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【小説】蛸親爺(たこおやじ)【168枚】

その一

居酒屋の前の往来、路のまんなかで蛸が酔っている。
「たーこたーこ、たーこたーこ」と地面を手で叩いて拍子をつけながら、
蛸が声高に唄う。
花風の吹く夕、往来に面して油染みた暖簾を出す居酒屋の、店先にはビールケースが積まれ、立て看板、一升壜、牡蠣殻が並ぶ。朱塗りの行燈の明りの先に、蛸が八本ある足をだらりと伸ばし、腹を兼ねた頭を横様に倒しながら、墨吐き口を突き出して唄っている。
唄う合間に、「ういーっ」と一つ吐く。また唄う。それを繰り返す。行き交う人々は、『あれは何だ』という様な眼で見ている。
青年が一人、なだらかな肩をまっすぐに起こしつつ、電気屋、乾物屋、鳥肉屋と並び、居酒屋に続く商店街を歩いて来た。下へ向けた視線の先には蛸が酔っている。
「おっ、そこの兄さん。どうだい景気は」と蛸はねめすえた。
「いや、まあ」と青年は細面に呆れた顔付を見せて、足をとめた。
「いや、まあ。か。いいねえ。いや、まあ。まったく、世のなか、何事も
『いや、まあ』くらいがちょうどいいってもんだ」
「そうですね。それでは」と青年は素っ気なく相槌を打って立ち去ろうとする。
「おっ、どこか用でもあるのかい」蛸が這いずって引きとめた。
「別に、家に帰るところです」
「おお、そうかい。そりゃ奇遇だ。おれもこれから家に帰るところよ」
「そうですか。では」と話を切ろうとする青年の足下に蛸が滑り寄った。「いやいやいや、ちょっと待ちなって。どうせなら一緒に帰ろうじゃないの。兄さん、あれだろ。小川さんところの子だろ」
「え、ええ」と青年はたじろぐ。
「だろ。おれはあれだよ。山本。知ってるでしょ。向う横丁の」
「ええ、一応」
「おれは山本の所で間借りしてんだ。と言っても壺だけどな。アッハッハ」
青年が歩き出して、蛸も並んでついて行く。地を這う大柄なヒトデの様である。
「いやあ。今日は昼間っから飲んだ、飲んだ。日の暮れねえうちの酒はこたえられねえな。コマーシャルでやってる様な酒は大抵だめだが、明るいうちから飲みゃ甘露だな。見てよ。顔真っ赤でしょ。茹でなくても赤くなっちゃった。アッハッハ。腰も抜けてます。でも肩は借りません。蛸だから」
蛸は足をしならせて、からからと笑い、青年へ顔を向けると別の話へ飛ぶ。
「しっかし、あの、暗渠の流れの角のマンション建設もどうなるのかね。ずうっと空き地のまんまだよ。この辺の者は残らず反対しているし、一昨日通りかかったら、建設許可証が外れていたけどね。諦めるのかね」
「あそこは、景観に気を配りながら通りより引っこめて、緩やかな段々畑のようなマンションに設計し直しているらしいですよ。壁も淡いクリーム色にするとかで」と青年は答えた。
「へえ、そうなの。しかし、皆景観保全とか言っちゃって、あのマンションの辻向いのアパート見ろ。壁なんか、どピンクだよ。それが塀もなくて。その隣は玉子色に塗っちゃった家とかが、往来いっぱいにまで迫り出して、それがまた赤だ緑だっつうのぼり立てて景観守れってやってんだから、どっちがどっちだか、わかりゃあしないよ。そう思わない」
「え、ええ、そうですね」
「その点、小川さん家は立派だ。今でも生垣を結いめぐらせている。いいねえ。うちの隣の毛糸屋なんか、家ごと立て直すってんで、どうするのかと思ったら、マッチ箱みたいな三階建てで。まあ、手ぶらで挨拶に来るくれえだから、ろくなもんは建てねえだろうと思ってたけどよ。せっかくの地面もコンクリートで塞いじゃって。生垣はもちろん、塀もなし。門もなし。そのくせ、いっちょまえに車止める所は拵えてよ。この間なんか、路を渡ったとっつきで、いきなり警笛鳴らしやがって、まるで犬猫扱いよ。
しかし毛糸屋って、そんなに儲かるのかね」と青年に向く。
「毛糸を仕入れて並べておくだけですから」
「毛糸屋を閉めた際は、老夫婦、これで御隠居だ。ご苦労様でした。あとは、長年暮らした家でごゆっくりって思っていたら、普請って話だ。他に儲け口を持っていたのかもな。住宅メーカーの若い営業の他に、上役みたいなのがついて来たから。一括で払ったんだよ。でもあれだな、やっぱりいくら立派に築いても、門がねえと締まらねえな、家は。見た有様は蔵か櫓だな。うちの素人下宿なんかでもよ、門開けてそのまま一歩も入らずに玄関の戸を引けるからね。それほど狭くったって、やっぱり門があるといいわな。帰ってきたって感じがあるはずよ」
「そうですねえ。門があった方が出(で)入(はい)りが気楽でしょうね」
「ありゃ、一つ間があるんだな。玄関の出端に往来じゃ、そわそわしちまうんだよ。自分の身が内から外へ出んとするのに、つかの間でもあると違うんだよ。それが庭なり、アパートの廊下でもいいわな。そういう、内と外の間があれば神経が楽なんだ。帰りも同じことよ。往来からいきなり家だと、外の気が入り込んで来る様で落ち着かないんだな。と、そういえば、小川さんのご主人最近遅いんだって」と蛸の口から洩れる話の流れはまた変る。
「ええ、残業が多いようで」
「本当に。コレなんじゃないの」と蛸は小指のつもりで足の先を一本立てた。
「そんな甲斐性ないか。アッハッハ。いや、これは失敬。でも、体はいたわった方がいいよ。今、歳は関係ないから」
「おじさんも、気をつけて下さい」と青年も気を遣った。
「おじさんか。へへっ。そうなんだよ。おれはこう見えておじさんなんだ。この間までは、背広を着て会社に通っていたのになあ。どうしてこうなったか。我が身ながら見当がつかねえ。蛸になっちゃ、人の見方が違うからねえ。この間なんて、家賃入れるの怠ったら山本のかみさん、大家だな。それが帰ったら蛸壺がおっぽり出されてたんだ。往来に。驚いたね。慌てて拾って家に入ったら、『月末(つきずえ)までに、三万。きちん、きちん、と入れてもらわないと困りますやね』とかぬかすんだ。いくら家賃を納めねえからって、いきなり蛸壺を放り出すこたあねえじゃねえか」
「下宿住まいもつらそうですね」
「おう。おれが晩飯食ってる傍から掃除機かけやがるからな。おれの行く所、出る所ばかり掃きやがる」
そこに黒い犬を先にして、ジャージ姿の男と女が歩いて来た。鎖をつけていない。男の飼い主がゴム毬を投げた。電柱の手前で止まったところに犬がかけ寄った。ボールを行き過ぎ、夢中で電柱の臭いをかぐ。ゴム毬は飼い主が拾った。
青年は犬連れが行き過ぎるまで、とどまっていた。
青年は目を蛸に移し、
「おじさんは、どうして蛸になったんですか」と問うた。
「それよ。おれもさっぱりわからねえんだが、あれは蒸し暑い日で、ホームで電車を待つ間にのぼせ上りそうなほどだった。会社もひけて、甲武線に乗っていたんだ。妙に電車が揺れる日で、進んだり止ったり、下手ッくそな運転だな、と思っていたら、駅の手前で滞っちまって、五分も十分も動かねえのよ。ホームはそこなんだからよ。降ろして歩かせろ、って言いかけたら動き出して、そしたらまた、『キキィーッ』っとレールの軋む音が耳をつんざいたんだ。頭がぐわあんとなった。たまらず目を瞑ったら腰が抜けちまってて、床に滑り落ちていてな。今度はけしきが虚ろなんだ。途端にみんなぐるぐる回り出して、ひっくり返ったかと思った。
まわりは靴ばかり見えた。慌てたね。とにかく動こうとしたら、床に足が投げ出される感じで。目の前に蛸の足が見えるんだよ。常に三、四本。手はどうした、手は。と思って手を動かそうとしても、やっぱり足が動いちまう。三、四本がうねうねと。あっとたまげて、これは蛸になっちまったんだな。おれは思ったね。
何しろラッシュアワーだ。考える間もなく人が押し寄せて、とにかく電車の外に出たよ。出たはいいが、さて、どうしよう。駅を出てよ。硬い地面の上を歩いたね。これが痛いんだ。歩くうちにするすると行けるようになったがな。はじめのうちは慣れねえから、足をぶん投げる様に歩いたわ。松の廊下を行く大名の如きだな。公園まで来て、少し落ち着くかと思ってベンチに行ったら、植え込みに猫がいた。葉っぱを食っててな。『あっ猫だ』と思ったら、猫も気がついて、こっち見たからさ、話しかけてみたよ。何しろこっちは蛸だ。猫にだって話が通るかもしれないってね。
『こんばんは』って挨拶してみた。そしたら、猫は身を震わせて、目を丸くしているんだ。おれは通じたのかと思って、手を挙げて近づいたら飛び跳ねて、逃げて行っちまった。
その後は、浄水場までたどり着いて。表は車や自転車で険呑だから、路地へ入った。角を折れると一本道だ。浄水場の板塀を右に離れれば、神社の森だ。くろぐろとした道が伸びた片側には、鳥居や石灯籠や、杉の木立がただの黒い物となって並んでいる。化け物屋敷の廊下を行く様な心持だ。烏がまとめて十羽ほど、森から飛び立った時は一度こらえたが、出し抜けに犬が吠えた時にゃ、肝を抜かれて腰が抜けかけたわ。腰は無かったんだけどな。へへっ。それでびっくりした拍子に板塀の破れ目から浄水場入りこめちまって、足一本入る程度の隙間だったが、骨も殻もねえ軟体動物にゃわけねえさ。
入りこんだ所にあったのが貯水池よ。妙なものでやっぱり蛸なんだなあ。水を前にしたら、体が誘われる様で。身を躍らせて貯水池へ飛び込んだ。いや、習慣てのは無益なことをさせると思ったよ。何をしたと思う。息を止めたんだよ。これが。もちろん、ぜんぜん苦しかないんだよ。足を八方に広げてな。落下傘のていでふわりふわりと底まで下りて。月の光が射し込んで、水の底が蒼く漂っててさ。体は自在さ。するすると底を這って、あちらこちらに行ったり来たり。飽きたら、吸盤と吸盤を合わせたり離したりして。
ふと、腹が減ったな、蛸は何食うのかと思ったけれども、なんでも食えそうだ。まあいいや、戻ろう。と水の上に顔を出すと、壁が遙かに上まで続いている。今こそ、この吸盤が役に立つだろう。たやすいこった。吸盤つけときゃ落ちやしないからな。まずは吸盤をくっつけてさ、二本目も投げる様に、ぺたって、貼りつけて力を入れ、体を引き上げようとした途端に水に落ちたのよ。吸盤ってのは妙なもんでさ。力を入れなくとも吸いつくのよ。ところが、力を入れても吸いつく力が強くなるわけじゃないんだな。焦ったねえ。重ねてやっても同じことよ。壁のコーティング剤が相性悪いのか、吸盤にぴたりとこねえのよ。上るのは止して、水底へ潜ってさ。手立てはないかと思いめぐらせて。水の上に顔を出してみれば、コンクリートの壁が聳えていて、区切られた夜空があるだけ」
「満月って言いましたっけ」と青年はしるこ屋の角を曲がる。
「そう言ったっけか。何にせよ、物陰でもあれば落ち着けるんだが。もちろん生きた物なんていないし。と思った矢先に何かが動いて、来るんだ。太いのが来るな、と見れば歯の鋭いうつぼよ。なんでうつぼが来るのよ。
飼われていた奴だ。頸に革紐が巻いてあったからな」
「どうしてうつぼが貯水槽に入り込んだんでしょうか」
「さあな、どこかの奴が、浄水場に放り入れたんじゃねえか。とにかく、うつぼだ。大きく口開けて、のたくりながら近づいて来る。うつぼにゃ勝てねえ。うつぼがおれを食いに来たさ。おれを食うのかって聞いたら、『くう。』って言ったからね。口開けて『くう。』って頷いたわ。丸い目をして。
おれがうつぼに食われる。その寸前に、『どぼん』って何かが降って来たのよ。それが甲胄の如き伊勢エビでさ」
「おじさん、それは実際の話ですか」
「そうよ。ここにいるおれが蛸なら、ありゃ夢じゃねえ」
「航空便から落ちてきたんですかね」と青年は考察した。
「どうだかな。丈夫な伊勢エビだ。それがうつぼの前に立ちはだかった。泳いでな。どうも、うつぼの奴は伊勢エビがいけすかねえらしいのよ。斜に構えて伊勢エビの方をチラチラ見ていたからね。おれはおれで、だんだん伊勢エビを食いたくなってな。
それで三竦みよ。おれが伊勢エビを食ったら、おれがうつぼに食われる。伊勢エビがうつぼを倒したら、おれが伊勢エビを食うだろうな。うつぼが動いておれを食っちまったら、どうもうつぼはいやだろうな。伊勢エビと二人きりで。ストレスたまりそうだ。うつぼの奴、おれに近づきながら神経は伊勢エビに向いていたからね」
「伊勢エビは、うつぼの視線が気にならないんですかね」
「時折、跳ねていたな。うつぼはその度に引き返して行く。それでよ、いい加減、ぢっとしてても仕方がねえ。おれがまず、うつぼに踊りかかった。うつぼは壁や底に当たると引き返す癖があるらしくてな。その隙に乗っかって。いや、勝てると思っちゃいなかったが、こっちは蛸でも頭は人間だ。うつぼ如きになめられてたまるかって気を奮わせて。それに伊勢エビの奴も助太刀をしてくれるだろうと当てこんでいたから。そうしたら、伊勢エビの奴、どっかに行きやがった。おれが食われたら自分の天下だと思っていやがるのか。おれだって気を遣ってやったのよ。
うつぼは強え強え。蛸の力じゃどうにも太刀打ちできねえ。革紐で締めつけてやろうと思ったんだが、頭から抜けちまった。うつぼの目が光ったと思ったら、振り落とされた。伊勢エビを具足煮にして食っとくべきだったと観念した間際、地の割れる様な音がし出して、地面が引き抜かれた気がした。行き着いた先が暗くてな。見通しが利かねえ。ふと、何かにしがみつきたくなってさ。水のなかでやたらめったら足をうねらせた。出口の知れねえ貯水池で頭が痺れてきて、しまいに墨でも吐いてみたが、何にもならない」
蛸は俯いて、青年に後頭部を見せながら、胴震いを一つした。
「それがな、正気に返ったら蒲団で寝ているんだ。何だ夢か。やっぱりあれだな。昼に弁当食った後で、割り箸を折らずに捨てたのが間違いだった」
「そのお呪い、民俗学の授業で習いましたよ」
「そういうところから隙が出るのよ。おかげで狐か狸に化かされちまったな。恐ろしい夢だったって、蒲団を摑んだら、手が蛸なのよ」と蛸は足の一本を挙げてくねらせた。「それで起きたはいいが頭が働かねえ。廊下を行く音がしたなと思ったら、女房が来て、おれを見るなり、短く叫んで廊下に下がったと思ったら、箒と塵取りを手にして出て来た。『何だ』と言う間もなく、おれを塵取りと箒で挟みつけて、そのまま塵取りごと、庭の焼却炉に叩き込みやがった。すぐに煙突から這い上がって。女房の奴は家に入っちまったか、だめだこりゃ。当分話にならねえって、出たわ」
蛸と青年は、一軒の家の前で立ち止まった。
「おじさんの家はここですよね」
青年の言った先には、勝手口の様な門構えの家がある。細い門柱には御影石を刻んで『山本』と印して、下に『貸間アリ』の札が下がる。めぐらされた板塀の隙間に顔を出した岩蓮華は、たそがれに色を失ったまま動かない。
「おう、そうだな。じゃまたな。今度遊びに来てくれよ」
「はい、さようなら」
青年は会釈して去った。
めぐらされた板塀を押し退けんばかりに家が建つために、塀と壁の間は、帯ほどの地面があるばかり。門と玄関の間は蛸の頭ほどもない。一歩入って門を閉めれば蛸の頭がつっかえる。
蛸は往来に立ったまま門を開け、玄関の戸を開け、敷居を二つながら跨いで門を閉め、玄関の戸を引いた。
家の内からは、「あーあ」という山本のおかみの溜息が、外では街燈が明滅して夜になった。

その二

空の晴れて曇りのない昼下がり、路地裏の遊歩道に面した家では大工の
叩き慣れた鎚の音が響く。
「おめえ風呂入ってねえのか―おめえ風呂入って洗っとけ」という親方
の声が流れ出る。
二軒離れたベンチに腰掛けて、蛸がカップ酒片手に酔い臥していた。足
を垂らせて頭を後ろに倒し、墨吐き口を上へ突き出している。
「たーこたーこ。たーこたーこ。うーい」とひとつおくびをした。
「しっかし、この頃の家は庭を作らねえな」と足の一本を背もたれに引っ
掛け、また別の一本を使って、ベンチを叩いて寝ながら拍子をとっている。
二拍子である。
合いの手を入れる様に酒を飲む。また叩く。唄う。
普請中の隣では、擁(まがき)に咲くたんぽぽの日溜りに、猫が五、六匹、思い
思いの向きで、やわらかに昼寝している。向いの石塀の上にも肥えた白猫
が、目を細めて伏せている。
並びの一段高い塀の上に、烏がひとつ羽を休めていた。塀を宿木として
足で摑まず、塀の向きに沿って坐っている。穏やかに蹲って、趣が猫であ
る。体は丸々と膨れ、反射のある羽を膨らませている。
「なんだか、猫見てえな烏がいるね。目も猫の様だ。まわりの猫のまねを
してんだな、ありゃ」

小川青年が白く光る道を歩いて来た。
生い茂った初夏の梢の間を日の光が洩れてゆらぎ落ち、青年の額からシャツにまで葉陰を落としている。
向こう角からはお婆さんが立ち木の陰を踏んで、日傘を差して来た。後ろからは主婦体の者がペダルを漕ぐ音を先だてて、向かう先に一刻の猶予もない一大事が控えているかの様に、自転車を飛ばして来た。片手で日傘を差して馬上の騎士の様にぐんぐん来た。青年はあらかじめ脇に寄って歩く。自転車はお婆さんを追い抜かす。青年には日傘のあおりを当てて行った。
青年は、ベンチで伸びている蛸を素通りした。
「うう、小川さん。おおう、小川さん」
蛸は起き直ると、八本ある足を上げて宙を泳ぎながら呼び止めた。
「あっ、おじさん。こんにちは」
「ちょいちょい察してくれないと。おれがここにこうしているんだから、呼んでよ。別に忙しかないんでしょ。そうだよね。ちょっと、まあ腰をかけなって」
蛸がベンチの席を叩いて誘うのに、
「はあ、でも帰らないといけませんので」
「そうなの。じゃ、同道しますよ」とカップ酒の残りをあおり、蛸はベンチを下りた。
蛸が小児の水遊び用の池に屈み込んで、溜り水に沈んだカップ酒を取り上げた。
「それ、おじさんのなんですか」
「ちょっとな、冷やしといたのよ」
蛸と青年は、奥まった路地で暖簾を出す鰻屋の『宇那゛幾蒲焼』と角に出された行燈の先を曲がり、屋敷の塀沿いをともに行く。
「小川さん、今日はどっか行ってきたの」
蛸は青年の髪の毛が短く刈られ、生白い額を露にしているのを見て取った。
「ええ、午後の授業が休講だったので、髪を整えてきました」
「どうりで、今日は男前だ。床屋はどこ行ってんの。相川さんあたり」
「ええ、髭当てとか上手なのはいいんですが、あのおじさん、昔からオールバックみたく仕上げてしまうんです」
「けっこう男前で似合ってるよ」「床屋に行った日だけ、この髪型なんですけれど」
「おれの学生の時分は大学に床屋があったもんだがな。今はないの」
「今でも床屋さん、ありますよ」
「安くていいんじゃないの」
「そうですね。千五百円くらいですから」
「そこ行けばいいんじゃないの」
「ええ、でも皆角刈りにされてしまうという噂で」
「皆角刈りか。そこの親爺にとっちゃ、学生は皆角刈りなんだろうな」
「かなりの年季が入った人みたいですね」
「おれなんてなあ、床屋でさっぱりしたくてもこれだからな」と蛸はつるっと額から撫で上げた。
「どうも、蛸になってから髭も生えてこないね」と顎のあたりを撫でさする。
「その昔、江戸の遊び人なんてな日がな一日髭を抜いて暇を潰したそうだが、おれもスポスポと毛抜きで抜くのはおもしろかったっけ。まあ、あてなくて済む様になった分にゃ楽でいいや。その代わり、壺の掃除をしねえとな。毎度清潔。たりらりらー」
「おじさんは楽しそうですね」と青年は左に蛸を顧みて言った。
「へへっ。そうかい。蛸になってからしがらみがなくなったからな。あとさきの思いに労するのは止した」と頭を一撫でした。
「しがらみですか」
「おう。柵と書いて、しがらみよ。ほれ、あの犬小屋のまわりに柵があるだろ」
路地の角を抜け、蛸の指し示した方には紅い屋根瓦に白い柵でかこった家の庭に、紅い屋根の犬小屋がある。犬小屋もやはり白の柵でかこんである。屋根にはイギリスの小国旗がしつらえてある。
「ええ、ありますね」
「あれがしがらみだな。自分も他人も通せんぼうだ」
「通せぬ棒ですか」
「おれあ、蛸になって、あの隙間をするするっと。大人は出られねえな。あの外にゃ。図体がでけえから」と足をくねらせる。
「貝が殻を棄てた軟体動物ですからね。蛸は。烏賊は殻を体内に入れたんですよね」
「へえ、そうなの。やっぱり、脱ぎ捨てるなら蛸だな。いや、ほんと。蛸になったから抜けられたのよ。これが蛸になる前に抜けられたら大したものだったがな」
「しがらみがなくなると、楽しくなるんですか」
「おうよ。世間繕いしたって始まらねえ。蛸だからな」
蛸と青年が行く先に、浴衣姿の男の小児が二人並んで歩いている。二人が横町へ曲ろうとした矢先に、後ろから警笛を浴びせる車が、自分の追い求める仕事に人類の未来がかかっているとでも言いたげに走り去った。
右の小児が叫んだ。
「こら、車!」
小児は腕を振り上げている。
「小児こそしがらみがありませんよね」
「その分、蛸だって人と同じ扱いよ。この間も、通りに出る横丁の出口で、信号を待っていたらさ、小児が二人、小さい自転車で来てな。そこに横丁から通りに出ようとしているトラックがいて、歩道も横丁の口も塞いでいるから通れねえのよ。小児がどうも横丁に入りたいらしいから、おれが下がってやったら、かわいらしく頭を下げて行ったもんだ」
「それはおじさんが塞いでいたんじゃないんですか」
「いやいや。話のポイントはそこじゃないのよ。そこ行くとずれちゃうからね。おれはただ横丁の角に立っていただけよ。それを後からトラックが来て塞いじまったんだからな。おれじゃねえよ」
「小さい人は見ていてかわいらしいですね」
「昨日も、下宿のおかみが、『昼間から家でぶっ坐(つわ)ってるんじゃないやね。ほかの人は皆、休みの日だって出掛けてんだい』と下唇撥ね散らかせやがる。おめえだって居るじゃねえか。隣近所の連中には、『じき帰って食事の用意にかからないと、蛸さんに怒られちゃうやね』とか、二枚も三枚も舌を使い分けやがって、どうせ見たいテレビが終わらない限り、作りゃしないんだよ。それで散歩に出たら、横丁を小児が笑いながら走って行って。ぱっと心が広がったね」
蛸と青年は、路地を抜け出て、茹で小豆屋の角から暗渠に入った。端を灰色の猫が歩いて、蛸と青年の先導者の様になった。植木を並べた家の前で止まって、猫は振り返った。扉の前まで行って、再び顧みる。蛸と青年が行き過ぎるのを見計らうと、猫は伸び上って爪で玄関扉を幾度か掻いた。扉が開き、猫は家に駆け込んだ。
「僕が言うのもなんですが、近頃は小児が少なくなりましたねえ」
「今見て過ぎた家も、一昔前までは駄菓子屋で、小児が寄り集まっていたもんだがな」
「その暗渠のジャングルジムや砂場にも、小児が遊んでいましたが」
青年が言った先には、元の小流れを埋めて暗渠とした遊歩道にジャングルジムが鈍く光っている。
「暗渠だってよ。ありゃ何したんだ。土の上にコンクリートを流しちまって」
「雨の日には泥になってぬかるむから、らしいですよ。車を出しにくいって」
「いつの間にか、暗渠沿いに家が立つ様になったけどなあ。あそこは小児の遊び場だろ。下をコンクリートで固めちまったら、うっかり転べもしねえ。ジャングルジムだけ元のまま置いて、さあ、また遊べって、危ねえっつうんだよ」
「あのジャングルジムは取り払うそうですよ」
「え、なんで」
「小児が落ちたら危ないからって。区役所がそう連絡受けたので、決定したらしいです」
「なんか順序が変だな。よくわからねえぞ」
「道端で遊ぶ小児もあまり見ませんね」
「道もなあ。ことごとく通行路として問題ねえように整備しちまうから、それ以外のことをすると危なくなるんだな。そういや、昔の小児は着物の背に、小さい紐をぶら下げていたものよ」
「何かのお呪いですか」
「小児が池なんかに落っこちそうになった間際に、神様が引っ張り上げてくれるのよ。その紐を摑んで」
「はあ、かわいらしいですね」
「だろ。ああ、着いた」
蛸と青年は『貸間アリ』とボール紙に赤のマジックで鋭く書いた札の下がる家の前に止った。一字一字に丸と三角が付けられ、連続模様をなしている。
「さようなら」
「今度野球でも見に行こうぜ。野球。それじゃあな。ああ、その前に職を見つけねえとな。まあ、いいや。たーこたーこ。たーこたーこ」 蛸が門のうちに入って咳払いを一度した。
途端におかみの、「エヘン、エヘン」という咳払いが繰り返された。


その三

車の音が塊となって響き続ける大通り。銀杏並木の枝に烏がとまって一
つなく。乗合バスの停留所に蛸が立つ。
蛸は頭に黒いネクタイを巻き、こめかみから垂らせている。
「たーこたーこ。たーこたーこ。来ねえバスだな。行き先違いのバスばか
りだ。日曜日の四時台は時刻表に十分間隔とありますが、三十分も来ませ
んな」
蛸の鼻先をトラックが車体を軋ませて去り、排気ガスが蛸の頭を滑る。「おう。びっくりした。げほげほ。こんな所で待っていちゃ、こっちがくたばっちまうわ」
青葉を吹かせるべき風が、街路樹の埃を払い、一枚の葉を蛸の頭に吹き落とす。
「桃見、観梅、桜狩。木もなんだな。上の方にちょぼちょぼだ。葉っぱも下の方はからきし枯れ木だな。あれも草山にでも生えたかっただろうに」と蛸は見上げた。
烏が見下ろす歩道の端を、小川青年が包みを下げてきた。
「おじさん、こんにちは」と糊気のあるシャツ姿で挨拶をした。
「おう。こりゃ小川さん。お出ましを願い」蛸は足を立てて挨拶のつもりである。
「今帰りかい」
「ええ、古本屋に行ってきまして。おじさんも帰りですか」
「ああ、御覧の通りよ」と蛸は黒ネクタイをつまんで見せた。
「それにつけても来ねえバスだな」と伸び上って通りを窺った。
「ギョーザー」と餃子屋のワゴン車が、後ろの戸を上げた先に、丸提灯に
餃子と書いたのをぶら下げて通りの端を行く。
「ここのは、なかなか来ませんよ」
「本当だよ。何が十分間隔だ。二、三本抜いてんじゃねえか。ここで待ち合わせているうちに、向こう側で二台過ぎていったがな。餃子でもつまんじゃおうかな。おっ来たか。噂をすればっと。ああ、また別のバスだよ」バスが停留所に客を認めて寄って来た。蛸は頭の上で腕を交差させ、大きな×印を作る。
「おおう、違う。違う」と上下に揺すって示した。
バスは再び歩道から離れて行く。餃子屋を追い越して端の車線を走って行った。
「こうしないと止まっちまうからな」
「ギョーザー今できましたギョーザー」と餃子屋は、電気コンロに載ったフライパンを揺らしてバス停から離れて行った。
「しかし、あそこも建て直したんだな。おれが小児(こども)の折は木造でな。今みたいにあたりに家もなくて、林にかこまれていたからな。あの辺を通る時はなんとしても日の沈まぬうちに、と駆け出したもんよ」
「あの辺に住んでいたんですか」
「いっときな。親戚に預けられていたからな。しかし砂埃がくるね。げほげほ。坊さんに乗っけてもらえばよかった。『乗って行きなよ』ってすすめられたものの、よしといたわ」
「どこのお寺の方ですか」
「あの蛸薬師よ」
「ああ、知っています。御本尊が蛸に乗ってやって来た。との言い伝えがある」
「おれが聞き知ったのは、夜な夜な蛸が大根畑へやって来ては大根を抜いて行く。この辺もかつては大根が名産でな。それで考えた農人が大根の代わりに薬師像を埋めといたら、まんまと蛸がそれを引っこ抜いて持って行った。あくる朝見てみると、蛸は小判になっていたって話だ」
「それでお寺が建つんでしょうか」
「おれも難しいことはわからねえが、まあ、それが話のわかる坊さんでな。小太りで、七十らしいが意気盛んでよ。『今日はみなさんお忙しいでしょうから、お経は略式で行きましょうかな』とか言うんだ。おれもよ、待つ間、坊さんと隣り合わせになったんだけどよ。お互いに蛸頭だってんで、気が合っちゃって。飲むわ飲ませるわ。おれのは本当のところ頭じゃなくて腹なんだけどな。五臓六腑が入ってるのよ」と蛸は頭を叩く。バスは来ない。「待合室ったって、いまどきカフェテリアみたいになってんのよ。白の丸テーブルを皆でかこんで、それぞれに七人ずつ坐ってな。ビールやつまみが出てくるんだ。まずは坊さん、金の腕時計見ながら、『前、ここはおんぼろで、汚い木の階段昇ったもんだよ。やっぱり人間の油で煙突だめになっちゃうんだろうね』と大笑い。廊下でだって、ほかの家の者が沈んで歩いてる傍らで、『夏は暑くてさあ。今頃が一番いいよ』って笑いながら渡っテいたからな。お経にしたって、『なんまいだー、なんまいだー、なーんまいだあ、あーあーあー、えーっと』って間だけ延ばして経の本をどんどんめくって行くのよ」
「決った形の略式というのがあるのかと思いましたよ」
「ただすっ飛ばすだけだ。『活字は左利きの敵であるからね』と経本で胸先を煽いでいたし。式が済んだら、またぞろ蛸頭並べて鮨とビールよ。家に戻ったからさ。座蒲団の上でくつろいじゃって。『皆、集まりで鮨とか生臭い物食ってるよ。僕は医者に海苔巻きにしときなさいよ。甘海老食っちゃいけないよって止められているんだけどね。食っても大丈夫だったよ』と大机に並んだ鮨桶から甘海老つまんで言うのよ。『僕はビールでうがいをするからね。ヨーロッパじゃ水代わりだよ。なんでかっつうと、向こうは水がまろやかじゃないんだ。日本みたく資源がない国は水くらいうまくないとね。何か取り柄がないと、できそこないのタイ米みたいなんだから国土が。アッハッハ』って小指立てて見せて、『こんな所に一億人も住んでんだからせせこましくなるんだよ。人間が。ガハハ』大方の者は帰ってんのに、まだ飲んでんだよ。『じゃあ最後、お茶代わりにビールもらおうかな』と他人に注がせておいて、『出されちゃったものはしょうがないな』と泡を啜って、『泡食っちゃった。アッハッハ。おや、まだビールが半分ほど残っていますな。気の抜けないうちに飲まないと』残ったビールを手酌して帰ったな」
「気軽なお坊さんですね」
「うん、実際ね。あれで妻帯もしてねえんだ。かえって律儀に経を上げる住職に、『今度、下の息子が大学に入りまして』とか言われちゃしらけちまう」
「普通のお寺は世襲でしょうからね」
「今時、財産の処置にも手間取りそうだ」
「バスが来ましたよ」と通りを窺っていた青年が教えた。
「おあ、やあと来たか」バスの扉が開く。
「うーい」と蛸は上がろうとしてよろめくも、八本の足で調子をとって立て直す。
「大丈夫ですか」青年は手を添えて支えようとする。
「今頃酔いが回ってきたわ。おお、空いてる。空いてる」蛸は床を滑って後ろの席へ。青年も並んで腰掛けた。
「今日は、おじさんの親戚とかの式だったんですか」
「いや、魚久の親爺の弟のつれあいの婆さんだ。爺さんだっけ」
「そのあたりになると、親戚になるんでしょうか」
「まあ、ああいうのは、暇なら加わったらいいのよ。酒も肴も余るんだか
ら」
「ところで、おじさんの御家族はどうしているんですか」
「いるよ。祝山通りの三丁目に住んでる。小さいながら一軒家だ。家内はもと玉子屋の娘でな。今は店は閉めちまったが、まあ、その辺の話はいいや。二十年も連れ添ってるから。娘は今年で高校を卒業したはずだ。いや、去年したんだっけな。色白で、鼻は小せえが、目は黒目がちでよ。髪は小児の時分から幾分栗色でさ。へへっ」
「おじさんは帰らないんですか」
「それがよ。帰ったんだよ。蛸になった日に一度帰って、叩き出されて。頃合いを見計らって、また行って、門の前で、さて、どうやって区別順序を立てて話したらいいのか。『あなたの旦那さんは先日、電車のなかで蛸になりましてな。それが私です』とか言ってもなあ。仰天しちまうだけだ。ああ、めんどうだってんで、前と同じ調子で入ったわけよ。戸を引いて、『帰ったぞ』『あなたどこへ行ってたんです。ぎゃああ』よ。猫が尻尾を踏まれたような声出しやがって。出てきた娘には、箒で追い出される始末。それから通りかかってもいねえ」
「そうだったんですか。でも時がたてば、わかってくれると思いますよ」
「へへっ。そうなりゃ、うれしいね」
バスが停留所で止まり、背の高い女の子が段を上がった。運転手の、「小児だよね」に、「おとなです」と答えた。
扉が閉まらぬ先に『ピーッ』と降車ブザーを鳴らせた者がいた。
「降りるんですか」と運転手がマイクで問うた。出口の脇の席から男が、「次です」と答えてバスは出た。
「なんだ、気の早い奴だ」
「近頃、大人もすぐに押しますね」
「へえ、せっかちな者が増えたのかな」と話すうちに、『かつら一丁目 理容アイカワ前』とアナウンスが流れた。
「あ、着きましたね。降りましょう」
「おおう」
蛸と青年はバス停に降りる。
横町に入れば、垣根に咲く金雀枝(えにしだ)の黄色い匂いがしだした。
「川置屋の黍団子を食べた。久玖利屋の草団子を食べた」という男の小児の、あたりに投げ散らかす様な声が、裏路地から伝わってくる。
「では、僕はこっちの方なので」
青年は半ば蛸に背を向けつつ、会釈をしながら歩き出す。
「お、そうかい。今度またゆっくり飯でも。あっそうだ、小川さん」と蛸は振り返りながら声を高くして青年を呼ぶ。
しかし、青年は疾く次の角を曲がったと見えて答えがない。
「まあいいや、たーこたーこ。たーこたーこ」
薄曇の重なる空は低く、湿気を孕んだ風が、家々のうちならぶ路地から行人を絶った。 


その四

「たーこたーこ、たーこたーこ」と蛸が午過ぎに町医者の前を行く。
口を絞って手に提げた頭陀袋(ずだぶくろ)は、ウイスキー瓶の形に膨らむ。頸には包帯を巻いている。
青年が医院の戸から、短い草のまじる庭の砂利を踏みつつ、開け放たれた門に下って来た。
出たところで右を向く。蛸には背を向けた形となる。
蛸が青年に追い縋った。
「いやいや、ちょっと、蛸だよ。蛸。こんにちは。妙な所で会いますなあ。
小川さん、どこか患ったのかい」
「僕はアレルギーで」
「ああそう。ありゃ痒いらしいねえ」
「魚介類を生のまま食べるとじんましんが出て、赤く腫れるんです」
「小さい頃からそうなのかい」
「いえ、この間、ぬた膾(なます)を食べたら全身にじんましんが出て。お医者さんの言うには、過度のストレスがかかる場合、今まで反応しなかった物でもアレルギー反応が出て、それからはストレスが引いても、アレルギー反応だけが残ることがあるそうです」
「ストレスって何かしてたの」
「ええ、ちよっと合わない所でアルバイトをしていまして」
「おれが蛸になっちまったのもアレルギーかも知れねえな」
「はあ」
「でもどうなのかね。痒いの我慢して、食うべきもん食って栄養取った方がいいのかね」「アレルギーは、じんましんばかりではありませんよ。花粉症や喘息、酷いとショック症状を引き起こします」
「へえ、そうなの。おれは、じんましんのことかと思ってた。また気取って横文字にしていやがるなって。で、帰する所はストレスなんでしょ」
「僕の場合、そうらしいです。あまり実感はありませんが」
「いや、体を信じないと。今や、ストレスは万病の元だな。大事にしねえと」
散歩犬が往来を行く。爺さんを従えて、蛸と青年を過ぎた。辻に出て脚を踏ん張り、右、左と見る。飼い主は電信柱に結び合わせた『男の身だしなみ  徒歩三分』と書かれたしし 看板を見ている。
「昔っからあるけどな。〝獣食った報い〞と言ってな。隠れて変な肉食うとじんましんが出るもんだ」
「僕もアレルギーになるとは思ってもみませんでした」
「おれなんか、下宿のおかみアレルギーだ」
「対人恐怖の一種ですか」
「おかみの出す物音ひとつ聞いただけで竦み上がる思いだ。おかみが戸を引く音で、動きが止まっちまうのよ。ショック症状だな。それから息を潜めて、おかみが動きをやめてから、ようやくまた動けるから。朝に目が覚めたら、まずおかみが家のどの辺にいるのかを気配で探って、それで蛸壺から足を出して、まわりを確かめてから起き出すのよ」
「起きるのに、手順があるんですね」
「手順ちゅうかな、おかみの姿を見たら、それこそパニックだ」
「それも広い意味でのアレルギーでしょうね」
「そうだな、あれだ。三年寝太郎だ」
「昔話ですか」
「そう。おれもなあ。三年くれないかしら。三年でなんとかするから。そっとしておいてくれないもんかね」
「三年寝太郎はそういう話でしたか」
「まあ、ありゃ、坐食している者をそしるわけだが、しまいに、長者の娘を得るだろ。長者の娘ってのは象徴で、つまり富と名声だ。三年三月っていう期間も象徴で、長い間のことだ。長い間世間から外れていた者が、策略をめぐらせて富と名声を得るという、そういう話だ」
「富と名声ですか。世間から外れていたら、皆が物珍しがって、そういう結論になるんでしょうか」
「ある程度、世間から離れてみねえと見えねえものもあるのよ」
「そういえば、アインシュタイン博士は、書斎に二週間ほどこもって、相対性理論を考えたそうですし、若冲なども一年間、鶏を観察し続けたらしいですね」
「だろ。寝太郎だって、いっぱしのもんになったから、めでたし、めでたしだが、それまでは〝寝太郎〞ってのらくら扱いだったわけだから」
「〝寝太郎〞って言いたかったんでしょうね。ほかの人たちも言っているし」
「例えばある種の三年寝太郎が、寝ながら大根畑の肥料のことでも考えているとするだろ。その話をまわりの農人が聞いても、『夢見てえなこと考えてねえで、畑へ出ろ』とその場で足を踏みかえる。ある日、殿様の耳に届いて、『それは理に適った考えだ。ぜひそうしよう』って、やってみたら今までの二倍も三倍も大根が取れる様になった。やってることは変らないが、収入が違う。たちどころにして大尽(だいじん)だ。それを見て農人曰く、『ありゃ大した者だ』と掌を返すわけだ」
「〝掌返し〞ですか。昔話に出てくる大衆の得意技ですよね」
「〝寝太郎〞って呼び捨てにしていた者が『三年さん』なんつってな」
「太郎さんになるんじゃないですか」
「寝太郎がよ、畑に出たって、ぜいぜい喘ぎながら下働きがせいぜいだ。体壊すのが関の山だろ。大体、世間の奴はサラリーマンをなめてる。サラリーマンだって、やすやすと出来るわけじゃねえ。おれは勤続三十年だ」そこに看護婦が下りて来た。
「あら、蛸さん。ご加減はいかがかしら。痛みますか」
「ああ、こりゃどうも。ちと痛みますがね」
「あまり痛む様なら来て下さい」と門を閉める。
「まあ、今日は大丈夫でしょう」
「お大事に」
「そういや、小川さん、午飯食った」
「いえ、まだ済ませていませんが」
「それじゃ、一緒にどうよ」
「魚は食べられませんが」
「それならロールキャベツ食いに行こう。今日はロールキャベツか烏賊素麺かで決めかねてたんだよ」
「ええ、いいですね」
だんだら坂を蛸と青年が連れ立って歩く。
「おじさんの頸の包帯はどうしたんですか」
「ああ、これね」と頸の後ろに足をめぐらせて盆の窪を示した。
「ここに出来物できちゃって。一昨日メスを入れたのよ。その後、傷口に綿を突っ込んで、ぐりぐりされてよ。痛えのなんのって。麻酔もしなかったからな」
「麻酔なしですか」
「いやね。先生が切るか、薬で散らすか、どっちを選ぶかって聞くから、それじゃ場所も場所だから、薬も剣呑だ。切る方で。とのわけよ」
「原因はわかったんですか」
「それがよ。山へ行って、猿山の風呂に入ったらよ。これができちまって。先生に診てもらったら、『汚れですよ。皮膚の間に汚れが入っていますよ。何をしていたんですか』って言われてさ」
「何をしていたんですか」
「先生と同じことを聞くねえ。何、ちいと遠くへ行ってたのよ」
「おじさん、最近いらっしゃいませんでしたね」
「おお、そうなんだ。就職してたんだよ。再就職だよ。この年で。いつまでもその日暮らしではいられないから」
蛸と青年は路地を抜け出し、甘栗屋が釜を据えて栗をかき混ぜている角を曲って商店街に入る。『赤れんが』と丸太を縦に割った柱に白のペンキで書かれた、めし屋へ入った。
店は木のテーブルにベンチといった作りで、天井からは青黒い鋳物のランプが下がる。
空いた席に差し向かいになるや、蛸が足を二本掲げて、
「キャベツ巻き、二つね。いいよね」と店の奥に続いて、青年に念を押した。
「ええ、いいです」
「ここのはなんと言ってもキャベツ巻きだな。ああ、あと、ビールね」と再び奥へ告げた。
「それでさ、職安から出てきたら、『仕事あるよ』って声をかけられたのよ。振り返ると、節くれだった太い杖を突いた男で、胡散臭いな、と思ったけれども、とにかくあの時は働き口が欲しくてな。のべつに探そうと思っていたわけじゃないが、ともかくも働いて、この居堪れねえ生活から離れたいと思っていたから。仕事は山の仕事だって言うんだ。この年でさ、山稼ぎもどうかと思ったが、一年だけだってことだったし、なにしろ下宿のおかみの蛸扱いが腹に据えかねて。この間なんて、おれが縁側で猫になまり節をやっていたのよ。そうしたら、『墨でもかけてあげたらよござんしょ。蛸の墨はイカより味がいいって、聞きますやね』
こっちも三万も払ってやってるのに挫けそうになるわ。その上おかみは三万くらいなんでもねえと思っていやがる。そのくせ何としても取ろうと思っていやがる。誰のせいで、おれがこの年になって山に行くのか見せつけてやりたくなってな。それが、『あらそうですか。健康には気をつけなさって下さいよ。私もね、蛸さんの新しい商売でも始める元手を出してあげたいんですけどねえ。いえ、今度の旅費くらいは出せるんですけどね。いえ、私もねえ』って、肚にもねえことべらべらと喋くりやがって、活気づいてんだよ。渡世の品をまとめて下宿を出た時は、まあ、せいせいしたわ。雨だったけどな」
「おまちどうさま」と給仕がロールキャベツと皿に盛ったご飯、ビールを運んできた。
「ああ、グラスは二つね」と蛸はコップが一つしかないのを見て給仕に命じた。
「僕はいいですよ」と青年が制した。「ああ、そう」と蛸は一杯あおって、
「おれはこう見えても、町育ちでな。ろくに一人旅もしたことがないんだ。それが今度は山仕事だってよ。妙な興奮だったね。しがらみを捨て切った解放感と、これから待ち受ける労働への不安と」
「僕も留学に出発した際はそんな気持でした」
「うん、まあ、そんなとこ」と蛸は手酌でビールを注ぐと、一度に飲み切った。
「フェリーに乗って着いた港町から案内の通りにバスに乗ってよ。小一時間も山道を揺られたか。窓から見たら、行く手には赤錆色の山が正面に立ちはだかっていた。終点に着いたんだが、それが一つ手前から離れてて、客はおれ一人。降りた所がおれの新天地よ。バスは帰っちまった。どこの荒(あれ)野(の)かと思ったね。
小屋が一つ、二つと、道しるべのつもりか、二本松があるだけ。赤い土の上には石がごろごろしている。小さな流れがあったが、流れったって、錆び色の水がちょろちょろしているだけ。男が立っててな。迎えに来た男は三十か四十か五十か、とんと年がわからねえ男で、麻の着物で、やっぱり杖を突いて。『おめえは先月いなくなった男の代わりだ』とか言うのよ。いなくなったって、どうしていなくなったんだか。男が歩きだしたから、おれも仕方なしについて行く。うねくねとした凸凹道を一、二分行くと林に入って、そのうち道が登りになる。男は黙ってる。ひたひたと男の草履の音に引かれて山へ分け入る。気づけば下って、又登って、木板を踏んで流れを渡る。転がる石が赤くなる。木の肌は黒くなる。どこをどう通ったか、どれだけ歩いたか見当のつかねえほど歩いた。息も上がって、膝が笑って、日も翳って。一つの小屋に着いたのよ。そこが、地べたにいきなり障子が立ててある様な所でさ。剝き出しの壁は青黒くて、藁屑になりかけた畳が立てかけてあった。
手前が土間で木箱が積んである。上り口があるから入れば誰もいない。そこに、裸の男が机の下から現れた。数人の男が床にはいつくばってる。それが皆、褌(ふんどし)で雑巾を手にしている。何だここはと思ったら、『洗濯したから溢れたんだあね』と一人の筋骨逞しくて日焼けしたのが、と言っても全員その姿なんだが、そいつから雑巾を渡された」
「自己紹介前に仕事ですか」
「まずは、床掃除して。土間に山と積んである木箱を運び入れる。これが重くて。なかは反物なんだけどな。反物も、箱一杯だとこんなに重いのか。と思うくらい。これを運んでは蓋を外して、二十万とか、二百万とか書いてある値札を取って、巻き直してから値段ごとに箱に戻す」
「それを山奥でやるのがわかりません」
「おれだってわからねえ。いや、いくら棒給のためとはいえね。何だかわからないのよ。重たい箱を担いで、裸族じみた男どもと機械的な仕事をする体たらくに。『坐り込んでするな』とか言われたけれどもな。蛸だし。奴らみたく、片膝立ちでやってられねえよ。あれだよな。ふつう、こういう労働ってのは何か唄いながらするもんだろ。田植え歌に茶摘歌。樵(きこり)歌に馬子唄。どこの国の民謡にだってあらあ」
「ロシア民謡の〝ボルガの舟歌〞なんてそうですよね」
「えいこーらー。やれこーらー。えんやこりゃりゃとやれこーりゃー」と蛸は舟を漕ぐしぐさをする。
「日本語の歌詞までは知りませんが」
「ロシア民謡を聞きゃあ感じるが、ありゃ不平を鳴らしてんのよ。やってらんねえっつう、不服の申し立てに節つけて歌に仕立て上げてるんだ。それがそこの連中ときたら、一向に口をきかねえの。黙したまま。褌のまま。聞こえてくるのは何かがきしる音ばかり。まわりを取り巻く空気に胃から何かがせり上がって来る様で。ああ、蛸だから、下がって来るのか。
そうだよな。それで唄えねえ、音楽もねえならどうするか」青年は湯呑みを取って、お茶を飲む。
「頭のなかで音楽を流し続けんのよ。自分で。それが知らぬ間に唄ってるのよ。口を結んだまま。唄うことで目の前の苦役も、蛸になっちまってこんな小屋で働く己も薄めちまう。先も考えねえで、ただ目の前の箱を運べばいい。
それをどれほどやったか。とっくに日が暮れて、ようやく晩飯よ。何が出たと思う。まったくこのキャベツ巻きが殿様の食い物かと思うね」
蛸は一休みし、割り箸でロールキャベツを頬張り、二、三度嚙む。丼鉢を持って、盛られたご飯を口に入れた。
「ああ、うまい」
言いつつ、テーブルのソースさしを手に取り、楕円形のシチュー皿に垂らし込んだ。
「これがね。隠し味なのよ。小川さんもかければよかったのに」
「郷土料理にも数々ありますよね」
先にロールキャベツを食べ終えた青年が聞く。
「椀に入った汁と飯なんだけどよ。その汁に白いぶよぶよした物が入ってんのよ。ピーナッツくらいの。何、とにかく食えるんだろう、と食ったらぐにぐにしててさ。『これは何ですかい』って聞いたら、『山いか』だって言うんだよ。山いか。知らねえな。って、また聞いたらば、なめくじだっ
て言うんだよ。いや、それからは具なしの汁ばかりよ」
蛸はシチューをスプーンで口に入れ、ビールも手ずから注いで飲む。
「食べなくてよかったと思いますよ」
「山いかは、その辺にいた犬ころにやったわ。そうして一週間ばかり立った日の晩、『あの蛸、役に立たねえから明日あたり、煮て平らげちまえ』とか頭のとんがった奴が言ってんだよ。まあ、聞こえる様に言ってんだから、冗談半分の当て擦りなんだろうが、いずれ冗談でなくなるかもしれない。次の日は午(ひる)まで休みでよ。休みったって何をするでもない。まわりは禿山。始終風が吹いている。雲を見るよりほかにないわな。あんなものは、生活でも何でもない。今やってる事が、よくない未来につながってるなと感じたら、とっととやめりゃあいいのよ。おれは降りることにした。左の山には百足(むかで)が数知れずいるってえから、右の山から奔ろうと思ったね」
「バスで帰らなかったんですか」と青年はお冷のコップに手を伸ばした。「それが、おれもやめだやめだって思ったから、尋ねたのよ。『バスの始発は何時くらいなのか』って。そしたら『バスって何だあね』ときたからね。『いや、バスで来たんですがね』『ありゃ、新入り連れてくる時だけ、終点の先まで運ぶんだあね。戻るバスなんかねえね』『ああ、そんなものですかい』
ぶらぶらすると見せかけて、小屋から見えねえあたりで駆け出した。財布だけ持って。あんな辺境、金の意味がねえから奴等も手をつけなかったからな。石ころ路を奔ったんだが、さすがに迷っちまって、しかも路は石くれだらけ。加えて葉っぱが吸盤にからまる。足と足を擦り合わせて、吸盤の薄皮ごと離していたら、小屋にいた奴と出くわしちまって。散歩で道に迷ったとか何とか、ごまかそうかと思ったが、めんどくせえから墨を吐きかけてやったわ」
「落ちのびているみたいですね」
「それで麓への道を探していたら、どこから来たのか、初日から見なかった案内の男とばったり会っちまってよ。これもまた墨を吐いてな」
「おじさんにはいい武器がありますね」
「いや、こいつがとんと効かねえ。杖で突いてきやがる。後れをとったら宙吊りにされて、下手すりゃ干し蛸よ。そこに、犬の吠え立てるのが聞こえてな。山に住んでいた犬が力一杯吠えながら駆けて来た。男は、飛び跳ねて逃げ出したが、足元の草に引っかかって転んじまった。犬は、両目の上にそれぞれ斑のある犬でな。おれだけに懐いていたんだ。『山いか』をくれてやったからな。犬が振り向いて呼ぶからついて行くと、一つの路が細く通っていてな。おれは犬に引かれて、麓まで下りたら海が広がっていた。どこにでもありそうな、ひなびた漁村って景色だ。漁船が休んでて。午過ぎに着いたから港ものんびりしてて。犬もいっしょに昼寝かな。つう感じだ。
いや、助かった。ここで気を緩めてはなるまじ、岩場から水に入ってよ。蛸だからお手のものよ。少し沖へ出たところで手を振って、犬ころに、『ありがとよ』って、そしたら犬ころも、『わん』って尻尾振ってさ。
港へ回って、船の出るところで底に貼りついた。この吸盤のおかげよ。一週間ぶりだ。汽笛とともに出発だ。褌どもともおさらばだ。陸地に着いた時はほっとしたねえ。体がくにゃくにゃになったもんよ。さっそく、その辺の暖簾をくぐってさ。いやあ、金を使えるってことはありがたいね。一人前として扱われるんだよ。蛸でも。あの山奥じゃ、誰もおれの言うことなんか聞いてくれないもの。まったく信用経済さまさまだ」蛸はこの時ばかりとビールを飲む。
「船底から上がってもよかったんじゃないですか」
「券持ってねえし、途中から小判鮫と、ともに舟底にくっついて相連れになったからな。そうしたらよ、岩陰にうつぼがいてさ、こっちに上がって来るんだよ」
「小判鮫とは鮫の名ですか」
「え、ああ、鮫と名がついてはいるが、鮫とは違うんだ。おれといたのは一尺ばかりの奴だ。頭の上に、小判みたいな形の吸盤を備えていてな。自分より大柄の魚や船に貼りつくのよ。その小判鮫はよく海亀にくっつくと言ってたっけ」
「くっついてどこへ向かうんですかね」
「おれも尋ねてみたら、『わからない』だと。そんなんで済むのかねって聞いたら、『僕等は海のどこへ行っても大丈夫。あんまり遠くへ行くようならば、離れてまた別の物を探す』とのことだ」
「大きい魚にくっついて、ほかの魚に食べられない様にするんですかね」「そうらしいな。なかなか剥せねえらしいぜ。おれの吸盤とはものが違うな。離すにゃ、小判鮫の体をつかんで前に押し出す様にしねえといけねえそうだ」
「おじさんは、今はどちらに住んでいるんですか」蛸はビールを一息に干した。
「ういーっ。山本のおかみの所だよ」
「また下宿に納まったんですか」
「居酒屋からおかみに電話してよ。『戻ってもいいか』って聞いたら、『えっ』とかぬかしやがる。むかっ腹がたったがしょうがない。それにつけても合わねえ所にいるもんじゃねえな。まったく、あの山に行ってから、物忘れは酷くなる。物覚えは悪くなる。気がつけば頭のなかで唄ってる。ああ、まったく、今こうして小川さんとしやべっていても、ふとした間に頭では演歌が流れ出すんだよ。ああ」と蛸は、空のグラスを握り締めながら、頭を振った。「自動再生ですね。それにしても、よく帰ってこられましたね」
「ああ、犬ころのおかげよ。おれの爺さんなんてよ。戦前に樺太の原野に職を求めたのよ。そしたら、まあ、行ってみたら灯台守だったらしくてな。爺さんも抜け出そうと思った。もっとも樺太だ。下手に出たら遭難よ。そこで爺さん、賢明だったね。春を待ったのよ。春を待って雪が解けたら、とんずらしたんだとさ。さて、ごちそうさん。おあいそ」青年が財布を出そうとするのを、蛸がとどめた。
「ああ、いいって、いいって、おじさんに任せなよ。そのお金でノートでも買いなって」
「ごちそうさまです」と店を出てから青年は礼をした。
「いいってことよ。じゃ。たーこたーこ、たーこたーこ」
道端で草の間をつついていた雀が、蛸の身近を飛び去った。

その五

『小川』と漆で示した門札に向かって、「いい胡椒があるんですが。本場インドの物ですよ」と背広の男が商っている。
インターホンからは、「せっかくですが、結構です」と婦人の声が伝わる。背広の男は、「では資料だけ入れておきます」と郵便受にチラシを投げ入れて去った。
小川家をめぐる生垣に纏いついた鉄線の蔓が、往来の上まで伸びて揺れている。庭には黄色の花をつけた柿の木や、淡い蕾をつけた槐が枝を差し交わしている。
「たーこたーこ。たーこ、たーこ。暑いね。こう暑くちゃ乾いちまうからな。帽子をかぶらねえと。へへっ」と帽子に手をやった。
麦藁帽子を載せた蛸は、梅雨明けの風を含んだ日差しのなか、小川家の門を素通りし、生垣へ出る。
「小川さーん。小川さーん。いるー」
蛸の呼ぶ声が生垣を越えて庭を伝い、縁側に乗り、風とともに簾を動かし障子に当る。当った障子が開いて、クーラーの冷気とともに小川青年が縁側まで出た。
「あ、おじさん。こんにちは」
「今、空いてるかい」
青年は右手の人差し指を文庫本に挟み込んでいる。
「ええ。とりわけて用は」
「じゃ、野球見に行こうよ。野球。券貰ったからさ」
「ああ、いいですね。行きましょう」
「ビールでも飲みながらよ」
「少しの間待っていて下さい」
青年は障子のうちへ入る。洗面台で手を洗ってから、二階の部屋まで戻った。壁一面に据えつけてある本棚の、ブラシやスプレー缶が並ぶ棚に手を伸ばして、日焼け止めのクリームを手にした。
青年はブラシを手にする。黒塗りの本棚のガラス戸を鏡に、細い顔を映して、髪を右左と梳(くしけず)る。
待つ蛸は往来の上まで伸びた一本の鉄線蔓をつまんで、生垣に引っかけている。
蛸が足を垣根にからめて遊んでいた時、青年が三枚並べて敷いてある花崗岩を踏んで、門から出て来た。
「お待たせしました」
「いや、いいよ。急がねえから」
「試合は何時からですか」
「六時だな」
「まだ三時間もありますよ」
「いやいや。せっかく券を貰ったんだから、試合前の練習から見ねえとな」
「そういうものですか」
「なに、練習もおもしれえのよ」
路地の出口に店を構えたしるこ屋の店先に、『氷』の幟がはためいている。蛸と青年はその角を過ぎて通りに出た。
「うおん」と頭の上より、吠える様な音がした。犬にしては覚束無い吠え様である。
蛸と青年が見上げれば烏が電線にとまっている。
「今の音は烏か。犬みてえに鳴かなかったか」
「烏の声帯で犬の様に吠えると、ああなりそうですね」
奥の路地から犬の吠えるのが響いてくる。犬が吠えれば、烏は犬の声色を使って鳴き返す。
「ありゃ、烏が犬のまねをしてるんじゃねえのか」
犬は疳を高ぶらせて、吠え続ける。烏は頭を廻らせて、「がらがら」とくちばしを上げながら笑った。足でつかんだ電線を縄跳び風に揺らしている。
「烏も進化しているんですかね」
「吠える事など雑作もないこった、と犬をあざけって遊んでいるみたいだ
な」
「そういえばこの間、六儀園を通ったら、烏が夜に飛び立っていました。
照明の下でしたが」
「へえ。鳥目は治ったのかね」
往来の脇に地下鉄の入口が口を開けている。
「おじさんはエレベーターの方がいいですか」と青年は気をつかう。
「そうしてもらえるとありがてえや。階段の角がね」
蛸と青年は入口脇のエレベーターに乗り込んだ。地下に着いて扉が開いたところに、サラリーマンが二人、三人と待っている。体を斜めに肩を引いて、蛸を通した。
「いやいや。どうも」と蛸は足を挙げて通る。
「百九十円ですね。二枚買いますよ」
「ありがとうよ。帰りはおれが出すからよ。いや、やっぱり酔っちまうとあれだから、今払っとくわ。ついでに帰りの分も預けておきますよ」青年は小銭を受け取って、先に改札口を通る。
「ほいよ」と蛸は改札口に立つ鉄道従業員に切符を渡した。従業員は自動改札機に切符を入れて、先から出てきた切符を取ると、背を屈めて蛸に切符を渡す。
「どうぞお進み下さい」
「へへっ、どうも」と蛸は改札口を抜けた。
ホームへ至る階段をいざりながら降りる。
「あの自動改札ってのはなんとも難しくってね。一度は、切符の入口に手がとどかねえから、改札の埒が開いていたし、七面倒だと思ってそのまま抜けようとしたら、チャイムが鳴ったとたんに、埒が閉じやがってよ」と頭を一本の足でさすった。
「閉まるの早いですよね。あの板」「目いっぱい伸びりゃあ、なんとか届くんだが、いちいち手間取るから、ああやって駅員さんにやってもらってんのよ」
「その方が社会の経済にとってもいいと思います」
「おれなんか、なんのかのと自動改札に引っかかるけどな。前の奴がぶっ壊して通れなかったり、入ろうとしたら、反対から来た奴に止められたりな。昔は駅員が鋏持って箱に入って。それこそ、芸術的にさばいたもんよ。あれでよかったんだよ。あれで」
ホームで待っていた人が、下りる者と入れ替えに電車に入り込んでいる。
「ちょうど来ましたね」と青年も乗る。
「この電車でいいのかい」
「ええ、確かです」
青年は入口脇に腰をかけた。
青年と並んだ蛸の、目を向けた先には白人の親父と男の子供が並んでいる。子は靴を脱いで席に立ちながら、親父に手を取ってもらって遊んでいる。
「どうも地下鉄ってのは目まぐろしくってねえ。慣れねえ駅だと、右も左もねえし。無事に乗り換えが済むのは十のうち、六か七だな。乗り換えなんて賭けみたいなものでしょ」
「案内板を見るといいですよ」
「いや、案内板を見ても意味が呑み込めねえのよ。赤や黄色の丸印と矢印と、電車の名が記されてあるのは認められるんだが、眺めているうちに探していた物を忘れちまう。乗り換えようと思って階段を登って通路を廻るのに気が奪われちまって、どこまでも展望が開けないんじゃ仕方がない。
結局、人に尋ねるのが早いな」
「慣れないと難しいのかも知れません」
「あれなんだよ。地下なのがいけねえ。地面の下で矢印向けて〝あっち〞って言われたって、見通しがきかねえと。なんで地下鉄てえのは、電車が並んでないのかね。だいたい、今どこにいるのか知れねえのに、方向板の矢印だけで見えねえ先に進むのって、あれじゃ、迷路だよ」「確かに、地下街から人っ子一人いなくなったら、迷路の様に感じると思います」
「近頃の人は平気なのかね。昔は、例えば飯田橋の停車場で降りるじゃない。新宿から来て。それでまた九段の先へ行こうって時にゃ、隣の停車場に九段に行く電車が見えて待ち受けているのよ」
「電車って、都電の事ですか」
「そうよ。乗り換えの停車場が一つにまとまっていて、ありゃわかりやすかった」
「都電はのんびりしていていいですよね」
「ああ、あんまりのんびりし過ぎて、つっかえていたけどな」
「廃止された頃ですか」
「あの頃は急に車が増えてな。通りも今みてえに広くなかったし。車が都電の線路の上で止まって、客はてんでに降りていたっけ」
蛸と青年に相対して坐る白人の親父が、男の子を抱え上げて、振り動かす。揺れに任せて大きく宙を遊泳させる。逆立ちさせる。しまいに一回転させた。
蛸と青年がそのめまぐるしい有様に見入る。
「外人は憚りがねえな」
「近頃はヨーロッパでも路面電車が見直されている様です」
「またこの頃は、のんびりしてきたのかね。第一こんな地面の下じゃ、外も見えねえ」と坐っていた蛸は、頭を後ろに向けて硝子窓を指す。
「ほら、おれが映ってるだけじゃねえの。やっぱり乗り物に乗ったら、風に当たりてえな、風に」
「車でも新幹線でも、窓が開かないと、酔ってしまいます」
「やっぱり、空気が必要だよね。空気が」
地下鉄が駅で停まった。扉が開いて、十歳くらいの女の小児が入って来た。裏にローラーのついた靴で、蛸の前を滑る様に通り過ぎる。
「あ、ありゃ何だ」と蛸、驚く。
「今の子は何だか、妙な歩き方していなかったか。浮いていたぞ」
「浮いてはいませんよ。あれは、ふつうの靴底ですが、踵にローラーがつ
いていて、爪先を上げれば、ローラースケートの様に滑れるんです」
「この頃はそんな物があるのか。器用だね。へえ。踵で滑るのか。うん。
いいなあ」と小児へ向いて蛸は羨んだ。
「おじさんは乗り物が好きな様ですね」
「ああ、わかるかい。へへっ。なんていうかさ、動く物って爽快でしょ。自分はそのまま、眺めだけが動いてってさ。風を軽く感じるくれえが一番だ。あんまり早過ぎるのも忙しないわな。自転車を漕いでもね、つい立ち上がっちゃうのよ。風を満身で感じるからね。ま、自転車ももう乗らねえがな」
蛸が向かいに目を戻すと、白人の親父はくたびれたけしきで新聞を拡げている。子供は席に立ったまま、指をくわえて蛸をつくづく見ている。
蛸が体をくねらせて、子の目をみはらせているうちに駅へ着いた。
「おじさん、後楽園に着きましたよ」
「おお、そうかい」と蛸は、椅子からいざり下りた。
「エレベーターは、向こうの端ですね」
「あ、いいよ。いいよ。エスカレーターで」
蛸と青年の前には金色のスカーフを巻いた高校生が三人乗っている。
「風来る?」とまんなかの人が、抑えていたスカートの裾から手を離して聞いた。
「来るけど何してんの」
「ちょっと実験」ということを話している。
青年は『そろそろテストなんだな』と思いながらエスカレーターで運ばれている。
蛸は『綺麗な人だな』と思いながら、化粧品の広告看板を眺めている。蛸と青年は駅を出て、まだ疎らな人の流れのあとを球場へと向かう。
ドーム球場の入口の扉が開いて、内と外の気圧の違いのために風が吹き出た。
「おおっと」と蛸は麦藁帽子を抑えた。
「ドームにはこれがありますから」
「野球を見に来て帽子を飛ばされちゃかなわねえ」蛸は頸に掛けた頭(ず)陀(だ)袋(ぶくろ)から二枚の切符を出して、もぎりに渡した。
「あいよ。よろしくな。っと、ドームは涼しいねえ。昔、後楽園球場の頃は屋根なんてなくてな。真夏のデーゲームの暑さなんてな、たじろぐわ。それでも見物しながらのビールはうまかった。風薫る頃なんかは、風がそよいでのんびりと見るには最高だった。夜には、ナイターの照明が夜空を照らしててさ、そこへ白球が大きく弧を描いて放たれるわけよ。プロの打つホームランは、夜空に向かって打つから心を躍らせたんだろうなあ。
『月に向かって打て』なんつってな」階段を登り切り、客席に出た。
「まだお客さんも少ない様ですね」
外野席では早くに集まった応援団が、応援歌を記した紙を配っている。
蛸はグランドを見渡した。
「ひろいねえ。愉快愉快。おっ、練習していますな」蛸と青年は階段を二十段ばかり下りる。
「この辺でいいですか」
「そうさな」と蛸は腰をかける。
「選手がグランドを走っていますね」
「ああやってな、皆で世間話でもして、笑いながらで集注力を高める奴もいりゃ、独り黙々とこなして集注する奴もいる。まあ、打つにしても投げるにしても、やり過ぎねえこった。試合前の練習じゃ調子がいいのに、本番になるとからっきしな奴がいるが、ありゃ、相手に合わせちまうんだな」
「受験で言えば、志望校対策ばかりで学力がおぼつかない感じですかね」「辛抱は他人のため、努力は己のため。と言うがな、練習という作業をしているだけで、本番のための練習が出来てねえんだろうな。そのくせ、データ分析とか、一人前(いつちよまえ)の口聞くからな。『頭を使え』って。頭を使う前に気力と体を使わねえとな。並外れた体を持っているんだから」
「順序が逆なのかもしれません。他人の集めたデータも合格体験記みたいなものですかね」
「そうそう、単に実力不足、練習不足なだけかもな。相手が弱点突いてきたって、お構いなしで自分の力をつけりゃあいいのよ。その方が楽しいでしょ。辛抱したって、何もなりゃしない。本当よ」
「そういえば、前のワールドカップで、ブラジルは、しばらく優勝から遠ざかっていたから、堅守速攻のチームとして作ったらしいんですね。より勝ちやすい方針にしたらしくて。実際、優勝候補だったんですが、準々決勝でオランダに敗れてしまって。解説の人が、規律のよいチームだから、予定通りなら力を発揮するが、予定外の事になるとわからなくなると言っていました。『ちょっと、ブラジルは何をしていいのかわからない感じですねえ』と。予想外になった時に、すべき事がわかるのが精神力の強さとの事で」
「そうなの。おれはサッカーはわからねえが、ブラジルの敗因は、優勝から遠ざかっているからって、柄にもねえ戦術を取り入れたからだろうな。うまく行かねえ原因を情況のせいにしているから、分析しだすんだよ。そもそも弱くもない者が、弱点を突く様な事をしていたら本当に弱弱しくなりゃしないかね。強いチームは、強いチームの戦い方を貫くべきでしょ」フェンス際に居並ぶ客がグローブをはめ、左のこぶしで叩いている。
「前の人たちは、グローブをはめていますね」
「ありゃ、ホームランボールをキャッチするためよ」
「素人が直接捕球出来るものなんでしょうか」
「うまくすりゃあな。ホームランボールは貰えるしな」
「なんとなく、夢がありますね。ホームランボールは」
「まあ、ドームなんてなあ、お客が多いから、なかなかうまく出来ねえだろうがな」
「空いていれば出来そうですね」
「ありゃ、まだドームがなくて、後楽園球場だった頃な、昼間に試合見に行ったのよ。日ハム×ロッテ戦」
「ああ、両球団のファンは傍目にも熱い応援をしますよね」
「そりゃ、今の話だ。あん時はガラガラだったな。肉屋に券を貰ってね。反対側に坐った客の数を一人一人、眼で拾えたくらいだ。客の半分は酔っ払いで。普通の客より応援団の方が多いくらい。それでも日ハムの応援団は盛大にやっていたが、ロッテの方は何だか応援団いるんだかいないんだか、ポロシャツのあんちゃんが一人、ラッパを吹いてるだけだった」
「ラッパの練習をしていたわけではありませんよね」
「いや、一応ロッテの攻撃に合わせてたからな。本物のファンなんだろ。日ハムの客のヤジの方がやかましかったけどよ。それでその時も、やっぱりグローブをしたのが二人いてよ。ハムの選手がホームランを打ってな。そのうちの一人が拾ったのよ。歓声上げて、席に戻って。その後、どうしたかっつうと、見るのに飽きたか知らねえが、外野席でキャッチボールを始めたんだ。ホームランボールで。あんなもん、相撲を見に行った客がよ、勝手に升席(ますせき)で相撲を取り始める様なもんだぜ。それで試合が終わってから、『ボールにサインもらいに行こうぜ』とか言って」
「はあ、のんびりしていたんですね」
「まあな、野球の長所はそこよ。見るのが楽なのよ。野球はビールとつまみを手にのんびり見て、攻めと守りの交代の時とか休みも多いからな」
「野球は間が多いですよね」
「日本人の性に合っていたのよ。そういや、日ハム×ロッテ戦の売り子、あの時の売り子は変っていたな。確かビールと、ホットドッグを買ったと思うんだが、おれに売った後、横に坐って溜息ついてんのよ。『ピクルス余ったので、あげます』って付け合せの刻みピクルス十袋ばかりよこしてよ。そんなにいらないよ。『兄さん景気はどうだい』って聞いてみたらよ、『ええ、まあまあです。』って言うんだ。『国はどこだい』『東京です』『学生かい』『いいえ、大学は五年前に出ました』って、大学を五年も前に出てビールの売り子やってるってのも妙だからよ。ちいと話したのよ」
「おじさんは何て言ったんですか」
「犬か猫を飼えって言ってやったんだ」
「猫は不思議とかわいいですよね」
青年は選手の投球練習や打撃練習から眼を放した。外野を見ると、一人だけ走っている。
「まだ走ってる人がいますね」
「なに、あいつも、昨シーズンは打率二割八分、本塁打二十本の成績だったからな、今年は三割三十本を目指して気合が入っているんだろ。まあ、
そう言いながら、達成した者より、成績が下がった者の方が多いけどな」
「ホームランを欲しがってバランスを崩すんですかね」
「ホームランを捨てた者が三割を超えられるな。ヒットを打つ方が簡単なのに、ホームランを欲しがっちまう」
「ホームランバッターより、ヒットをこつこつ打つ人の方が引退も遅いですよね」
「体に無理がねえんだろうな」
「メジャーリーグでは、無理をさせない様に、試合で投げる球数も決まっていますからね。そもそも、練習ではあまり全力で放らないみたいですし。十分な体調で試合に臨むために練習があると言うか、むしろ普段は体調管理を結果より重視しているくらいに見えます」
「やりがちだけどな。サラリーマンと同じだな。仕事を完璧にこなしたがるのよ。若いうちは。体調そっちのけで」
「サラリーマンも体調ですか」
「そうよ。近頃じゃ、米国型社会になったって、サラリーマンなんかも、口では言うけどね、やり方がまだまだ日本式なんだよ。野球ならゲームセットで終わるでしょ。そしてすぐに次の試合が来る。サラリーマンだって同じよ。ただ、仕事振りを米国型にするなら、生活全体をしなきゃ、もつわけがないな」
「米国では仕事が次々と来ても、契約が無理をさせない様になっているみたいですからね。勤務時間や、仕事の種類も。サラリーマンも野球選手も」
「仕事は間断なく来る。家の事もやらなきゃいけない。社会はルールが増えて面倒になる。その上で、義理の会合や宴会に出席してちゃあな」
「日本人は、休みの日に休んでいないって言われますよね」
「ただ、話し合える環境を作るのも仕事のうちなのよ。サラリーマンてのは、会社を出ても、休みの日でも、休んでいたんじゃなくて、付き合いをしていたんだから。いまだに毎日、赤提灯ののれんくぐって体調を下げる様な事をしていたら、そりゃもたないよ」
「僕も、中一の時まで、近くの書道教室と、隣の家庭教師の人に教わって
いたんですが、二年に上がって、有名な進学塾に通い始めたんです。電車に乗って。でも、夜遅くなるし、成績が下がってしまったので三年になってやめました」
「そうなの。遠くの物ってのは、よさそうでも、それなりに効率がよくないからね。結果を求めて無理しちまってたのかね」
「何と言うか、我慢して勉強する様になってから覚えられなくなって」
「そうだよな。朝から晩まで勉強していたって、だらだら営業みてえな物だよな。続かなきゃしょうがない」
「体のコンディションを二の次にしたら、成績が下がりましたからね。その後、また家庭教師の人に教えてもらって、書道教室も通い始めました。僕以外は小さい人ばかりでしたが、楽しかったですね。字もうまくなりましたし」
「長くやってりゃね、何だって上手になるのよ。何事でも熟練してくりゃ、勘所が見えてくるんだな。それで効率よくこなせる。給料も上る」
「練習で修正するよりも、実際の試合で考えながらした方が上達するでしょうからね」
「そうそう。やっぱり現場に出ないとね。本物を見て、人は出来上がってくるんだから」
グランドでは練習用具が片づけられる。係員が出てグランド整備の仕事を始めた。
「選手が引き上げて行きましたね」
「おう、始まるな。この試合前の時間がいいのよ。そろそろ飲んどくかな。あとイカ。たーこたーこ。たーこたーこ」と蛸は売店へ下りて行った。
ビールに口をつけながら席に戻って来た。割きイカに手を伸ばし、試合を見物し始める。
初回、ランナー二塁のチャンスに、選手が打席に入る。
「あいつも昨日、三タコだったからな。ここいらで一本打っとかねえと」「そういえば、どうして打てなかった事を〝タコ〞と呼ぶんでしょうか」と蛸の頭を見た。
「ありゃ、〝ずんべらぼう〞って事だろう」
「〝ずんべらぼう〞ってなんですか」
「のっぺら坊、とか、締りなく、とらえどころがねえ時に言うが。両方だな。打たなけりゃ、ヒット零本でのっぺら坊、さっぱり仕事が出来ずに締りがねえってか」
「ああ、それでタコですか」
「まあ、たぶんな」
「たぶんなんですか」
「こういう言い回しは、たまたま誰かが使って、たまたま通用して、人の口に上がるにつれて出来上った物だからな。とにかく三打数ノーヒットなんて言うより、三タコって言った方がしっくりくるのよ」と物知り顔をする。
「三打数ノーヒットって言うと、ヒットの本数しか言い表していませんが、三タコとなると、一人蚊帳の外、試合から外れてお役に立たなかったって感じが伝わりますね」
「その感じを〝タコ〞に言い含めるのよ。その場にいながら場に加われねえって感じだな。〝タコ〞は」
「あまり最近使われませんね」
「この頃は新聞記者も客も、気のいい連中が増えたんだろうよ」
グランドでは、蛸の評した打者が見逃し三振。『ストライク』のコールに堅く突っ立って、物を言っている。
下がるきっかけの欲しそうなけしきになってきたのに、ベンチから監督が小走りに駆け寄った。
ストライクの判定など見えもしない蛸が、酔いに任せて外野から声を上げる。
「をう!  どこがストライクだ!  昨日飲みすぎで目が回ってんだろ!イカ食うか、イカ!」とイカの袋を掲げ、掲げしなに目に入った売り子に、
「兄ちゃん、ビールちょうだい!  ビール!」
蛸が一イニング回ごとに一杯を飲み干し、顔を赤くしながら手洗いとビールを往復する景色に青年が、
「なるほど、おじさんの観戦法では、サッカーとかはつらいでしょうね」

その六

『カットのみ二千円 親切丁寧』と床屋に出された看板を、着流しのお爺さんが腕を組んで見下ろしている。
商店には軒並に提燈が吊られ、祭囃子が晴れた空へ上がって、浴衣の小さい人が万灯を持って小刻みに駆けて行く。
店先には空の台が出され、脇に鉄板やガスボンベが立つ。
塩漬けの鰹が下がる平屋の軒先では、背広を取った眼鏡の親爺が、綿飴作りに似た筒状の器械の前で、部下の男と話し込んでいる。こちらは粗い縞の背広である。まわりでは、揃いの生壁色のポロシャツを着た若い者が五人立ち、話を聞いている。
「たーこたーこ。たーこたーこ」と蛸は祭囃子に包まれて商店街を行く。
「おう、会長。このあいだは券ありがとな」
「ええ、蛸の旦那。こりゃ、ごきげんですな」
「今日は祭りだね。あとで一杯やりに来るよ。焼き鳥とか出るんでしょ」「あ、そうそう。ちょうどよかった。時間あるなら、手伝ってもらいたいことがあって。水風船とか射的の店番」
「的(てき)屋(や)かい」
「もちろん、日給出しますよ。ほかのバイトと同じ一万円」
「やるやる」と蛸は足を次々と差し挙げる。
「じゃあ、分担を決めよう。水風船に三人。経験者は」と会長が目を配れば、男一人に、女二人が手を挙げた。
蛸はその三人をたまげたけしきで見た。
「残りの三人を射的、巨大ガラポン、ブロアー籤に分けるから」
「会長、射的はわかるが、その何だ、プロなんとかってえのは」と蛸が聞く。
「ああ、ブロアー籤ってのはこれ。これに三角籤を入れてつかみ取ってもらうんですよ」と目の前の綿飴作りの様な器械に手をやる。
「ガラポンってのは器械を回転させて玉を出す籤で、それの大きいやつ」と商店街の向こう並びを指した。
射的とガラポンは、『田作』と看板を出した蒟蒻屋の前に設(しつら)えてある。射的の雛段を設えた隣に、平太鼓を起してハンドルをつけた様な柿色の物がある。蒟蒻屋はビルになっていて、前に長い日陰を作っていた。
「へえ。あれこれあるんだね。食い物はないの」
「食い物は商店街の人がそれぞれやってるからね。うちではこういう器械を使う物だけ」
「僕は射的がやりたいです」と男が手を挙げた。
「じゃあ、私はガラポンがいいです」と女が手を挙げる。
「あっそう。わけなく決まってよかった。じゃあ、蛸の旦那はここで」
「そうか。任せときな」
ブロアー籤は、平屋の玄関前に出されていて、器械を筒状にかこむ透明の樹脂板が日差しを照り返している。
「今は日が当って暑いけれども、午後になればこっちが日陰になりましょうから。旦那もその方がいいでしょう」
「そうだな。乾いちまったら大変だからな」
「それじゃ、皆よろしく」と会長は去る。
「じゃ、お願いします」と言ったのは背広の若者で、「少し、ここで準備してますので」とまわりに置いた段ボールの箱を開け始める。
蛸も開けて、「おっ花火だ」
「景品ですよ。その小さいセットは二等です」
若者は蛸の傍らの箱を開けて、「こっちの大きな花火セットが一等です。
さらに特賞がこの特大花火セットです」と一斗缶ほどの缶詰を出した。
「大きいね。これ花火が詰まってるんだ」
「そうです。特賞は二人だけです」
「そういや、籤、籤って言っていたけれど、これ籤なの」と器械を覗き込む。
「ブロアー籤って言いまして、この器械に三角籤を入れて、下から風を送って、舞い上がった籤をつかむんですね。横の穴から手を入れてもらっ
て」
「へえ」
「手順としては、お客さんがこういった籤の参加券を持って来ますから。それを受け取ったら、籤を一回引かせて賞品を渡して下さい」と祭のチラシを見せた。チラシの端に点線が入って射的や、ブロアー籤などの参加券がついている。
「あ、何だ。料金を取るんじゃないんだ」
「そうなんですよ。料金を取ると手間が増えますし、ただなら、賞品について何も言いませんから」
蛸の後ろには、一等と二等、その他の券を分けてある竹籠が机の上に並び、籤の器械の脇には段ボールの箱に、花火以外の景品がまとまっている。「それと、この風車(かざぐるま)とほおずき提灯と小匙がはずれの景品です。好きなのを選んでもらって下さい」と開けた箱から小匙の山を見せた。
「そう、わかった」
蛸は提灯の箱から一張を取り、伸ばしたり縮めたりしている。
「どうも、どうも」と会長がやって来た。
「これ特賞」と二枚の三角籤を蛸に握らせる。
「加減して出して下さい」
「おう、わかってる。わかってる。配分な」会長は去る。
蛸は受け取った籤の一枚を、竹籠が並ぶ隙間に挿し入れた。残りの一枚は空の器械の口に入れた。
「そういや、兄さんは商店街の者には見えねえけれど」
「ああ、私は広告代理店の者なんですよ。この祭りを依頼されてまして。
社長はここの商店街の会長もしています」
「あ、何だそうなのか。近頃じゃ代理店がからむんだ」
「多いですよ。お祭りも昔は夜店を出すくらいでしたが、最近はかれこれとイベントを行う様になって、この籤も射的も会社から持ってきた物で
す」
「ああ、じゃあ会社の備品なんだ」
「そうですよ。あと、着ぐるみとかモグラたたきとか、種々揃っています」
「こういったイベントも広告宣伝の一種ということだろうね」
「ああいう、旗なんかも調えるんです」と街灯に飾った商店街の旗を指す。
「へえ」
「商店街のほかにも、スーパーのイベントを依頼されます。まあ、その方が多いんですけどね。ヒーローとの握手会とか」
「ああ、ああいうのも裏で代理店が働いてんだよな」
「普通の商店街だと、ヒーローを呼びたくても、連絡先がわかりませんからね」
「違いない」
「まあ、まだ時間がありますから、ゆっくりやりましょう」
段ボール箱を開けていると、着流しのお爺さんがやって来てブロアー籤の前に立った。腕を組む。籤を見下ろす。蛸は段ボール箱を端に寄せる。広告代理店の従業員は帳面に数字を書き入れる。お爺さんが腕を組み直す。口を開けた。
「綿飴まだなの」
「これは綿飴じゃなくて籤なんですよ」と若者が答える。
「え、綿飴じゃないの。何だ綿飴じゃないの」
そう言って、お爺さんは歩いて行った。そうして、そのまま商店街を出た。
商店街を三十恰好の男が自転車の二人乗りで去る。
蛸と若者は竹籠から籤の束を出して、器械に入れる。高くなった日に、蛸の影が濃くなる。
「ちよっくら店構えを見てくるわ」と知らせて、蛸は向かいのコンビニの日陰に立った。
若者が器械のスイッチを入れると、籤が浮いた。三秒ほど浮いたかと思えば降り積もり、底のプロペラにからまった。三角籤の山がぐるぐる回る。蛸が戻って来た。
「本当はもっと軽い紙を使ってやるんですけどね。これは箱から手でつかむ三角籤そのものだから、一枚一枚が重過ぎて浮遊しないんですよ」「うん、どうしたらばいいだろう」蛸は腕を組む。
会長が来て、「もっと籤くしゃくしゃにしないと」と歩きながら教えた。
教えて行き去る。会長のあとから、二枚目の兄さんと姉さんがついてくる。通りしなに、「おつかれさまです」と笑顔で会釈をした。
「あ、あ、こりゃどうも」と蛸も挨拶をした。
「今の人たちもアルバイトかい。男前だったねえ」
「あの人たちは、的屋のアルバイトではありませんよ。あとで登場します」
「あ、そう。そういや、会長が籤をくしゃくしゃにしろとか言ってたね」
「まあ、やってみましょう」
広告代理店の従業員が穴から手を入れて、筒の底に積もる籤を握りしめた。鼻紙の様になって籤が浮く。
「本当だ。しかし、くしゃくしゃになった籤はどうだかね」
「すいませんいいですか」とすすきの様な大人が来た。手には参加権を握っている。
「ああ、あいよ。いらっしゃい」
「それでは、そこの穴から手を入れて、籤を一枚取って下さい」と背広の若者が客に言い、蛸には顔を向けて、「これ、金券と同じ扱いですので、まとめてしまって置いて下さい」と受け取った券を菓子箱にしまった。
客は手を入れて、腕は動かさずに掌を開いたり閉じたりして、つかむというより、手に入り込むのを待っている。そうして客がつかんだ籤を蛸が受け取って開けた。
「お、二等だよ」
「それでは、こちらになります。おめでとうございます」と背広の若者が、小さい花火セットを渡した。
トマトの様な顔の幼児がお爺さんに連れられて来た。ブロアー籤の器械には穴が二つ空いている。幼児は低い方に手を入れた。今しがたの大人と同じくそのまま手をグーパーしている。
「小児(こども)はわかるが、大人も手を入れて、掌を結んだり開いたりしてるな。箱が透明なんだから、見定めてつかめばいいんじゃねえのか」
「きっと、箱に入ったおみくじを引く感覚なんですよ。まあ、なんとなく、宙に浮かんだ籤が掌にのったという感じの方が楽しいんじゃないですか」客が十人来たあたりで、籤が浮遊しなくなった。紙屑が山積みになって回り続ける。甘栗屋の様である。枯葉が吹き募ったかの様でもある。
「どうしたものかね」「どうしましょうか」
林檎の様な顔をした小児が来た。
「手を入れて、一枚取って下さい」と背広の若者が引き方を伝えた。
小児は回る三角籤から一枚取って蛸に渡す。
「おお、特等だよ。おめでとう」
「ありがとう」と一斗缶を抱えて帰った。
「特等が出たな」
「そうですね。しかし、焦げ臭いですね」
「そういや。どうも、器械からしないか」
「モーターが変になったかもしれませんね」
籤の横には『ヒーローとじゃんけん大会』と広告された看板が立つ。『レッドに勝てば賞品』ともある。
広告代理店の社長兼商店街の会長がやって来て、「また時間変っちゃったよ」と看板を上からつかんで自分に向けた。
『開始時間二回目五時半より』とある処に紙を重ね、ポケットから出したマジック片手に五時に変える。
「六時から盆踊りがあるからね。ヒーローに客が流れちゃ、かなわないんだよね。商店街としては盆踊りがメインイベントだし、皆が盆踊りに加わるか、見てもらいたいから」と蛸に向かって腕を組む。
「五時だの六時だの、客は逐一見に来ているわけではなかろうに、遅れるならともかく、早めちゃったらば、時間通りに来た客にまで景品が行き渡るのかい」
「そこはこれ」
会長が段ボール箱の下から引き抜いた呼び込みチラシには、『五時半ごろより』と記してある。
「なるほど。『ごろ』ね」
「こういう企画は盆踊りのための人寄せなんだよね」
商店街に流れる祭囃子にかぶさり、ヒーローの主題歌が響きだした。
往来を行く人々が、ヒーローのじゃんけん会場に並び始める。蛸のいる平屋の隣は、草に蔽われた空地面である。祭に来ている人々が、その前の道端におしなべて並ぶ。籤は一休みである。籤が浮遊せぬから、店を開けている様にも受け取れない。ただ焦げ臭い。
蛸と会長と若者が黙って、何とも言わなくなってしまったところに、「よろしくお願いします」と弾んだ声を投げかけて、光沢のある白い服から白い脚と腕を出した女の人が来た。籤の下に荷物を置く。口の開いた透明の四角いバケツの様な鞄である。
続いて蛸の目の前を赤いものが通った。ヒーローがマントを靡かせて、会場へ向かう。ヒーローは五人組であるが、祭りはレッドの単独参加である。
司会役のお姉さんが、マイク片手に、「みんな、今日は、レッドが来てくれました」と見物の一人一人に呼びかける調子で話し始めた。
「では、レッドです」
ヒーローが列をなす小児等の前に跳躍して登場した。左手を斜めに突き上げ、右手を交差させ、片膝を曲げて、一方の膝を横に伸ばす。起き直ると、両手両足を揃えて会釈をした。
「それでは、じゃんけん大会を始めます。いいですか。じゃんけん」お姉さんの合図に、ヒーローと列の頭の男の小児とが構える。
ヒーローはパーを出した。小児はグーである。
「ああ、レッドの勝ち。ごめんね」と参加賞の小匙を渡す。
ヒーローは小児にお辞儀をした。
じゃんけん大会は続く。ヒーローは身のこなしのみで、口は利かない。「レッドまた勝っちゃったね」「それじゃ握手しようか」「あら負けちゃった」とお姉さんが代弁して行く。
レッドはお姉さんの話に合わせて、頭を手で搔いて見せたり、手を差し出したり、ずっこけたりと動きで補う。
蛸が背広の若者に話しかけた。
「じゃんけん大会は先着百名と案内ビラにあるが、付き添う大人を足しても、目の子勘定で七十人か」
「そうですね、ヒーローとお姉さんには早めに引き上げてもらうみたいですね」
「やっぱり小児が少ないなあ」とブロアー籤に戻ってきた会長がこぼす。
「こっちも見物させてもらってた」と蛸が器械に手を置く。
「二回目は大人も参加してもらおうか。そうだ。一時近いし、商店街の事務所に昼飯置いてありますから、どうぞ」
「そうかい。それじゃ頼むわ」と蛸は隣の事務所へ行く。
アルミの扉を引いて入ると、壁際に商店街の旗や作り物の花が積まれている。大机がまんなかにあり、弁当と飲み物が置いてあった。
端に大袋があって、空になった弁当箱が溢れている。
蛸は残っていた弁当の蓋を開けた。
弁当箱には紅鮭が赤く横たわっていた。蓮根煮に竹輪が一切れ入っている。竹輪の揚げ物と竹輪と胡瓜のサラダも添えてある。
蛸は割箸を割って、黙って食った。
十分で済ませて、籤の店番に戻る。焦げた臭いのする器械と鰹の下がる家の間に納まる。
向かいはコンビニである。コンビニでは眼鏡の店員が店先に出て、鉄板の上でフランクフルトを転がしている。転がすのにあきると、前を向く。向かう先には蛸がいる。まばたき一つせぬ蛸と眼が落ちあう。合っては逸らして、フランクフルトを転がしている。雨が降ってきた。
景品の花火に雨粒が当たる。
段ボール箱に入れたまま陳列しているから、雨よけも箱の蓋を閉めるだけで済む。蛸は背にした平屋の軒先で、十本の鰹越しに雨の斜めに降る様を眺めた。走る者はない。傘のない者も歩く。
ブロアー籤の円筒状の器械には、手を入れる穴が上と下とに並んである。穴は切れ目の入ったゴムがはまっている。流しの排水溝を塞いでいる類の物である。
筒のなかでは籤が回る。
蛸は思いついて、高い方の穴から細長いボール紙を挿し入れた。籤のからまるプロペラを押して勢いをつければ、籤が浮かび上がった。三秒ばかり浮いて降り積もる。
雨が小降りになって、小児が籤を引きに来た。小児には低い穴から取らせる。蛸が上の穴から腕を差し入れて、ボール紙でプロペラを回す。籤が浮かぶ。それを繰り返す。小児は花火を両手で支えて帰る。雨が上がった。
「しかし、腕が穴に擦れて、ちいとばかり赤くなってきたな」と蛸は足をさすった。
蛸は、穴を塞ぐゴムを拡げて、ガムテープで器械の壁に貼りつけた。開け放たれた穴から、籤が飛び出した。
「あわわ。こりゃいかん」とテープを剝がした。
「何か、こう、腕章みたいな物はないのかね」
三時過ぎに蛸は、「お茶をどうぞ」と促されて商店街の事務所に戻った。
司会のおねえさんとヒーローがいる。
「ありゃ、こりゃどうも」
「おつかれさまです」と二人が会釈した。
二人はアルバイトや商店街の者が休憩に使うまんなかのテーブルから離れ、端に寄せた畳み椅子に腰をかけ、それぞれも間を保っている。
蛸はテーブルのスポーツ新聞を拡げた。
お姉さんは化粧中である。棚に置いた小鏡を見ながら、目のまわりをぐりぐり塗っている。
ヒーローは着替え中である。はめた手袋をかざして、開いては握っている。
お姉さんが、「もう着替えるの。早いのね」と声をかけた。
ヒーローは『スーツ』に腕を通しながら、「ええ、練習しておきたいですから」と敬語を用いた。
お姉さんは化粧道具を置いて、立ち上がる。
「チャック上げてあげる」とレッドのせなかにまわり、チャックを閉めた。
お姉さんは再び化粧台の小さい鏡を覗き、今度は頰を塗り始める。
面をつけぬレッドがその向こうで、鋭く手を突き上げた。ただちに振り下ろし、足を伸ばしては縮めて、きれぎれのコサックダンスを思わせる動きをしている。
通りに満ちる神楽の太鼓の音に、化粧ブラシを肌に滑らせる音とレッドの衣擦れの音が重なる。蛸は、磨ガラスに金文字で『芋掘商店街事務所』と書かれた戸に赤い色を浮き立たせて、新聞をめくる。
野球の記事を一通り読んで、蛸は出る。出る際に、お姉さんと顔だけ変身していないヒーローが、「おつかれさまです」と後ろから言った。
蛸は肩越しに会釈をしつつ、「あ、おつかれさん」
戻ればワイシャツ姿の社員がネクタイを外し、袖をまくった姿になっていた。顔が赤くなっている。
「籤を半分にしました」とくしゃくしゃになった籤の入ったビニール袋を見せる。
蛸が器械の方を見れば浮いていた。浮いてはいるが、二十枚も入っていない。浮いているというより、一度底のあたりまで下がった物が吹き上げられているのである。
「このプロペラがですね。モーターとの摩擦がなくなると、空回りしてしまうんですよ。止まったら、ちょっと持ち上げるとまた回ります」と穴から手を入れてやって見せる。プロペラの竿をつまんで持ち上げた。
「へえ、そういうメカニズムなんだ」
しかしプロペラはまた止まる。籤は底に溜まる。焦げ臭くなる。
そこに会長が来て、「何だか焦げ臭いな」「モーター焼けてんだろ」「客の来ない間はスイッチ切っといていいよ」と立て続けに言って去る。
「じゃあ、お客さんのいない間はスイッチを切っておいて、来たら入れることにしましょう」
「この器械いるのか」と蛸が言う。
「盥(たらい)を持ってきて上から降らせましょうか。紙吹雪みたいに」と社員も言う。
言って、「ちょっと見てきます」と水風船の出店へ向かった。
蛸が腕を入れてプロペラの軸の加減を整えているうちに、プロペラが抜けた。目を凝らしてプロペラの竿を穴に差し込もうとしたが、思う様にはまらない。ところに、籤が浮かびだした。そのまま浮遊している。
「何だこりゃ。浮遊しなかったのは、このプロペラのせいじゃねえのか」蛸が額を押しあてて窺えば、底に張った網の下に、風を送る扇風機が回っている。
「こんな飾りのプロペラなど外して構わないだろ」と回らぬプロペラを外して、籤は浮いた。しかし浮くのは二十枚がせいぜいであった。
桃をあしらった浴衣の小児が靴を鳴らしながら来た。
「籤やります」
籤は浮いている。蛸はボール紙でかき混ぜずに済むが、小児が取れない。疎らに舞い乱れる二十枚の籤をつかもうとして、小児の小さな手は空振りをする。籤が掌をすり抜ける。体を横にしたまま笑って、付き添うお祖(ば)母(あ)さんを見上げている。
「待っていな。景気よくしてやるから」
蛸は百枚近くも上の穴から放り込んだ。小児はつかんで一等である。
客が来たらスイッチを入れる。高い穴からボール紙を差し入れる。塵取りの要領ですくい上げれば、籤は落ち葉の様に舞い落ちる。それを客がつかむまで繰り返す。
そうして小児の来るたびに、蛸が横から手を入れて、すくい上げる方式で落ち着いた。
日は傾き出して、雨のけしきもない。
会長の計算では日陰になっているはずが、平屋であれば影が伸びてこず、籤の器械も段ボール箱も日にさらされ続けている。
蛸は客の来るたびに、段ボール箱でかこった一角で、ボール紙で作った
箆を器械の穴から突っ込んでまぜ上げる。枯葉の山を崩すごとくに。
やがて夕靄に包まれて行く商店街に、浴衣を着た老人や中年や青年があちらからもこちらからも現れた。
籤はしまいである。
横にした籤の器械を転がしてトラックに積む。祭囃子の音がやみ、音頭が鳴り始めた。踊る人々が同じ間隔を空けて並び始める。その場で簡単な踊りを始める者もある。傍らでは、蛸たちが踊らんとする人々を避けつつ、往来の端を行きつ戻りつ、景品の入った段ボール箱を運ぶ。また担ぎ上げる。電信柱にとまった日暮しが鳴いた。
東京音頭の響きが大きくなり、浴衣の人々が列をなして歩み行く。太鼓がどんと鳴る。
「それでは、このまままっすぐ大通りを渡ってお寺に入ります」とのアナウンスで、商店街の突き当たりにある寺の山門をくぐる。踊りながら。笑いながら。
山門の内で踊りの輪は廻る。
「小川さん、通るかと思ったが来ねえなあ。まあ帰るか」
蛸は給料袋とともに貰った笛に息を吹き込んだ。麦笛に似た音を出して、ぜんまいの笛が象の鼻の様に伸びて巻き戻った。
「たーこたーこ。たーこたーこ」と八本の足がうねりを打って揺れている。
月下で踊る蛸の影が水溜りに映じて揺らめく上で、日暮しがまた鳴いた。
七月の夜は三日月の空に更けて行く。

その七

「たーこ、たーこ。たーこ、たーこっと、今日は照り返しがかなわねえ。暑気あたりに効くビール」
土手の上にほのめき立つ陽炎を透かした向こうから、蛸が来る。犬を伴っている。
「わん」と秋田犬が応じる。
「おめえさんも暑くはねえかい」と土手際の店の前に出た縁台に腰を下ろした。
『萬(よろず)何でもあり〼 萬屋金亀堂』と札の下がった店先には蛸の腰をかけた縁台、大小の鉢植えが群がり置かれ、藍の水瓶では金魚が一跳ねした。開け放ったガラス戸の内は、ビールやサイダー瓶の並ぶ冷蔵庫、壁際の棚にはちり紙、洗濯石鹼などが積まれ、正面の台の上には、乾物や駄菓子などが置いてある。『甘酒 稲荷鮓 飴湯アリ〼』と張り出された下には、柱に打った釘から鰹節が下がる。奥にはテーブルが並んで扇風機が伸ばした頸を振っている。
奥から五十恰好の男が顔を出した。白い前掛けをつけている。
「ああ、蛸の旦那。いらっしゃい」
「おう、今日も天気がいいな」とガラス戸の蔭から頭を出した。
「そこじゃ日差しがあるでしょ。店のなかへ坐っちゃあ」
「そうだな」
蛸は簡単な造りのテーブルに坐り、麦藁帽子を脇の椅子に載せた。犬もついてきて土間に蹲る。
萬屋が冷蔵庫のガラス戸を開けておしぼりを出した。
「やっぱりこういう日には、白玉に赤砂糖をかけた物でも食いたいが、まあ、ビール。義理じゃないよ。おめえは何飲む」と犬に聞く。
「わん」
「コーヒー牛乳かい。犬がそんなものを飲むとは知らなかった。あと、こいつにはコーヒー牛乳な」と蛸は犬を指して、萬屋へ注文した。
「あいよ」
萬屋は冷蔵庫からビールと牛乳の瓶を出して、テーブルへ置いた。
蛸はおしぼりを拡げて、頭をつるつるに拭く。
「へへっ、おしめり、おしめりっと」
ビールを一息にあおって、「ああ、はらはたへしみとほる」と舌も体も蒟蒻の様にした。
「蒸した日にゃ、これだね。今日は爺さんはどうしたい。店先で今川焼きは商わねえのかい」
「八月は休みだよ。今日は敬老会の旅行でさ」
「北海道にでも行ったかい」
「いや、行徳行って潮干狩りだ」
「暑いんじゃないのかい」
犬は黙って床の牛乳瓶の前に控えている。
「ああ、壜のままじゃいけねえわな。何か、皿あるかい」
「これでいいかね」と萬屋は手塩皿を出した。
「おう」
萬屋から皿を受け取った蛸は、コーヒー牛乳を注いで床に置いた。
「やってくんな」
「わん」
「礼には及ばねえよ」
往来からは、「ええさざい。ええさざい」と魚屋の声がする。
コーヒー牛乳を飲む犬を見ていた萬屋が、
「この犬は飼ってんのかい」
「いや、飼ってるちゅうか。あれは十日ばかり前のことよ。夕涼みに暗渠をぶらついていたら、この犬がやって来てな。ついて来るんだよ。何かをねだる風でもなく、じっと前を見てな。おれが暗渠から出て、下宿の横丁に入ったら、犬はそこで戻って行ってよ。あくる日も同じ様に脇について来んのよ。飼ってやろうと思って挨拶したら、『飼ってもらう分には及ばぬ。俺の尻尾の毛を三本やるから、お伴をさせてくれ』と答えるのよ。それ以上は掘って聞かなかった。それから仲良くなったのよ」
「利口そうな犬ですな」
「おう。頭の回転が早いんだよ。気のきいた返事が出来るしな」
「今日もついて来たんですかい」
「いや、縁側で猫に鉛節をやっていたら塀越しに誘ってきた。向こうで一声吠えたから、おお、よく来た。表へ廻ってくれと出迎えてさ。軽く一杯やりに来たのよ」
「わん」
「何。『この礼はいつか必ず』っていいよ。人間みてえなこと言いなさんな。犬なんだから」
「まめやかな犬だねえ」
「どうもな、犬ころっつうのは、人間に従ってくるね」と蛸はコップを置いて、犬に眼をやる。空いた皿に残りのコーヒー牛乳を注ぐ。
「そうせずにはいられないんでしょうな」
「狼は一匹でやってんのに、どうしてまあ、こうなっちまったのかな」
「人懐こい狼を集めていたら犬になったんでしょ」
「わん」
「天と地の間に立つからには、世界の役に立たねばって」
「武士みたいなことを言う犬だねえ」
「そうだな。先々の欲得を思いめぐらす様な面には見えねえ」
「わん」
「今のは何て言ったんですかい」
「コーヒー牛乳がうまかった、とよ」
「ははっ。ありがとうな」ビール瓶は空になる。
「ビールはどうするね」
「やめとくわ」
「今日はあっさりしてるね」
「近頃、居続けて飲む気も、あまりな。これから、河原を廻って帰(けえ)るわ」
「毎度どうも」と萬屋が蛸を送る。
「たーこたーこ、たーこ、たーこ」
道端で草の間をつついていた雀が、蛸の身近を飛び去った。
蛸は土手の上を行く。犬も付き従う。
夕日が映じ、表に出された水瓶には金柑色の波紋が生じていた。
隣の唐辛子を売る家では、玄関に上がる三段の石段を下りたところに猫が眠る。立てた瓦で築いた花壇からは、槿(むくげ)が軒まで伸びて花をつけている。枝に隠れて立つ柱に赤い紐を結んで、先は斑(ぶち)猫の首輪まで届く。猫は紐の張り切るほど往来まで下りて寝ている。眉間に一つの波を寄せた。

その八

駅前のハンバーガー屋の窓ガラスに蛸がへばりついている。窓越しに客
の若い男が坐っている。こちらは、盆に敷かれたチラシに目を注いだり、目をつむったりしている。
蛸が窓を叩きだした。若者の眼が蛸を見定めた。口では氷を嚙み砕いている。
「おう、小川さん。小川さんじゃねえの。小川さん、小川さんてばよう」と奥に坐る青年に向かって窓を打つ。一本二本、八本まで打って、吸盤をガラスから剝す。また一本ずつ叩く。剝す音がガラスに響く。
客の男は蛸を見据えたまま立ち上がった。蛸を見据えながら、口には紙コップがある。右手に紙ナプキンをつかんでいる。
「小川さん。何だ、届いてないのか」と蛸は窓ガラスを離れて玄関に廻る。
客の男は腰を下ろしてテーブルを拭きだした。
出入口の自動扉が開いて、蛸が泳ぐ様な恰好で入って来た。
店はカウンターから始まり、壁に沿ってビニールシートのソファーと、盆に脚をつけた形のテーブルが並ぶ。
隅の席に青年が納まっている。空の包みを端に寄せ、『図説 暖炉』と
 題した本の頁を方々繰りながらストローを口に当てている。
「小川さん。小川さん」
「あ、どうもおじさん。こんにちは」
「どうもどうも。さっきから呼んでいたんだけれどね。入って来ちゃったよ」
「何かありましたか」
「別に、用ってほどのものはないんだけど。見かけたから声をかけたんじゃない。これから百万年あたりで猪口を傾けるかと思っていたところだから。ま、ここでいいや」
蛸は青年の向かいの椅子を引いてあぐらをかく様に坐った。
「百万年って何ですか」
「ああ、小川さんが通る頃合は、寝てるか仕込みしてんのかな。あれだよ。鳩を鳥籠に入れて地面に置いてる肉屋あるでしょ。あの並びにある食堂だよ」
「あ、おじさんがよく行く」
「そうそう。通るでしょ」
「あの店は百万年って言うんですか」
「そうだよ。屋根にトタンの看板がのっかってあるでしょ。トタンが剝れかかってるけれど、『民衆食堂百万年』って。登記上は、増田商店で出しているらしいんだけれどね。縁起がいいってんで看板だけ『百万年』って出しているんだよ」
店員が通りかかるのが蛸の目に映った。
「あ、ええとね。ビール。あと蒲鉾か、空揚げある」
「恐れ入ります。ご注文はカウンターでお願いします」
「え、そうなの」
「入口の方で、先に注文するんですよ」
「あ、そう。食券なんだ」
「いや、食券ではなくて」
「そうか。まあいいや。横着しちゃいけねえな」
カウンターに並ぶ店員に相対して、客が一人ずつ納まっている。蛸は手近な所に並んだ。
「恐れ入ります。こちらにお並び下さい」と入口脇に立つ店員から指し示された。
店員はカウンターに入る。蛸は白線で区切られ、矢印が敷かれた枠に残る。
「あ、こんな入口のまん前で待っていてもしょうがないわな。その辺ぶらぶらしてるから。番になったら呼んでくれ」と蛸は枠を出る。「お待たせしました。こちらへどうぞ」と今しがたの店員がカウンターに納まって、蛸を呼び寄せる。
「何だ、早いな」
蛸は滑る様にカウンターの下へ入り込んだが、上からは蛸の姿は窺えない。
「ええ、とね。熱燗。あと、空揚げか肉炒め」と見上げて、「ありゃ、どこだ。よいしょっ」
蛸が吸盤を使ってカウンターを這い上がろうとするのを、店員が押しとどめた。
「恐れ入ります。ご注文は下でお願いします」
「あ、わかる。熱燗ね」
「恐れ入ります。熱燗は扱いがありません」
「え、熱燗ないの。じゃあ、ウイスキー。二級ね」
「お飲み物はこちらからお選び下さい」と店員がメニューの下敷きを下ろして見せた。
「ええと、何だこりゃ。コーヒーはあるのか。コーヒーでいいや」
「サイズはいかがいたしますか」
「ちいとばかししか飲まねえからな。小さいのでいいよ。あとつまみは、と」
「ミルクと砂糖はおつけしますか」
「まだコーヒーが片づいてなかったのか。ええと。どうしよう。どっちでもいいんだけどもな。ま、いいや。あと、空揚げある」
「チキンナゲットでよろしいですか」
「ナゲッタ。何それ。空揚げなの」
「鶏肉を揚げた物でございます」
「空揚げじゃないの。じゃあ、それ三つくらいちょうだい」
「三個入りでよろしいですか」
「いいよ」
「ソースはいかがいたしますか」
「ソース。ソースなんてかけなくていいよ。塩ふっといてよ」
「ソースはマスタードとケチャップがございます」
「ございますって、それしかねえのか。じゃ、ケチャップ。あと、なんだ。これも食おうかな。せっかくだからね。へへっ」とハンバーガーの写真を指す。
「ご注文を繰り返します。コーヒーの小がお一つ。チキンナゲットがお一つ。ハンバーガーがお一つ。以上でよろしいですか」
「ああいいよ」と蛸は席へ戻ろうとする。
「あ、お待ち下さい」
「え、まだ何かあるの」
「三百八十円になります」
「ああ、勘定ね」と蛸はカウンターの上に小銭を並べた。
「ちょうどお預かりいたします。そのままお待ち下さい」
「え、待つの」
意外というけしきを浮かべた蛸に、カウンターから出てきた店員が、コーヒーとハンバーガーの載った盆をしゃがんで渡した。
「チキンナゲットは只今お作りしておりますので、あとでお持ちします」
「何だ、まとめて持って来てくれて構わないのに」
蛸は〝十〞と番号の示された旗を戴いて席に戻った。
「いやいや、難しい店だね。『お待たせしました』って、出てくる分にはちっとも待ってないよ。注文の方がよっぽど手間がかかってね」
「やっぱり、ビールはありませんでしたか」
「ねえ。ビールもウイスキーも何もねえ店だな、ここは。何ではやってんのかね」
「チキンナゲットをお待ちの十番のお客様、お待たせしました」
「あ、どうも」と蛸は礼を言う。
「早いね。待っていたっていいのに」
「カウンターで待つと、次のお客さんを捌きづらいからですよ」
「店の都合か」
「利便性のためですね。自動改札と同じですよ」蛸はコーヒーを啜り、ハンバーガーを齧る。「あ」
「どうしました」
「ピクルス入ってるよ」
「苦手なんですか」
「まあな。蛸になってからというもの、野菜の味がな。ピクルス食ったってなあ。栄養あるのかね。ピクルス」
「どうですかね。そういう物は、味のバランスを調えるための物でしょうから」
「小川さん食べないよね」
「え、ええ」

「仕方ねえ」
蛸はハンバーガーをむしゃむしゃと、たちまち平らげてしまうと、小川青年の盆に残った、レモン汁の入った小袋に目をとめた。
「それ何」
「レモンです。紅茶に入れるつもりで」
「レモンはあるのか。さっき貰っときゃよかった」
「なら、これ使いませんか」
「いいの。じゃ、遠慮なく。さっきレモンあるなんて知らなかったからさ。ケチャップ貰ったんだけど、小川さん持って帰らない」
「僕はいいです」
「そう、じゃ、返して来るかな」
「たぶん、捨てると思いますよ」
「え、そうなの。それじゃ、持って帰ろう」
蛸は紙ナプキンを一枚取り出すと、ケチャップの袋を包んだ。空揚げをつまんで口に入れる。あたりを見る。
「どうもこういう店は尻が坐らねえな」
「椅子が硬いですからね」
「何だな。店の造りがな」とレモンをかけた。空揚げを口に入れる。
「坐って食ってても、食うことしか出来ねえ。新聞も置いてねえし、テレビもねえ。やっぱり、店の親爺相手に世間話の一つや二つしなきゃ。ちまちまとハンバーガーやらつまみやら一人、手づかみで食ったって、食っても食った気がしないのよ」
「食事もある程度文化的なものを含んでいますから。単に食べるだけ、作法もなしでは、精神的にはお腹が空いたままなのかもしれませんね」
「でしょ。外から丸見えだし」
「そうですか。かえって百万年みたいな店は、入口が曇りガラスで、店のなかが見えないから入りづらくて」
「おれにとっちゃ、この店の方がよほど敷居が高いわな。まず頼むまでがまどろっこしくていけねえ。あのメニューもな、ぱっと見たって、何を目当てに選べばいいのか。蕎麦屋の品書みたくさ、一行一行並んでいれば、頭から順に見て行って、『じゃあ、今日は鴨南蛮にしようか』って決まりがつくのに」
「そういえば、お蕎麦屋さんで、もりの横に書いてある『大もり』って何の大盛りなんですか」
「ありゃ、もりの大盛りだよ。もりは笊に盛った物だから盛りだ。それの大きいの」
「ああ、そうなんですか。お蕎麦屋さんのメニューであれだけがわからなくて」
「ハンバーガー屋のメニューは、どこが頭でどこが尻だか、書いてある物全部見切れねえけれどな。ありゃ、品書と言うより、チラシだよな。スーパーあたりの」
「あれは、メニュー全体が、一目でわかる様になってるんだと思います」「そう。一目で見る様に出来てるんだ。おれはまた、きょろきょろしちゃって、しまいに八方睨みになりそうだ」
「でも写真があって、わかりやすいでしょう」
「近頃は、何でもああいう、つるつるのシートで示されるよね。ここから選べって」と温いコーヒーの蓋を外してあおる。
「平面にして区切ってしまえば店もお客さんもそれ以上考えずに済みますからね。比較するだけで。わかりやすくはなっていると思います」
「写真指して、『これとこれ』で済むのはいいね。蕎麦屋なんかじゃ、机に立ててある献立を持って『これ』って天ぷらそばを指したつもりが、『おかめですか』と隣を言われちゃって。『ああ』と頷いとくけどね。頭の後ろに『おすすめ  冷やしたぬき』とか出されてあれば、間違えないんだけ
れど」
「メニューを言えばいいんじゃないですか」
「なんかね、食い気を悟られたくないっていうか。『パン』とか『スパゲティ』とかって、言うの照れくさくない」
「いえ、別に」
「そう。世代の違いかね。なんかね、男の口から『パン』って出るのが面はゆくてね。今でも。饅頭とか芋とか、あと、A定食B定食とか、符牒で注文するのがいいね。蕎麦なんて、『もり』か『大もり』で済むし。昔の牛丼屋なんてのは、もっぱら牛丼しかなかったから、『並』と言っときゃ、牛丼が、『弁当の並』と言えば牛丼弁当の並が出てきて、簡単だった」
「今でもそれで通じますよ」
「あ、そうなんだ。あと、『御馳走さん』は『御勘定』と同義だったし。『あれ』『これ』『いつもの』『任せる』で片がつくのが何と言っても入りやす
い店よ」
「なんだか、片言ですね」
「サラリーマンってえのは、普段から聞かれねえ限り、余計なことをしゃべらねえ癖みたいなものがついてんだな。逆に、客に一から十まで言わせずに、どうしたことでこういう話を持ちかけて来たのかなって、会社に持ち帰ってから考えるのよ。まあ、百万年なんて、黙ってりゃ勝手におすすめを出してくるよ」
「今の人は皆、写真を見ることで、出てくる物を期待しながら自分で注文したいんですよ」
「ああ、そうなんだ。おれの行きつけの店なんて、付け合わせが毎度変ったり、箸休めの胡麻豆腐が奴(やつこ)豆腐になったり、その奴(やつこ)の上が昨日は葱、今日は生姜かと思えば、夕方には紫蘇の実になったり。百万年なんてよ、芋田楽を頼んだら茄子田楽が出てくるし。『いや、ケチャップ切らしちゃってさ』とかでオムライスにカレーがかかって出てきてさ。そんならソースで構わなかったのにって、なかはチャーハンになってたな」
「僕も前に学食で薩摩揚定食を頼んだら、『薩摩揚が切れちゃってね』とコロッケが出てきたことがありました」
「それじゃ、コロッケ定食じゃないの。メインが変わっちゃしょうがねえな。薩摩揚げが食べたくて頼んだのになあ」
「ええ、まあ。学食で食券を先に買っていましたから、代金は薩摩揚げ定食のままで」
「学食の親爺も、学生相手だと思って適当にしていやがるな」
「普通、『品切れ』の札が出るんですけれど、その日は出てなくて、食べたあとに見たら出ていました。別に、何でもよかったので」
「さっきもさ、向こうで、『空揚げ三つぐらい』って一応言ったけれども、二つでも三つでも構わないわけだし、『ソースは何にしますか。ミルクはつけますか』とか、そんなにしきりに尋ねられてもな。何だっていいのよ。そんなに、細かなところまで考えて食わねえって。そのために日替わり定食ってのがあるんだからね」
「メニューを決めて店に来る方が珍しいですね」
「でしょ。コーヒーだって、砂糖入れるか入れないかなんて、飲む間際にならなきゃわかりゃしないんだから。ここに置いときゃ済む話よ」と足の一本でテーブルを小突く。
「この頃のお店は気楽な反面、お客さんの行動も似通ったものになる様に作られてはいますね」
「角砂糖をコーヒーカップに落とし込むのがいいのに。一片の角砂糖を小匙にのせてね。しゅわわわわって、細かな泡がひろがって。味わいのうちでしょ。そういうのも。だいたい、店に入ってからがよくわからねえ。どこにどう行きゃいいんだか。あっちか、と思えばこっちで。そっちかなと思えば、『こちらからどうぞ』って、『どうぞ』も何もないよ。ああ、おいらにゃどうにも及びません」と八本の足をくねらせた。
「すぐに出てきますけどね」
「すぐに出てきすぎたよ。少しは間をくれなきゃ。腰をかけたら一服して、その次でしょ。食うのは。皿が出されるまでに、ひとまず話したいこともあるよね」と蛸は青年の相槌を待つ。青年の口にはストローが収まっている。蛸は続けた。
「それに百万年だって、『急いでくれ』って注文すればすぐ出てくるよ。おでんなんて、一年中煮っ放しだし。ビールなんて、自分で冷蔵庫から出したら早いからね」
「焼きそばなんて少しはかかるでしょう」
「あの親爺な。今度、『焼きそば超特急』って言ってみな。一分で出てくるから」
「火は通ってるんですか」
「コークス使うんだよ」
「コークスですか」
「ああ、バーナーでコークスに火をつけるでしょ。その上に鍋載せたらすぐに熱くなるから。そこに、キャベツからそばから皆放り込んで、一混ぜしたら出来上がりよ。それ以上やると鍋が熔けちまうからね」
「危なくないんですか」
「まあ、コークスは煙が出ないからな。換気してりゃ平気だ」
「目が沁みなくていいですね」
「ああいう店も、小川さんが小さい頃まで、小川さんちの路地口にもあったんだけどなあ」
「なんとなく覚えてます」
「うん。角っこに爺さんが酒饅頭の蒸し台据えてな。道端で商ってた。あそこは爺さんはいいんだが、親爺がいい加減だったな。今日は休みかと思って、宵っ張りにガラス戸の上から覗き込んだら一人、親爺が一升瓶片手に。その代わり、ひいきの相撲が勝ったら気韻が好いとかで、ビールが出てきたな」
「それはおごりなんですか」
「どうだかな。いちいち飲み食いしたもん、こっちも勘定してないからな。親爺だって確かに覚えちゃいないって。しかし、この頃の店は客を動かしてばかりで、メニューにねえ物も頼めねえし。ビールがねえなら、一走り買ってきてくれりゃいいのに。百万年なんて、何だってあるぜ。煙草だって備えてある」
「煙草も売ってるんですか」
「いや、売ってんじゃなくて、置いてあるんだよ。客の煙草が切れるでしょ。そんな時、いちいち買いに出ていらんないから、親爺が予め、煙草屋から買って置くのよ。それを、そのままの価だけ貰って渡すって仕組みだ
な」
「そういう店もあるんですか」
「そういう店ばかりだったな、昔は。ええと、食ったよね。 そろそろ行こうか」
「あ、六時に待ち合わせているので」
「え、そうなの。まだ帰らないんだ」
「おじさんは、寄る所はないんですか」
「そうだな。帰って壺の掃除でもするかな。まあいいや。それじゃ。あ、こりゃどうするのかね」と包み紙が丸くうずくまる盆を指す。
「自分で下げるんですよ」
「そうだと思った。よっと」
蛸は盆を持って、カウンターへ行き、「ごっそさん」とカウンターへ上げた。
胸からクリーム色のリボンを垂らした高校生が二人、入って来て、一人がそのままカウンターに向かおうとしたのを、連れの一人が制す。
「まだまだ。この線で待つんだよ」
「たーこたーこ。たーこたーこ」と蛸は頷きながら店を出た。黄昏の雑踏に足取り軽く。
ハンバーガー屋の向かいでは、駅前の応用美術陳列館に登る階段を、婦人が斑猫に赤い紐をつけて犬のごとくに散歩させている。猫は紅葉(もみじ)の散り敷かれた階段でしゃがんで動かない。頭を下に向けて、逆さになって寝そべった。婦人は紐を一つ引く。猫の頸が伸びた。婦人は階段を降り、猫を下から手を振ってあおる。猫は駆け下りた。


その九

裏町の短い商店街、民衆食堂と墨で大書きにした暖簾の下では、木枠の入口に曇りガラスをはめ込んで、一枚には仮名で『めし』、一枚には真名で『酒』と派手に書いてある。両脇には大小の植木が鉢も見えぬほどに寄せて置かれているのが、夕日影を受け赤く染まる。
狭い店は、両側に化粧合板のカウンターが作られ、座面がドーナツ状に穴の空いた扁平な椅子が五、六ずつ並ぶ。左手のカウンターは厨房をかこみ、なかでは古びた白衣を着た親爺が、お玉を手にしたまま腕を組んで、出入口脇の壁につけたテレビを見上げている。テレビは相撲を映す。親爺はテレビに向かって、「よし」だの、「ああ」だの繰り返している。客は蛸のみ。とろりとして奥にあり。
「たーこ、たーこ、たーこたーこ」
蛸の前には味醂の一升瓶が立つ。飯茶椀に注ぐ。口に含む。
「うめえなあ。本当にうめえなあ。でも味醂だから、おれあ酔ってねえ
ぜ」
「な、そりゃいけるだろ。明るいうちから酒はよくねえからな」
「口当たりが滅法いいね」と蛸は舌鼓を打つ。
「下手な酒よりずっといけるだろ」と鍋を一混ぜすると、縁をお玉で二、三度叩いた。
「おう、部屋に鍵をかけて一人で飲んだら、たいへんな酔い方をしそうだ」と蛸は言いながら体をひねって、水槽へ頭を向けた。底に砂利を敷いて水草が植えてある上に、金魚や目高の類が揺れている。
「昨日よ、店を早めに閉めて荒木町へ飲みに行ったのよ。『越乃寒梅』ってあるから、入(へえ)ったら、売り切れだとさ。へっ、いつから売り切れてたか、知れたもんじゃねえや。だいたいが、越乃寒梅なんて書いてあったって売り切れてなかったためしがねえ。仕方ねえから、居合わせた客と競り飲みだ。三合徳利十一本倒してきたわ」
「昨日は、朝から焼酎を嘗めて、縁側でまどろんでたさ。『向こうの庭の葉っぱも色づいたねえ』なんて思っていたら眠っちまってなあ。目が覚めたらよ。横に猫が寝ていてなあ。三匹。三毛猫に、『もしもし、今はいつ時分かねえ』って聞いたら、『四時ですよ』ってさ。脇の白猫は、『今は秋ですよ』って。斑は寝たまんまだ。おれあ、そのまま寝転がりながら月の出るのを待って茶摘唄を歌ってよ。皆で歌ううちに、また眠っちまったなあ」
「仙人みてえな一日だあな、おい」
「気楽に行くしかねえのよ。考えだしたら気が遠くなる。うん、何か食うか。メンチカツ揚げてくれ」
「一枚でいいかい」と冷蔵庫を開けしなに、「あっ」
「何だ。ねえならほかの物でもいいぜ。揚げ物な。精進揚げ以外な」
「いや、キャベツがねえのよ」
「なけりゃないで構わねえだろ」
「ほかのもんならいいんだけどよ。日替わりをキャベツと豚肉の味噌炒めにしちまった」とメンチカツを揚げる。
「そんなもん、ミックスフライ定食にでもしとけ」
「豚肉が余ってんだよ。田川の親爺に余計に買わされてよ。キャベツがねえと。肉の色が変わっちまう」
「代わりに表の菜っ葉でも入れときゃ、わかりゃしねえよ」
「あくを取らねえといけねえからな。まあいいや。ちょっくら店番しててくんな。向かいで買ってくらあ。お客が来たら、冷蔵庫に伽(きや)羅(ら)牛(ご)蒡(ぼう)と昆布巻が入ってるから。自分で出してもらってくれねえか」とメンチカツを皿に載せ、蛸の前に置きながら店を出た。
蛸は頭の後ろの水槽に眼をやる。水面に金魚が顔を出してまた潜った。「よう、おめえさんがたも何か食うか。え、何だって」と蛸は水槽のガラスに頭をつけた。「ああ、腹はいっぱいなのか。こんなガラスの桶に入れられて、湖とかのが好くはねえかい。そうだな。太平楽が何よりだな」表では、八百屋の店先で客が話し込む。
「魚久さん、お惣菜作りだしたわね」
「あんなの、自分で作りゃいいのに。鰺なんて塩をふって焼いただけで百円が三百円だよ」
「あんたのところも野菜炒めでも作って並べりゃいいのに」
「ちょいと、キャベツ一つくんな」
「今日よ、マンゴーが安かったからつい仕入れちまったんだが、持って行かねえか」
「いらねえよ」
戸が引かれ、「すまねえな」と戻ってくる。キャベツを左手で下から支え持つ。右手は油紙の袋を提げている。
「この金魚はいつからいるんだい」と蛸が尋ねた。
「どうだかな。昔っからいるからな。そうして活け飼いにして、たまにパン粉でもやってんだ」とキャベツを刻みながら背なかで話す。
「さっき話したらよ。『ここは年がら年中うまそうな臭いがするし、親爺は親切だし、気をつかう相手もいねえから楽なものだ』って言ってたぜ」「へえ。金魚がそんなことをねえ。おめえさんは金魚の言うこともわかるのかい」
「まあ、だいたいな」
「今、隣の魚屋でよ、鰯もついでに仕入れてきたから食って行くかい」
「そうだな。今日はそれを食って帰るか」と言いつつ、蛸は壁の品書きを眺めた。
『肉豆腐定食三百五十円』『煮込み百三十円』などと、跳ねた字で価がつけられている。
「飯はいいや。鰯だけ焙ってくれ」
「ああ。あと、柿があるな。食ってくか。あ、蛸と柿は食い合わせがあるのか」
「そりゃ、蛸と柿を食った場合の話だろう」「蛸が柿を食うのはどうなんだあな」
「どうだかな。ま、よしとくわ。しかし大きい鰯だな」
「米国で釣れたものらしいぜ」
「へええ。米国から来たのか」
「今はあれだってよ。鮪もスペインだってよ。それこそ、北アフリカや南米やら、地球の裏側からも持って来てるってな。魚久の親爺が言ってた
ぜ」
「昔は日本人が勝手に行って、勝手に取っていたのによ」
「一丁上がり」と大根おろしを添えてカウンターに載せた。
「いただきます」と蛸は鰯に言った。
「うん、うめえな。おっ」
「どうしたい」
「卵がある」
「そりゃ、鰯だって卵くれえあるだろうよ」
「いや、こう、ありありと見せられちまうと、どうもな。鰯にだって、卵があるのは当たり前さ。そうはそうなんだが。食いながら、ありがてえとは思っていたんだがな。鰯の卵(はららご)を食ってよ。染み入るねえ」お玉を持った親爺は腕を組み、テレビの相撲に見入る。
「猫の取っ組み合いみてえな相撲だあな、おい。遊びがねえわな。ゆとりが」
蛸は黙って鰯を食う。
「ごっそさん。それじゃ、帰(けえ)るわ」
「今日は二百円」
「そうかい。またな。たーこたーこ、たーこたーこ」八百屋の店先に臥していた犬が頸をもたげた。
「おめえさんもまた明日な」と蛸は犬に挨拶して立ち帰った。
紅の夕日が領している路地を、練塀に沿って蛸が行く。
旋風に従って枯葉が舞った。

その十

「たーこ、たーこ。たーこ、たーこ、今日も日が暮れるねえ。ゆくりなく
川は流る、か」
河原の堤を丈の低い草が覆い、群がる薄が風の吹くまにまにうねりを打って揺れている。夕日に向かっては、雁が群れをなして去る。蛸は土手の腹に寝そべり、そよ吹く風に靡(なび)きあう草に隠れる。手にはカップ酒を持ち、カップの縁を嘗めている。
堤の上を犬が来た。秋田犬である。
「わん」と一吠え。
「おっ、おめえさんかい。こっちに来な」
犬は堤を駆け下りて、蛸と並んで坐った。蛸より二回りほど大きく見える。
「わん」
「何をしているのかって。こうしてな、たまに河や鉄橋をただ眺めていたくなるのよ」
堤の上の交通は増すが、土手の叢(くさむら)に寝そべる蛸に気のつく者はない。水際には、眉毛の真っ白な爺さんが畳み椅子に坐って、憂いのないけしきで釣り糸を垂れている。
「ほれ、見ろ」と蛸は鉄橋を指した。
「鉄橋の上だ。電車がああして、やって来てはすれ違う。レールに乗っていたらな、行く所は決まってる。行く所がある分、上等だな。昼間は空いている黄色い電車が右や左へ行き去って、だんだん腹に多くの人を抱えて行くんだ」
「わん」「おめえさんと同じよ。皆、目当てがある。皆、誰かの役に立ちてえと思って、毎日通うのさ」
「わん」
「ありゃ、慣れよ。朝から晩まで働きゃ、そりゃくたびれるわな。しかし、人間は動いていないとな。へへっ。おれもなあ。三十年もああやって、毎日毎週、家内の作った弁当を提げて通ったものだなあ。我ながらよく通ったものよ」
「わん」
「まあなあ。まったき健康になるのを待って働こうとしたら定年迎えちまうよ。かったるいからって働く力がないわけじゃねえからな。とは言え、四十過ぎてからは、無理をしねえこつがわかってきたがな。近頃じゃ、心身ともにかえって軽快よ」
「わん」
「ありがとうよ。ただな、どうもな。生活が。どうも、こういう生活も、いや、生活とは言えねえな、こういう情態もしまいになってくんのかねえ」蛸の傍で雀が鳴く。群がり飛ぶ烏のねぐらへ帰る音が連なる。
「どうにも真面目になりたいねえ。真面目になれないからせつないんだろうねえ」
「わん」
「人間てのは、そこかしこにしがらみがあってなあ」
「わん」
「犬にだって縄張りがあるから、勝手なまねは出来ないってか。そうだな。犬ころも何やかやと、ありそうだものな。このあいだもよ、ぶらぶら歩いていたら、二階家の張り出しの上から黒い子犬が吠え立てるのよ。下で散歩していた犬に。体が跳ねて飛び出るくらいな吠え方で」
「わん」
「そうだな。ありゃ、自分の飼われている家のまわりも自分の縄張りだと思ってんだな。犬はひろい場に置くと、すべて自分の縄張りだと思っちまうから狭い場で安心させてやるのか。犬には犬の社会通念ってものがあるらしくて、吠えかけられた犬の方も、何やら済まなさそうに歩いていたっけ。往来の端を嗅ぐ振りして、早く立ち去りたいってけしきだったが、それを飼い主には気(け)取られたくない風にも見えたな」
「わん」
「飼い主の手前、様にならない姿は見せられないか。しがらみだな。おとついなんてよ。通りの先に、女の子が大きなふさふさした犬を三匹散歩させてんのよ。引っ張られていたけれどな。三頭立ての馬車の様だったぜ。それが横丁に入ったと思ったら、またすぐに出てきて、通りの方を行ってさ。あとから横丁に入ったら大男が、これまた鋼鉄のごとき犬を連れてんのよ。ははあ。と合点がいったわ」
「わん」
「犬はまわりを気にする性質があるってか。そうか」
「わん」
「そうだな。付き合うなら、利害の切り合わねえ気楽なのが一番だ。他人に物を言う時にゃ、優しく言わねえとな」
入り日が蛸の正面から射る。烈しい夕映えに照らされ、土手の草一面が朱に燃えんとし、蛸は金色にかがやく。犬は薄の銀を含んで流れる川の面を眺める。風が土手の向こうに降りて行く。
蛸から湯気が立ち昇ってきた。
湯気はまた紅の夕日に映じ、蛸の頭の上で波紋をなす。
「熱、熱」と慌てた蛸が頭を搔き撫でた。
「ふう。夕日とは言え、茹蛸になるところだった。蛸は肌が弱いんだ。そろそろ、帰るとしようか」
「わん」と犬は蛸に背を向けてしゃがむ。
「乗っけてってくれんのかい。優しいねえ」蛸は犬の背に乗り、堤の上を帰る。
「たーこ、たーこ、たーこ、たこ」
往来の流れを横切って、婦人が猫を紐で引く。猫は犬の様について行く。



その十一

角材の様な門柱には『貸間アリ〼』と赤く書き立てられた札が下がる。
『貸間』の二文字はボールペンでぐるぐるとかこまれてある。
裏へめぐって、小春日和の縁側には蛸と犬。日を受けて、蛸は丸い影を、犬は太い影を背に落とし、風のそよそよと草を揺らす、やわらかな日なかにあって並んでいる。
草を靡(なび)かせる風は、縁側から六畳の座敷へと上がる間際に、秋田犬の毛を撫でる。犬は風を受けて目をつむった。
並ぶ蛸は、目を一本の黒い線に細め、垣根越しに接する隣の庭を眺めている。
「たーこたーこ、たーこたーこ」
「わん」
「今日は静かでいいね」
「わん」
「こういう日は、ちびりちびりとやりてえな」蛸は腕で輪を作り、飲む手振りをした。
「されどこれがね」と今度も輪を作って見せた。
「わん」
「ああ、今一つの方ばかり数えるなって。好い方を数えねえとな。今日の空はどこまでも高く抜けた様だね」
「わん」
「家に戻りたくてもなあ。蛸のままじゃ、門をくぐるたびにお玉と寸胴鍋が出て来るからな」
「わん」
「今は、時期がいい気がするって。へへっ。ありがとうよ」
隣のトタン屋根に、軽石がのった様な音をさせてヒヨドリがとまった。青みがかった灰色の毛が、頭の後ろばかり荒く逆立っている。
茶の頰をめぐらせて、「ひいよ、ひいよ」と一鳴きを空へ挙げると、自らの声を追う様に高い空へ向けて飛び立った。
「何だあの鳥は。細身だね。それに比べてこの頃の鳩の太り様はなんだ」竹垣越しに蛸の眺める隣の庭には、丸い鳩が歩いて、色づいた草の間をついばんでいる。動きが鶏である。樫の実の落ちたのに駆け寄った。
「一昔前は、もうちっとやせてたよなあ。そのうち飛べなくなるんじゃねえか」
「わん」
「この前、橋の端を歩いていたら鳩が歩いてきて、そのまますれ違ったって。鳩も呑気になったねえ。そういや、このあいだは往来のまんなかに鳩が坐り込んでいたな。猫みたく」
「わん」
「何、鳩に頼んで手紙を持たせたらどうかって。伝書鳩か。そいつはおつな考えだ。一つ、手紙でも出してみるか」
この時、奥の襖が小刻みに揺れだした。蛸は隙間風が通っているのだろうと思った。それが次第に大きくなる。杭を打ちこんだ様な音がして根太が揺れる。
「おお、地震だ」と立ち上がる。
犬も立ち上がったが、平気な顔をしている。すでに襖は鎮まった。天井から吊った電燈がのろりのろりと揺れている。
「ふう、最近多いな」
烏が今さら鳴きだした。
「わん」
「ああ、そうか。手紙か。今ので頭からすっぱ抜けちまった。さて、と」蛸は畳に上がると、隅に置いた壺のなかへ入って、筆と紙を探し出した。
「墨が切れちまったな。どうしたものか」
「わん」「おおそうか。おれは墨を出せたんだっけ」と腕を筆に巻きつけた。
「あいつに手紙を出すなんざ、いつ以来だ。こりゃ」
蛸は畳の上に半紙をひろげて、筆を持ちながら二本の腕を組む。ほどいて墨をつける。
「わん」
「そうだな。まずは挨拶から。ええと、拝啓、おおう」と頓狂な声を上げた。
「わん」
「こりゃ、筆が使えねえわ」と便箋に筆を走らせるも、みみずののたくるごとし。
「そういや、蛸になってから字を書いていなかった。最近やったアルバイトは履歴書がいらねえものばかりだったし」
「わん」
「そうだな、まずは練習だ。へへっ。この年で習字たあな。四十ならぬ五十の手習いだ」
蛸は畳の上で身を投げ出して練習する。紙の上に棒を並べ、くるくると渦巻きを作っている。
「うむ。草書体ならすぐにものになりそうだ。『いろはに』っと。ひらがなだけで書いちまおう。ふむ。字らしくなってきた。そろそろ本番だ。ええと、『はいけい だんだんさむくなりそうろう』電報みたいだな、どうも」
「わん」
「そんなことはねえってか。そうだな。『そちらはかわりなきこととぞんじそうろう。わたしはたこになりそうろう。ようけんのみ。けいぐ』ふう。こんなものか」
蛸は妻に送る書付を細く畳んで結わいた。鳩はとうにいない。
「わん」
「ありゃ、鳩は飛んで行っちまったって」
「わん」
「何。届けてくれるのか。そいつはありがてえや。頼むぜ。いやちょっと待ってくれ。うん。どうしよう。こんな手紙、今さらすっぽ抜けかもしれん」
「わん」
「ああ、そうだな。行動しなけりゃ、目的も見えてこないからな。持って行ってくれ」
「わん」
犬は手紙をくわえて垣根をくぐる。軒のつらなりの合間を抜けて走る。
「さてと。筆を洗ってくるか」と洗面所へ。
「たーこたーこ。たーこたーこ」
日の光が蛸の色を洗面台に滲ませ、紅くなったところに、墨が渦となって落ちて行く。
再び縁側に納まった蛸は、溜息を吐いた。
「おれは蛸になってるな。これはなぜ」
蛸は落日の光に面を照らされながら、視点を定めようとしない。
「わからねえ」と一言洩らした。日の陰りに従って長方形に変じて行く目には、はるかに見える鶫(つぐみ)の南へ帰って行く姿が映っている。樫の実が一つ落ちた。
「皆目見当がつかねえ。御天道様はご存知かしら。ふう。休めっていう必然の時なのかねえ。一日また一日、御天道様が頭の上を通り越して行く」樫の実がまた一つ落ちた。
「手紙、読んだかな。あれを読んで何と思うか。このままじゃ無常を観じてしまいそうだ。おお、これが無常観か。おれは無常観を得たぞ。どうです」と起き上った。足の一本を前に出す。先の方だけ、下に傾けた。
夕日が縁側から畳の上にまで流れて、静かに蛸壺を包む。
雀の群れが庭樹の柘榴の梢に降り立ち、砂利の上に葉を落とす。
犬が割れ塀の隙間から戻って来た。縁側まで来て、尻尾を振った。
「わん」
「おう。どうだったい。首尾は」
「わん」
「生垣をくぐって庭から吠えたら娘が出て来たって。どうだった」「わん」
「卵色のスカートを履いてたか。買ってやった覚えはねえが。それで元気そうだったか」
「わん」
「そうか。そりゃよかった」
「わん」
「それで、『あ、かわいらしい犬が入って来た』って言うから、傍に近づいてみて尻尾を振ったら、『おいで』と呼んで撫でてくれて、うれしかったって。手紙はどうなったんだい」
「わん」
「家内も出てきたから、手紙を渡したのか」
「わん」
「三遍回って読むのを待っていたら、何、家内は、『あっ』と一声出した切り、奥へ行っちまったか。ううん。少しはっきり書いちまったかな」
「わん」
「それで奥から娘を呼ぶ声がして、そのまま出て来なかったから、待っていたって。ご苦労だったな」
「わん」
「娘が出て来て、『また来てね』って言ったから、帰って来たって」
「わう」
「いやいや。何が余計なものか。まあ、糸口はこんなものだろうな」
「わん」
「また明日にでも行ってみるってか。まあ、間を空けた方がよさそうだ」
「わん」
「せかせかしたって仕方ねえからな。また明日も遊びに来てくんな。いなけりゃ、その辺をぶらぶらしているからよ」
「わん」と犬は蛸に挨拶して、垣根から帰った。
「うん、今日は何やら、あれやこれやした気がするな。今日は早めに寝るか」と蛸壺に潜り込んだ。
残照が蛸壺に差込む黄昏に、蛸は夢を結ぶ。
「たーこたーこ。たーこたーこ。帰ったぞー」
鳩が一羽、見るべき者のない庭に下りてきて、角笛の様な声を出した。

その十二

淡い日差しが萬屋の店先を包み、大売出しの旗がひるがえる。縁台には丸盆が置かれ、徳利が一本立ち、二本は転がる。脇には火桶を据え、灰に埋もれた炭の火を頼りに蛸が酒をかぶった跡をさらしている。
蛸は、店先に置かれた自転車の籠に入り込んで、「出発進行、進行、進行」と続けながら、足を挙げて前と後ろに打ち振っている。
酔いどれの下には秋田犬が寝そべる。
「たーこ、たーこ。うーい。たーこ、たーこ。ひっく」と籠から出てきて、猪口で酒をふて飲みする。
蛸は冷え切った酒を手酌で注いだ。風が鳴る。
「寒いね。こう寒いと膝がしくしくしたものだが、今じゃこうしてしなやかで。懐具合も軽やかで。正月にゃいずこにいるのやら。今年も十日で仕舞いでさ。ええ、仕舞いでさ」と縁台を打ち、拍子をとって歌いだす。
店のガラス戸が引かれ、萬屋の亭主が顔を出した。
「入ったらどうだい。風が冷たいのに」
「風が吹いて暮れになる。蛸になって籠に乗る」と自転車の籠に入り込んだ。
「あー、やっぱり蛸になっちまうとどうもな、お察し物だな。ええ、親爺。唄にしてみました。
日が暮れりゃあ犬に乗る  年が暮れりゃあ籠に乗る  網に掛かって抜けなけりゃ  風呂敷包みを捨てるだけ  東西南北自由の身。ほいな、ほいな。どうです。自転車の籠にも入れます」と胴間声で勝手な唄を聞かせて萬屋の親爺に向く。
「それなら、おでんでも持ってくるから」「あれ、いいよいいよ。酒で。まだ三本しか倒してねえんだ。使い納めだ。うんと飲んでうんと酔おう。へへっ。明日の知れねえ酒はしびれるね」
土手の上を、小児が両手にどんぐりを盛って歩く。魚屋が大皿の刺身を盥に担いで自転車で得意先へ向かう。隣の軒下では、炭屋が炭の上で鋸を動かしている。その先を、淡い青年が歩いて来た。
「いよっ、小川さんじゃないの」
「あっ、おじさん、こんにちは」
「お出掛けかい」
「ええ、公会堂までクラシックを聞きに」
「クラシックかい。洒落てるねえ。たまにはおれも浸りてえなあ」
「それなら一緒に行きませんか」
「いやいや。察してちょーだい」と円を作る。
「ああ、それなら、区民のための無料演奏会ですし、大丈夫ですよ」
「おお、そうかい」
「わん」
「そうだな。何かしら、ぱっと心がひろがることもないと。一つ、お付き合いしますか。親爺、水」と籠から出る。
「じゃあ、行きましょう」
蛸は店先から萬屋の親爺に挨拶をすると、青年と並んで歩きだした。犬は後ろにつく。隣の唐辛子屋では猫の姿は見えず、先の切れた紐が石段に流れ落ちている。
「おれは間違っちゃいないんだよ。反省の仕様がないでしょ。おれの場合。日一日と出口に近づく心持でも持たないと」と管を巻く蛸に、青年は長い影を作って歩く。
通りでは注連飾りや輪飾りが出され、横丁には風呂敷包みを下げた者が、歳暮の挨拶先を探す。
蛸が声を張り上げて言った。
「今年も押し迫ってきたねえ」
「そうですね。皆、歳を迎える用意に楽しそうにしていますね」「正月はどこかへ行くのかい」
「とくには。親戚の家くらいには行くと思いますが」
「うん、まっとうな暮らしだ」
「おじさんは、どこかへ出掛けないんですか」
「海でも行こうかなー」と蛸が虚空に向かって喚く。
「海に行くんですか」と青年が真正直な顔をして聞いた。
「いや、まあ、なんつーか、行ったらどうなんのかな」
「わん」
「思い切るなって。へへっ。そうだな」
「おじさんは犬の物言いがわかるんですか」
「まあな」
「犬と話せる人はそういませんよ。がんばって下さい」
「へへっ。ありがとよ。そうだな、肯定的な発言ちゅうのは大方、間違っちゃいないが、否定的なのは、じつのところで合っていないものだ」
「わん」
「今のは、何て言ったんですか」
「今のは相槌だな」
通りの街路樹に、三角巾を頭に巻いたおかみさんが自転車で乗りつけた。自転車を下りて、苔のついた木の幹に群がる背の高い草を、次々と摘み取っては、籠に載せている。
「そういや、あれじゃねえかい。クラシックなんてな。こう、かしこまった出で立ちでなきゃ済まねえんじゃねえのかい」
「別に、今日のは普段着でいいんですよ」
「せめてネクタイくれえ、締めてくりゃよかった。黒でもいいかね」と頭を撫でた。
「背広で来るのは勤め帰りの人くらいですね。さあ、公会堂に着きましたよ」
公会堂を控えた広場ではコンサートを待つ人々が、多くは散歩にでも出て来たかという様な気軽な身なりで弁当を食っていた。ベンチが満員ならば階段で、階段が埋もれていれば仕切りの石組みの上で、互いの間に弁当や飲み物を置いて腹を満たせている。
蛸と青年は広場を端から端へ抜けて公会堂へ向かった。
「あれも客かい」
「そうだと思います」
「イメージと違うな。クラシックっつうと、ワイン片手に紳士淑女が屋根のある大きな家で談笑していそうだが、いつからこうなったんだ」
「前からですよ。楽しみ方は人様々ですね」
「そう。おめえさんはどうする」と蛸は犬に聞いた。
「わん」
「待つつもりかい。けっこうかかるんじゃねえのかい」
「今日のは一時間くらいだと思います」と青年がチラシに眼を落して教えた。
「だとよ。すまねえが、その辺で待っててくんな」
「わん」
公会堂は二階三階までぐるりと座席が備えつけてある。一階には教会堂の様に列を揃えて椅子が床を覆う。表で弁当を拡げる者が多ければ、椅子に納まる者は少ない。
「ええと、おっ、一番前が空いてんじゃないの」
「そこにしましょうか」
蛸は床を滑る様に動き、舞台近くまで出た。バネ仕掛けの椅子を手前に倒して、その上に乗る。椅子は元に戻ろうとする。
「あ、挟まれた。ん、何ともないな。こりゃふかふかだ」
「大丈夫ですか」と青年は椅子を開けた。
「おかげで酔いが冷めたわ」
青年が鞄を蛸の椅子に載せた。
「これを重しとするといいですよ」
蛸は青年の鞄を肘掛にして坐った。
「よいしょっと」
「今日はバイオリンの三重奏ですよ」
「おれはこの年まで、クラシックてのを間近に見たことがねえな」「きっと楽しいと思います」
腹を満たせた人々が公会堂に入って来て、席に着く。
演奏者が袖から出て来て、音の調節をしだした。全会が鎮まる。コンサートが始まった。
「おお」と洩らした切り、蛸はバイオリン弾きの奏でる音色とその動きに、つつまれた気味で見入っていた。
演奏の最後の一弾きがなされ、曲が果てた。蛸が陶然とする間もなく頭の後ろから、「ブラボー」との絶叫が放たれた。
「おお、仰天した」と蛸は飛び跳ねた。椅子が畳まれた。
「ブラボー!」と背広を着た親爺が、またぞろ叫ぶ。
「ああ、何事だ」
背もたれに乗った蛸が、顔を紅潮させながら振り向いて、「あ」とまた驚く。
「あ、どうもすいません」とブラボー親爺は会釈をした。
「何だ。赤松じゃねえか」と蛸は旧知のごとくに名を呼んだ。
「は。なぜわたしの名を」
「何が『わたし』だ。近頃は相撲見物から、こっちへ移ったのか」
「ま、まさか青田か」と眼鏡のずれを直して近く見た。
「そうだよ。見たってわからねえだろうが。店番はいいのか。佃煮屋は今時分忙しいだろう」
「かかあに任せてある。いや、それより、おまえ一体どこでどうしていたんだ。いや、それより何だその姿は」
「何だって、蛸だよ」
「蛸はいいが、それならそうと、家に戻ったらどうだ」
「いや、それがよ」
小川青年が客の退くのを見ながら、
「閉まりそうですから、ひとまず出ましょう」
雲の合間に月の色がぼかし出されて、公会堂では方々の出口から人々が流れ出る。その景色を犬が脇で見上げて、端から端まで右に左に眼を放つ。「いやいや、それがよ、おれも行ったのよ。このあいだは手紙も出したし」
蹲っていた犬は、蛸の声に頸をもたげて真一文字に人々の間を駆け抜けた。
「おう、待っててくれたのか。ありがとよ」
「行ってどうしたんだ」とブラボー親爺が話の先を促した。
「ただの蛸としか思われなかった」
「おまえまた、いきなり入って行ったんだろ」
「まあな」
「そりゃ、いきなり蛸が現れて口をきいたら、たまげるぞ」
「手紙はどうなったんですか」と青年が聞いた。
「返事はまだだな」
「おまえ今、どこに寝泊まりしているんだ」
「うん、かつら町の山本って下宿に納まってんだ」
「下宿か」
「わん」
「何て言ったんです」
「家に帰ればいいとさ」
「その通りだ。帰りゃあいい。どうせ荷物なんて大してないんだろ」
「まあ壺くれえだな」
「そんなもん、あとで取りに行って、今日はこの足で家に戻れ。とは言え、また驚かれるだろうから、おれも行ってやる」
「わん」
「おめえさんも来てくれるのか。すまねえな」
「よし、みんなで行こう」
路地にたてこめる幽暗を透かして、蛸とブラボー親爺と青年が並び立つ。犬があとにつく。
「いやいや、まさか赤松がクラシックとはな」と蛸は笑う。
「そりゃこっちのセリフだ。球場と間違えてんじゃねえか。ビールも焼きそばも出ねえぞ」とブラボー親爺も言う。
「わん」
「何、たまには合奏会も行くものだって。そうだな」
路地の流れの植え込みでは、斑猫と虎猫が寄り合う。ところに婦人が一人、しゃがんで斑猫を搔き撫でてやっている。
斑猫には首輪がついていた。首輪からは赤い紐が地面まで垂れている。
婦人は小脇に抱えた包みを抱え直すと、赤い紐を蝶々結びにしてやったが、やがて寂しく打笑み、首輪を外した。
斑猫は顔を平らかにして虎猫と憩うている。
青年が口を開いた。
「あの、もしかして祝山通りの青田さんって、由紀さんのお父さんですか」
「え、小川さん、由紀を知ってらしたのかい」
「ええ、友だちでして」
「そりゃ都合がいい。つれだって行こう」とブラボー親爺は拳を上げた。
夜空を低く鎖していた雲が散らけて、高く照る月の面(おも)輪(わ)を鳥が渡って行った。
青田家の板屋根がのった門には、注連飾りが掛けてある。門柱には太い竹に松の枝を藁縄で結い合わせた物を立て、正月を迎える用意を整えている。『青田  運八』と出した表札の上には、丸い電燈が取りつけられ、夜に備えた明りが灯る。垣根には蔓草がからまり、師走の風に揺れている。
白銀の月の光にひたされて、蛸、青年、ブラボー親爺、犬、門口に立つ。
蛸が生垣から蔓草を引っ張り出した。
「何してんだ」
「いや、ちよっと。何だかな。どうも、門が幅広い気がするな。ちいとばかし狭めた方がいいんじゃねえか。石でも並べて」蛸は足で垣根の下の砂利を入口に搔き寄せた。
「そういう大工仕事は日曜の昼間にやれ」
「こんなにひろかったっけな」
「前と同じだ」
「もっとこう、蔓草をからませて入口だか何だかわからねえ様にしねえと」
「蛸壺じゃねえんだ」
「わん」と犬が垣根をくぐって庭に入る。
犬の吠えたのに、娘が丸い顔を見せた。
「あ、またあの秋田犬だ。こっちにおいで」と縁側に出て屈む。
門の前では、ブラボー親爺が挨拶する。
「ごめん下さい。赤松です」
「はあい、お待ち下さい」と蛸の妻の声が、磨ガラスをはめ込んだ戸の内より応じた。
「おまえはそこで待っていろ」とブラボー親爺が戸を引いて門に入る。
「あら、どうも、こんばんは」と蛸の妻が迎えた。
「いや、夜分にすいません。じつは青田のことなんですが」
「あの、このあいだ、変な手紙が来て、蛸になったとか、ならないとか」
「手紙は読みましたよね」
「それが主人の字でもないし、何やらうねくねとして」
「いや、それは青田が書いたんですよ」
「え、赤松さん、主人のことを知っていらっしゃるんですか」
「そうなんです」
「どこにいるんです」
「気をゆるりと持って下さいよ。以前、ここに蛸が来たでしょう」
「ええ、蛸が」
「それが青田なんですよ」娘も玄関に出て来る。
「お父さん、どうかしたの」
「それがね、赤松さんが、蛸なんて変なことを言って」
「蛸なんですよ。今の青田は」
「え」
「お父さん、やっぱり蛸になったんだ」
「そんな妙な話がありますか」「いやいや、奥さん。私もね、不思議には思ったんですが、やっぱり青田なんですよ」
「お父さん、どこにいるんですか」
「今、外で待っています」
「え」
「呼びましょう。おい、青田入って来い。小川くんもな」
「え、小川くん」
「いや、どうも」と蛸は頭を搔きながら、敷居を跨いだ。後ろに小川青年。
「蛸。何で蛸なの。蛸が喋ったわ」と蛸の妻は額を押さえた。
「まあ、まあ、ここじゃなんですから」とブラボー親爺が先立って上り込む。
蛸の妻は娘に急かされながら入る。
「こんばんは」と青年が挨拶した。
「どうしたの、小川くんまで」
「蛸のおじさんと、散歩とかしていたんだ」
「おうよ。野球見たり、飯を食ったりな」
「そうなんだ」
皆で座敷に入る。座敷机の長い辺に蛸の妻と娘が、向かいに蛸と小川青年が坐った。結わいた柳を挿した床の間を背に、ブラボー親爺が端に構える。犬は庭で待ち受ける。
不満なけしきが頰に出ている蛸の妻に、ブラボー親爺が話にかかる。
「奥さん、まあ、そう、料簡を突っ張らずに。とにかく戻ってきて僥倖だ」
「そりゃそうですが、蛸なんて」と頰を戻す。
「だから書付を持たしたろ。犬ころに」「わん」と庭に控えた犬が相槌を打つ。
「蛸になったって書いといただろ」
「あんな手紙じゃ、わけがわかりませんよ」
「お父さん、どこ行っていたの」
「今日は合奏会だな」
「珍しいね。どうだった」
「あんな小せえ楽器が、あんなにでっけえ音を出すたあな」
「何言ってるんです。今の今まで、どこでどうしていたか聞いているんです。それに何で蛸」
「隣町の横丁で下宿していたのよ。おれだって、働こうとしたんだぜ。でもこのご時世だ。蛸じゃ、簡単に出来なくてな」
「どんなご時世だって、蛸を雇ってくれる所なんてあるものですか」
「おまえが、そう言うこたあねえだろ。おれだってな」と蛸が言いも切らぬに、
「まったく、どこをほっつき歩いていたかと思えば」と胸のうちをかぶせる。
「まあ、まあ、とにかく帰って来たんだ」とブラボー親爺が宥めた。
「わたしは、何が何だかわかりませんよ」
「おれがおれの家に帰って来て、何がいけねえんだ」
「帰って来たって、蛸になって帰って来ることはないでしょ」
「ええ、帰って来たんだからいいじゃん」
「おまえは父親が蛸だっていいだろうけどね、わたしなんて夫が蛸だよ。昔話じゃないってのよ」
「とにかく、伸し餅を分けるのにも青田がいた方が便利でしょ。正月を家族揃って迎えられて、めでたしめでたし、だ」
ブラボー親爺が、この場の結論を出して、湯飲みに手を伸ばすのを気に留めずに、蛸の妻は続ける。庭で立っていた犬は蹲った。
「だいたい何ですか。その姿は。何で蛸になってるんです」
「知らねえよ」
「知らないってことはないでしょ。蛸になったのはあなたなんですから」「おれだって手続き踏んで蛸になったわけじゃねえや。べらぼうめ。そんなに知りたきゃ、どっかの偉え坊さんにでも聞いてみろ」
「ま、人が心配して言ったのに」
「おめえのどこを探したら心配なんてもんが出て来るんだ。ちいたあ、おれの肚になって案じて見ろってんだ。おれあ、下宿暮しでよ。縁側で悟りを得るところだった。春夏秋冬神祇釈教恋無常だな」
「その通り。それに奥さんもなんのかの言いながら、青田が蛸になったのをわかった様ですし」とブラボー親爺は、鉢に入った蓬萊豆を口に放り込む。
「そうよ」と娘も続く。
「そうだけど」
「小川くんは、お父さんとどこで会ったの」
「え、いや」
「何だ。そういや、おめえたち、友だちとか言ってたな」
「友だちじゃないわよ。付き合ってんのよ」とえくぼを深くした。
蛸は顔を紅潮させたつもりで、赤い顔を蒼くした。
「何だ、そんな間柄だったのか。おれなんか見合いだったからな。付き合うとか、何だその何だとか。いいなあ。最近は。でも早過ぎない。いやいや、そんなものなのか」
「何言ってんですか。顔を赤くしたり蒼くしたり」
「お母さんは、お父さんが戻って来ていいんだよね」
「そうね」
「それに、あのハチ公みたいな犬。あの子もお父さんの友だちなんでしょ。うちで飼ったらいいのよ」
「わん」
「ほら、悦んでるよ」
「ありゃ、今こそ、恩を返すって言ってんだよ」と蛸が通訳する。
「お父さん、犬と話せるの」
「何だか知らねえが、言うことくれえ、わかるのよ」
「恩って何。助けてあげたの」
「なに、コーヒー牛乳をおごってやったんだ」
「それだけですか。利口な犬だねえ」
「それじゃ、決まりね」
「なにしろよかった。後片づけは任せとけ。蛸壺も取ってきてやる。ええと、山本だっけ」
「すまねえな。どのみちいらねえが、ああいう物は残しておかない方がいいのよ。『物には縁がついてまわる』っていう俗諺もあるからな。ちゃんと塩を撒いてから捨てないと」
「じゃあ、今日はゆっくり風呂に入って休むんだな」と、ブラボー親爺は腰を上げた。
「おう。うちは風呂だけは檜造りだからな」
「じゃあ、今日はそろそろ」
「あら、何か召し上がって行って下さいな」
「いやいや、せっかくですから、青田とくつろいで下さい」
「僕も帰るよ」
「そうだね。またね」
「いろいろと、お世話様でした。また、お礼かたがた伺いますので」
玄関に出て、ブラボー親爺と青年を送る。玄関燈が、外から流れ込もうとする夜の空気を照らしつけていた。澄み渡った夜空に、蒼い星が瞬きだす。
郵便の赤い車が年賀状を山積みにして去った。すれ違いに正月飾りを積んだ大八車が藁の匂いを引きながら通る。
「わん」
「あ、ハチは家にいてね」
「今日はすまなかったな。恩に着るぜ」
「じゃあな。ブラボー!」
「よいお年を」と青年も行く。
「おう。たあこ。たあこ。たっこ。たっこ。たっこ」
〈完〉

初出

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