。
さて、そこでです。
その段階迄来た時に、果たして実力が発揮され、自分の思ったような仕事を持ち、憧れていた世界にいるのでしょうか。
たいていは、そうはなっていないでしょう。
そこで、どうするのでしょうか。
諦めて、他の気晴らしで気を紛らわせたり、『活躍している人々』のミニチュア版として、縮小された幸せを求めたりする人生に方針転換するのでしょうか。
多くの人々は、それをやっているかのように思えます。
それが『大人』だと言います。
しかし、そういう『大人』たちに精気はあるのでしょうか。
ただ事務的に『仕事』をし、メディアが用意した娯楽にそれぞれの需要に応じて浸り、年下の者には抽象的な『アドハイス』しかしようとしない、それを『生活』としているのが『大人』なのでしょか。
大人は、自分で自分のやりたいことを作れる人だと思います。
その、自分のやりたいことは、その時の自分と脈絡のない物ではなく、今の自分が持っている物を生かしたこととなるでしょう。
それは少し大げさに言うと、『スタイル』なのです。
自分の現状と脈絡のない所からスタートする『夢』や『やりたい事』ではなく、自分の目的は何なのか、その目的に向かうには、遠回りに感じられても、今の自分からスタートするほかにないのです。
まずは、自分の『持っているもの』を把握できるようになることです。
次に、それを生かすには、何をしたらよいのか、何を選べばよいのか、それをドーパミンを出さない状態で、考えてみることです。
仕事を持っているのなら、ノルマはこなした上で、その仕事の内容を少しずらせ、拡大し、自分の望みに近づけさせるにはどうするのか。それも『スタイル』です。
自分の持っている物を生かす方が実力を示しやすいのです。
仕事を『生活のため』とし、プライベートの資源供給源としてしまうのではなく、仕事を、自分の願いを叶えるための手段としてしまうのです。
たとえば、小説家になりたかったとして、10年くらいやってみた。10本くらい書いてみた。
その状態で、まだ小説家をやってみたいのでしょうか。
やれるならやりたいでしょうが、ほかにやりたいことは出てきていませんか。
その10年で身に着けた言語能力、言葉に対する感覚、幅の広い知識、ストーリー形成能力、それは、小説にしか役立てられないものでしょうか。
自分にさらに、編集能力を始めたいろいろな応用能力があれば、きっとよりふさわしい仕事を見いだせられるでしょうし、さらには、自分で仕事を作り出せるでしょう。
いまは、一昔前と比べてさえ、いろいろな仕事を作れる可能性に満ちた社会となっています。
諦めている場合ではないのです。
『諦める』はまた『明らかにする』意でもあります。
自分の能力を明らかにした上で、自分の実力を示すには、今の能力や環境をどのように生かすのか、取捨選択してゆくのか、それを試みることで自分のスタイルはできてくると思われます。
そこまで来たら、あとは意志の問題、自分の爬虫類脳との勝負です。
示すべき実力はすでにある。見えていないだけ。

諸々においても、ピンポイントで自分の長所をPRしたり、想いを伝えたり、憐(あわ)れみを誘うような言動をとるよりは、仕事で実力を示した方が、いろいろとはかどります。
みうらじゅんさんが『青春をこじらせる』ということを言っていますが、『青春』は、『結果よりも、過程が楽しければそれでいいじゃん』的な時代で、それをやれずに大人になった場合、それをいつまでもうらやむことになりがちですが、そこで、青春への憧れを抱いたまま、大人の頭でコントロールできたら、それは自分で仕事をつくりだし、自分で仕事を進められる人になると思われます。
それは、民間でもどこでも優遇されるでしょう。

愛の持って行き所

好きな事だけしていると個性的な人間になる。
これは、多分本当。
多くの人々がそうしていないから。
これも難しそうですが、難しいのは、爬虫類脳に従った『好きな事』であるからで、自分にふさわしい好きな事ではないからです。
自分が自分にふさわしい好きな事を思わせずに、一般的な『好きな事』に目を向けさせているのは、つまり、自分の発展を抑制しているのは、人物でしょうか、場でしょうか、性格でしょうか、コンプレックスでしょうか。
他人と比べて、『取り戻そうとする』ことを念頭に置いていては、凹みを埋めようとするばかりになってしまいます。
それは、好きな事ではなく、ただの快楽です。御遊びです。
活躍している人で好きな事をやっているように見える人は、他の人と違う好きな事を見出し、それを展開できている人なのです。
この他の人と違う好きな事を進められるのが、意志といえるでしょう。
やり方は難しいというわけではありません。
たいていの人は、すでに個性的なのですから、自分の手にしているものを大事にして、それを用いるのに、遠慮しないことです。
難しいのは、一般的な願いに向かう自分をどうコントロールするかです。
それだけです。
よく、活躍している人が『自分との戦い』といっていますが、それは、一般的な願いに流れる自分を無理にでも自分を活躍させる物事・ジャンルに持ってゆくことなのだろうと思います。

自分の仕事を二の次にして、他人の手伝いをしたところで、それは自分のためにならない。
自分の時間や労力を直接的に与えるのではない。
それは「愛」を履き違えている。
自分の仕事を全(まっと)うし、仕事時間以外でも仕事のことを考え、実力を示すことを念頭にするということこそ「愛」なのではないでしょうか。
自分を信頼してくれる人は、自分の特徴もわかっているわけだから、当たり前のように、得意なことしか依頼をしてこない。
逆に言えば、得意なことを依頼してくる人は自分のことを信頼してくれるあらわれなのである。
そこで照れずに引き受けることが大事であり、それこそが信頼を得るやり方なのである。
それぞれ、その人の性に合ったやり方で信頼を得れば好い。

主人公になれなかった場合どうするのか

子供の頃からの教育やメディアの影響もあって、自分が主人公という想いが大きくなりがちです。成功している人も、『人生の主役になろう』と気軽に言ってきます。しかし、たいていの人は、しだいにそういうわけにも行かなくなってきます。
娯楽やイベントが派手になるのは、主人公になれなかった、ふだんの憂さ晴らしという背景があるでしょう。
しかし、どの劇でも一人舞台は別として、主人公以外にも役はあります。それもたくさん。
たとえば、シェイクスピアの舞台を見てみましょう。
主人公のほかに20人前後の脇役がいます。
名前もない役もいます。
皆が皆、主人公をやりたいのだとは思いますが、それでは劇は成り立ちません。
そもそも劇はハッピーエンドの喜劇ばかりではありません。
さらに言えば、舞台に上がれない人々のほうがずっと多いのです。
その人たちは、すでに観客席で、舞台に自分の思いを投影するしかありません。
舞台に上がれるだけで、実は活躍しているということなのです。
競争率から言っても、主人公より、脇役の方がずっと楽でしょう。
さらに劇には道化(どうけ)という存在がいます。
道化は、権力がない代わりに何を言っても赦(ゆる)される存在なのですが、劇を喜劇にするか悲劇にするか、その違いは、道化が存在しているかどうかにかかっていると思われるほどです。
結末を握っているのは、道化の存在にかかっているといっても過言ではないと思われます。
しかも、道化は、その行動よりも、存在しているか否かがまず重要です。
道化がいないと、まさに、『話にならない』のです。
話を進めるキーパーソンがいたとしても、道化の存在や動きによってしか解決しない場合もあります。
しかも、この道化、基本的には何もせずに、どうでもよいことを言っていけばすむという、はなはだ軽い境涯にあります。
主人公などというものは、やりたい人々に任せておけばよいのです。

主人公よりも、道化のほうが楽ですよ。
センスと意志は主人公以上に必要かと思われますが。
そして、今の流れは、道化もそれなりに得られるものになっている気がします。

合理的というもの

世の中に、『効率を上げる』ための本がたくさん出ています。仕事でも人生でも人間関係でさえも。
ああいうものは、こどもの頃からのある程度の環境を持った人が、一度、体力の限界までやったうえで気がつけるもので、仕事も勉強も限界までやったことがない人には、難しいと思う。
そもそも限界までやれるというのも、環境があってこその話ですし。やれる場と、育まれた性格の両面の意味で。
OSに対応していないプログラムを読み込んでも反応しない。
人間は柔軟だから、「我慢」と言うやり方で、OSに対応していないプログラムも読み込んで実行できてしまう。
しかし、経験上、苦痛は頭を悪くさせる。勉強や読書でさえ。

個人的にヘルプデスクで学んだこと

なぜ、できないのかを探る前に、できる方法を探す。
例えば、pngファイルがうまく表示されない場合、原因を探るのではなく、jpgやPDFにして試してみる。

『貢献しよう』ではなく『どう貢献した時に自分はうれしいのかを考えよう』に切り替える。
自分がどう考えているか、それを伝えようとするのではなく、どうやったら相手に響くのかを考える。

自信のない人に対して『自信を持て』と言うだけでは、何もならない。
具体的にどのようにすればよいのかをアドバイスし、活躍の場を与えてこそ、師と言える。

遠慮しない人を作る 

仕事場だからと言って、感情を抑える必要はない。要はその出口を探すことが重要で、仕事場の悩みなどを相談できる人を仕事場に作ることで、リラックスして仕事ができるようになるでしょう。
仕事ができるようになるか否かは、仕事場で遠慮しなくて済む人を少なくとも一人作る事。
娯楽で自分の感情を紛(まぎ)らわせることを生活の板部にしてしまうのは、迷いを増大させるだけ。ただの現実逃避にしかならない。
サンドリヨンがシンデレラになれたのは、何より遠慮しなかったから。
仕事というものは、自由にやらねば愉しくはないだろう。
普通の人々は、仕事をこなして生活費をもらっているようなものですが、これでは、仕事を終えて、プライベートになれば、またリセットするだけです。
仕事も生活であり、活躍している人にとっては、仕事こそ自分の成長の場なのであれば、まずは、好きにできるための場を作る。それも仕事という事を意識しなくてはならない。
頭がカオスになるのは、当たり前、そこで、遠慮しなくて済む人と会話をすることにより、お互いの言葉をお互いの方法でまじり合わせる。そうして、突破口が見えてくる。
さらにレベルが上がって来れば、カオスをカオスのまま進めて、少しましなカオスにすることが仕事という事が理解できるだろう。
自由のち雑談がコツ。

好きは実力

ためらっているのは、自分の実力のほどを知りたくないから。
努力しないのは、無駄にしたくないからというのもありますし、何より、努力した結果が自分の期待していたものではなかった時の自分の感情を考えて躊躇(ためら)うのではないでしょうか。
努力が足りないと簡単に言いますが、単に世の中に何があるのか、知らないだけです。
それは、本でも手法でも。
手を動かすというのは、能力の出しどころを知るということです。
能力が発揮しづらいのは、能力の出しどころをまだ知らないから。
やりたいことをやろうとするのではなく、実力を示せることを選び続けるとやがて、実力を示せることと、やりたいことが一致してきます。
さらには、実力を示すことで、当初の望みも叶うことがあります。

不思議と、ある研鑽を積んだ後、別のジャンルのことをやってみると、本来自分が思っていた能力は、もっと根源的なものであったと知ることがあります。
例えば、自分は文章が上手だと思っていて、デザインや編集をやってみたら、不思議とこなせる。
それは、むしろエディティングの能力だったのです。
たまたま言葉の能力が高かったために、言葉の分野で力を発揮できていたのです。

大抵は、やりたいことをやりたがります。
ところが、それでは、社会で力を発揮しづらいので、たいていの人々は、生活のための仕事に流れてゆきます。
ところが、活躍している人というのは、やりたいことでなく、実力を示せることを選んだ人たちなのです。
しかも、そうして実力を示せることを続けてゆくと、やがてそれがやりたいことになってゆきます。

“好き”こそ、その人の実力と言えるでしょう。
例えば、何かを好きな自分がいて、それに関わっているのが好きだとしたら、今の仕事をそれの視点や方法でこなすことはできないか、それを探ったらどうでしょう。

定時で帰ることを目標とする仕事の仕方もあれば、プライベートも仕事のために行動するのも一つの仕事のやり方だと思う。
好きな方を選べば好い。

キーパーソンとコンビ組めるって、重要な事だと思う。

先回りの思い出 

私は仕事場でコンピューターを使った編集をしていましたが、当時、何でもできると思われている節があるらしい。そんなわけはないのであるが、「これできる?」と聞かれたり、「来月からこう言う事とをしようと思っているんだけれど」と聞かれる。そこで私は、「無理」というのが無理な性癖を持っているので、「無理」とは言わない。
今は、編集関係のアプリケーションをこなせるようになったが、3年前までは、ほとんど使ったことがなかった。始めはなんであったか。
私が机で事務仕事をしていると、別の部署の女性がやってて来て、「イラストレーターできる?」と聞いてきた。
その時私は、できなかったのであるが、「できます」と颯爽(さっそう)と答えたのである。
聞けば来月くらいにポスターを作るから、教えてほしいとの事であった。今すぐならともかく、来月なら覚えられるだろうと、引き受けたのであった。
それから依頼があるたびに、必ず私は、「できます」か「やって見せます」か「いいよ」と答えるのであるが、たいてい、その時はやったこともないし、分からないことなのである。
つまり、依頼の度に大嘘をかましているのである。
そのままでは、嘘のままなので、プロジェクトが始まるまでに、先回りをすることになる。
参考書を買う。表紙に、「入門編」「手を動かしながら学べる」と謳(うた)っている類の参考書である。何千円もする。自費である。
参考書を手に、仕事以外の時間を使って、勉強をするわけである。
昨日の規則を今日の自分に当てはめても仕方がない。
同じく、明日の自分を今の自分の能力で決め込む必要がない。
こうして、一度作り上げる。次も依頼があるだろうと、先回りする。アプリケーションの使い方とともに、ポスターならば、デザインの本を読むという先回りである。
デザインの本を読んでいくと、活躍しているデザイナーにも詳しくなり、エッセイなども読みたくなる。そうして、雑談のネタも増えていく。
私のしている努力とはこの程度の事なのである。みんなもできるよ。
未来をつくるプロジェクト

つかみたいか、つかみたくないか、目くるめきの状態を。


脱・自分

私の人生は、ある日を境に、前期と後期に分かれている。
お金と時間は、人がもっとも不足を感じているものでしょう。前期も、「お金がもっとほしい」「時間がもっとほしい」といった、こういう極端に一般的な自分の思いがいつまでたってもありました。
ある時、その考えに自分からケリを入れるような事をしだした。
時間もお金も人のため、人のことを考えて使うようにしたのです。反転させたのです。別に寄付をするとか、おごるとか、ボランティアをするという話ではない。前期の場合、そういう行動が、ことごとく「自分は立派、一人前」という虚像に向かって投げられる消尽(消尽)にしかならなかったのである。
今、後期は、日常使う物のほかは、仕事で使うものしか買わなくなった。服にしても、よそ行きも部屋着ももっていない。パジャマは持っているが、残りはすべて仕事着である。一日家にいる時も、出かける時も、仕事場とほぼ同じ格好をしている。仕事に私服で行っているとも言えるが。

二十歳を過ぎれば、人生で最も長い時間を費やすのが仕事であるから、高収入も大事だけど、やはりどこか楽しくできるような仕事を選んだ方が続けられると思う。
お金のためだけにやるような仕事をして、ストレスが高じて、欲望に走り、また欲望を満たさんかために高収入にしがみつくのでは、何のための人生なのかと言うことになってしまう。

時間の使い方にしても、待ち合わせや仕事は一時間前行動になったし、休みの日に家にいる時も、仕事の下準備をしています。たとえば、コンピューターの参考書で勉強していたり、デザインのラフを作っていたりします。

人間の性格は、そうそう変わるものでもないと思う。だけど、今一つの性格になってしまったからと言って、そのまま生きていたら、そのままなのは当たり前。要は、用い方ということになる。

私の場合、もともとやりたいことも、自分の道楽もろくになかったようですし。

同僚も上司も部下も自分の顧客である

自分は職人のように何かを作り上げる作業をするのではなく、その場になかったものを皆と一から作り上げる仕事の方が向いている。
それをやらせてもらえるのなら、自分でうんぬん言うのではなくて、背伸びしようが屈もうが、やって見せなくてはならない。
自分一人で決めるのではない。
仕事なんだから、その結果でさえ、自分一人で負うこともないし。

別に山に籠らずとも成し遂げられることもあるよ。
でも、自分が何をやりたいという気持ちは、やっぱり今もなくなったまま。
もう、今の私は、人として最低限のこと―背筋を伸ばすこと、挨拶をすること、微笑むこと―それくらいしかできないのかもしれない。しかし、そういう自分でも残った力を結集して、目の前の仕事に当たることくらいはできるだろう、大切な人たちの依頼にこたえることくらいはできるだろう、そう思っている。そして、それは毎日楽しい。


「毎日、明日遠足」by箭内道彦


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?