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【自伝(9)】拗らせのーこの半生(2013年3月・24歳〜2014年12月・26歳)

ついこの間大人の小説を投稿したばかりですが、自伝の方も進めてまいります。

今回も結構ヘビーな内容になっております。
新しく繋がってくださった方には心配をかけてしまうかもしれませんが、のーこは元気なので安心してください。

確か前回はホラーで終わらせてましたね。
あれからしばらくは平和に過ごしていたのでどこから書こうか悩んだのですが、今回はDさん(今の彼氏)との同棲が始まった辺りから書こうかなと。
そして色んな出来事を詰め込みました。
今回も長いです。

今回は父と愛猫の死について書いています。
結構キツイ描写があるので、メンタルがやられそうな方は読まないことをお勧めします。
特にペットを飼われている方は。
大丈夫な方だけ、ごゆるりとお読みください。





2013年3月。当時24歳。
Dさんとのお付き合いは順調に続いていた。

4つ歳上のDさんは、二浪したりなんだかんだでやっと大学院を卒業することに。

卒論の発表を私に聞いてほしいとのことだったので、その日は私もDさんの大学院にお邪魔した。
私の学力は大変お粗末なものなので、難しいことは本当に分からない。
それでもDさんが長いこと研究を頑張って続けて、それが実ったことは分かった。

Dさんは大学院を卒業した後、番組の制作会社に就職した。

埼玉に住んでいたDさんは東京に引っ越してきた。
それをきっかけに同棲が始まる。

入社日の前日。
元気が取り柄のDさんが熱を出した。
一晩で熱を下げねばと看病した記憶がある。
翌日には熱が下がり、無事に初出社を果たしてくれて本当によかった。

ADという役職から始まったDさんは、この日からめちゃくちゃ忙しい日々を送ることになる。

まず、初っ端から二時間ドラマのADに就くことに。
入社して丸々一ヶ月、休みが全くなかった。
深夜の二時頃に帰ってきて仮眠を取り、四時、五時に家を出る日々が続いた。
私はそんなDさんを起こすために、夜から朝まで起きていた。

そんなふうに尽くしてしまうくらいに破茶滅茶に忙しかったのだ。
労働基準法なんてものが存在しない業界なので、ブラックどころの話ではない。
そりゃ辞める人多いわ。

ってかDさんの話しかしてないわ。
まぁいいや。

尋常じゃないほどのタフさを持っているDさんは、ひたすらに仕事を頑張った。
今もだけど。
理系で研究をしながらもエンタメが大好きな人で、今の仕事にずっと憧れていたらしい。
Dさんのそんなところをずっと尊敬している。

当時は世田谷区の祖師谷に住んでおり、四畳半ワンルームのアパートの部屋を借りていた。
部屋の中に洗濯機置き場もなく、アパートの一階に設置されていた洗濯機を利用。
当時187cm130kgのDさんとセミダブルのベッドで一緒に寝て、とにかく狭いし寝返り打てないしで快眠とはほど遠かった。

お金なんてなく、休みの日はお金のかからないデートをしていた。
大きい自然公園に行ったり、滝を観に行ったり、アウトレットでウィンドウショッピングをしつつ、安くて良いのがあったらお買い物したり。

これはこれで幸せであった。

まぁこの間も私は乳ガンのホルモン治療中で、更年期障害は辛かったのだけど。

そうそう、このホルモン治療。
女性ホルモンの分泌を止めるので、めちゃくちゃ太る。

治療前は165cm58kgだったのだが、五年の間に12kgも太った。
運動しても全く痩せず、治療中はもう諦めた。
それでもDさんと並ぶと私は小さく見えるので、少し助かっていた。
(現在は10kg痩せました、やったぜ)

毎年7月には乳ガンが再発していないかの定期検診がある。
治療が終わった今は再発に対してそこまで不安とか恐怖はないが、当時は再発したらどうしようと不安で仕方がなかった。

マンモグラフィ、エコー、採血、CTを行い、結果はいつも二週間後。
検査を受けてから結果を聞くまでがとにかく怖くて怖くて、私にとって魔の二週間であった。

結果を聞く当日になると吐き気がするほどの不安に襲われる。
でもN先生から「異常なし」と聞くと、全身の力が抜けて安堵していた。

そしてホルモン治療の影響で一応子宮ガンの懸念があった為、そちらの検査も年に一回行うことになった。
私が飲んでいたトレミフェンにはリスクが上がるという副作用はなかったはずだけど、まぁ乳ガンなっちゃってるしと。

子宮頸ガンと子宮体ガンの両方の検査を受けていた。
子宮頸ガンの検査は痛みはないのだが、子宮体ガンの方は痛みがあるので毎回ビビっていた。

子宮は数年前に一度だけ血液の塊が見つかってチョコレート嚢胞かもしれないなんてことがあったが、それは一時的なもので、今のところ健康である。

20代前半から自分の体や命と向き合ってきて、とにかく大変だなぁって。
ちょっと他人事みたいに感じたりもした。

どこか体調を崩すと、乳ガンを経験してるから念のためにその部位のガン検査も行うようにもなった。
胃を悪くした時は胃カメラ飲んだり。

かかりつけの大学病院の私のカルテには、私が知っている以上に私の情報が載ってる気がする。

そんなこんなで平和な時間が過ぎていくはずであった。

2013年12月。
父が親方から譲り受けて、20年近く経営していた蕎麦屋が閉店した。
リーマン・ショックと東日本大震災の影響により、経営がかなり傾いていたのだ。

もうお店そのものが存在しないので明かすが、新橋にお店を構えていた。
その賃料は約30万。
お店自体は小さく、そんなに沢山のお客さんは入らなかった。

それでもサラリーマンの常連さんたちが愛してくれて、景気が悪くなるまでは困ることはなかった。

しかし、震災の影響でうちの店の周りで働いていたお客さんたちは、会社そのものが引っ越したりして、どんどん減っていった。

それでいて物価がどんどん上がる。

うちの店はかなり良心的な価格設定にしていた。
父の方針だ。
消費税は取らず、大もり一枚600円。

母はさすがにやっていけないと散々父に言って聞かせて、それからやっと50円値上げしたくらいだ。

お客さんが減り、売り上げも伸びず、やっていける訳がなかった。

その時は私もまだ手伝いをしていたが、忙しかった時が嘘のようで。
店を閉める時間が早くなっていった。

父は相当悩んでいた。
精神を病むほどに。
それでも職人気質で頑固で、昭和生まれの昔気質な男である父は、人からの助言は一切聞かなかった。

夜は飲み屋にもなるうちのお店は、常連さんとお酒を飲みながら話すことも多かった。
その中に本当にお世話になったお客さん方がいて、その方達にはお店閉めるかもという話もしていた。

その話を聞いたお客さんの中には、出資するし経営も手伝うから店を続けてよ!と言ってくださる方もいた。
私と母はそのお言葉に甘えちゃおうよと父に言ったが、首を横に振るばかりであった。

父の蕎麦は本当に美味しくて、父にとっての誇りであったと思う。
だけど根っからの職人で経営の腕がなく、本人は相当悩み続けたのだろう。
そのお店は父の居場所でありながら、父を苦しめる場所でもあったのだ。

賃料も払えず、壊れた食器洗浄機も修理できず、借金が増えていく。

鬱になった父は、お店から家に帰ってくることが少なくなった。
一度家に帰ってしまうと、お店に行きたくなくなるからと。

もし、私が病気にならずちゃんと働いていたら、もう少し助けてあげられたと思う。
実は私が会社を辞めた後、貯金していたお金を全部お店の為に渡していた。
母から経営が苦しいから貸してくれと相談があり、正直嫌だったけど、それで少しでも立て直せればと思い。
でもそのお金が私のものであることは、父は知らないままだった。
父の面目を保つために。
そしてそのお金は役に立つことなく、返ってこなかった。

会社を辞めて貯金も全部渡したので、私のお金はすっからかんになった。
その後色々あったし乳ガンにもなるしで、私も私のことで手一杯であった。

私ができることといえばお店の手伝いと、母の愚痴を聞くくらいで。
父にも励ましの言葉をかけていたけど、全く届かなかった。

そんなこんなでお店を閉店した。
最後には色んな常連さんが来てくれて、父も楽しくお酒を飲んでいた。

そして父は自己破産し、生活保護にしばらくの間お世話になった。
私たち家族に申し訳ないと何度も謝ってきた。
私たち家族は頑張ってるのをずっと見てきたし、そんなの気にする必要ないと。
今はゆっくり休む時期なんだと、そう何度も父に言ってきた。

お店がなくなってからしばらくは、私も心配で度々実家に帰ったりしていた。

それから父は家にいる時間が増えてしまったせいもあってか、更に精神が落ち込んでしまった。
私も会社を辞めた後にものすごく自分を責めたので、気持ちが少しは分かる。
「少しは」というのは、父の20年や、家族に対する責任の重みが比べ物にならないくらいに違うからだ。

母が父を精神科に連れて行ったりもしたが、一人では絶対に病院に行かないし、薬もちゃんと飲まない。
これには私もどうしたものかと頭を抱えた。

父は映画が好きで、DVDを借りては一日中観ていた。
実家の近くにレンタルビデオ屋があるのだが、そこに行くと言ってしばらく帰ってこなかった時があった。
私はめちゃくちゃ心配になって父の携帯に電話をかけたが出ない。
外出中の母に「帰ってこなくて心配なんだけど」とメールしたりもした。
それでも無事に帰ってきてくれて、ホッとしたこともあった。

父はお酒にも逃げた。
ベロベロに飲んだ後に階段から落ち、打ちどころがよろしくなかったために半身が麻痺するようになった。
救急車で運ばれ、しばらく集中治療室に入院。
なんかもう心配とか不安とかありすぎて、逆に忙しくて何かを考える余裕もなかった。

入院中の父の元にはできるだけ足を運び、看病をした。
一般病棟に移る頃にはご飯も食べられるようになっていた。
それでも父の脚や手にはまだ麻痺が残っていて、私が看病しに行くと「申し訳ない」といつも謝ってきた。
自分の動かない体を見て、「これじゃもう蕎麦打てねえな」なんてことも嘆いていた。
気にしなくていい。リハビリを頑張って、ゆっくり時間かけたらまた打てるようになるよって、そんなことしか言えなかった。

父も父なりにリハビリを頑張り、退院することができた。
そして父はアルコール依存症だと診断されたので、お酒を飲むと気持ち悪くなる薬を処方されたりしていた。

この頃には私もDさんと暮らす家に帰る時間が長く、油断していた。

2014年3月、父は死んだ。
川に倒れているところを見つけてくれた方がいた。

その日の昼間、私は通院している精神科に向かう途中であった。
電車に乗っていると母から着信があった。
普段はメールしかしない母からの電話に胸騒ぎがした。
乗り換えの駅で降り、すぐに折り返した。

「今どこいる?」と母。
「病院に向かう途中だけど」と伝えると、「落ち着いて聞いてね」と言われた。
そして続けて「お父さんが死んだ」と。

その乗り換えの駅は人が多かったが、ホームにいた私は座り込んだ。
それから私の病院の前で母と姉と落ち合うことを話し、電話を切った。

さすがに冷静でいられなかった私は仕事中のDさんに電話をかけ、お父さんが死んだと言った。
Dさんはものすごく心配してくれて、仕事が終わったら行くと言ってくれた。

乗り換えた電車の中、私は涙が止まらなかった。
止めようとしても無理だった。
その内、親が死んだ時くらい許してよねと開き直った。

病院の最寄駅に着き、電車を降りで病院前へ向かう。
そこで母と姉を待っている間、空は雲一つなく晴れ渡っていて、何でこんな日に死んだのかなって思った。

まずは私の受診を終わらせることに。
母と姉も一緒に診察室に入り、父が死んだことを話した。
その時に私はまた泣いてしまい、どうしても辛かったら一時的にでも入院した方がいいと勧められた。
そして強めの頓服の精神安定剤を処方してもらった。
入院することはなく、その精神安定剤でどうにか過ごした。

それから三人で警察に。
父が見つかった時のことなど色々聞いた。
元々精神が病んでいたし、それらのことから自殺だろうと。
病院に運ばれた時はまだ息があったらしい。
そして今父は別の場所で眠っていると。
なので翌日、父の元に向かうことになった。

母と姉と一緒に実家へ帰った。
その日の夜、Dさんが来てくれた。
Dさんの前で私はまた泣いた。

一晩明けて父の元へ向かうと、棺の中で眠っていた。
とても穏やかな顔をしていて、今にも起きそうで。
そして、こんなに穏やかな顔を久しぶりに見たなと思った。
ずっとしかめっ面しか見ていなかったことに気づいた。
あぁ、父は楽になれたんだと。
正直な話、肩の荷が降りたりもした。
もう父の苦しむ姿を見なくていいんだって。
それが私にとっての救いでもあった。

父が亡くなる少し前のこと。
父が唯一慕っていた父のお姉さんも、自ら命を絶っていた。
そのお姉さんと同じ方法を選んでいた。
なので、その時から決めていたのかもしれない。

父方の親族と殆ど関わりがなく、母方の親戚が東北からわざわざ来てくれた。
色んなことを手伝ってくれた。

身内だけの密葬。
私たち家族は父に手紙を書き、愛猫の写真と一緒に棺に納めた。
私は「そっちに行ったら説教するから待っとけ」と書いた。

火葬する前に、葬儀場の方からお酒飲ませていいですよと言っていただけたので、私は父に紙パックの日本酒を飲ませようとした。
だがそんなの初めての経験で、私は父の顔に日本酒をぶち撒けてしまった。
父よ、ごめん。

そうして父は骨壷に納まって家に帰ってきた。

家に愛猫と二人きりになる母が心配で、私はしばらく実家で過ごしていた。

母はもう大丈夫だろうなって思った時にDさんとの家に帰ると、Dさんは「のーこちゃんいなくて寂しかった」と言い放った。
こちとら親死んでんのよ?馬鹿なの?
Dさんはすごく優しい人なのだけど、デリカシーというものを元々持っていない。
優しいとデリカシーがないが両立することってあるのね。

父が自ら命を絶ったことはやっぱり辛かったし悲しかったし。
しばらく泣いて、立ち直るまでに時間がかかった。
父の蕎麦が本当に大好きで、もう食べられないことが今でも無性に寂しくなる。


そして父と同じ年の11月に、18年連れ添った愛猫も天国へ旅立った。

愛猫はガンを患っていた。
吐くことが多くなり、それがとても辛そうで。
病院でお医者さんに、手術をすれば愛猫の苦しみを取り除けますよと言われた。
愛猫は高齢だし、とても臆病だ。
この子が手術に耐えられるのか?
母と悩んだけれど、手術してもらうことにした。

手術は成功した。
終わってから顔を見に行くと、ニャーニャー鳴いて帰りたそうであった。
まだ一日入院が必要だったため、翌日また迎えに行った。

家に帰ってきた日は、首に巻かれたカラーを鬱陶しそうにしていただけで、元気になってくれてよかったなんて思った。

だが翌日の夜、愛猫の体調が急変した。
大量に吐血し始めた。
私と母は慌てて救急病院へ連れて行った。
貧血を起こしていたので点滴をしてもらったが、できることはないと言われた。
今晩覚悟が必要だと。

それから愛猫を連れて家に帰った。
母は姉に、もう会えなくなるから帰っておいでと連絡した。

家に着くと、愛猫はちゃんと歩けなくなった。
フラフラとしすぐに倒れるので、歩かせないように抱っこした。
そこら中におしっこを漏らすようになったが、そんなの気にならなかった。

すぐに姉は来た。

愛猫が水を飲みたがっていたので飲ませようとするが、すぐに吐いてしまう。
これは飲ませる方がきついんじゃないかと判断し、飲ませることをやめた。

意識もなく、全身で一生懸命息をする愛猫を、交代で抱っこした。

みんなでずっと愛猫に話しかけた。
今までよく頑張ったね。一緒にいてくれてありがとう。大好きだよと。

辛そうな愛猫の姿を見るのが辛くて、神様に早く楽にしてあげてと願った。

それでも愛猫は、一生懸命生きようとしていた。
この状態があまりにも長く続いた時は、安楽死してもらおうと母と話した。

でもやっぱり、誰かの手で愛猫の命が失われることが嫌で嫌で仕方がなかった。

夜からずっと交代で抱っこを続け、みんな一睡もせず朝になり、疲れもあって静かに過ごしていた7時頃。

愛猫は姉の膝の上で断末魔をあげ、体を大きく捩らせ旅立った。
愛猫の命が失われた瞬間を、この目で見た。

泣いた。いっぱい泣いた。
でもこのままにしておけないので、私は救急の病院に電話し、この後どうすればいいのか聞いた。

硬直が始まってしまうのでマッサージしてあげてください。
ドライアイスなどで冷やしてあげてください。
お尻には綿やティッシュを詰めてあげてくださいなど。

言われた通りにし、その日のお昼、ペットの火葬をしてくれるお寺に連れて行った。

愛猫が骨になってしまう。
もう二度と戻ってこない。
死んだその時から戻ってこないのは分かっているのに、それが辛くて辛くて。

私にとっては弟で、色んな意味で本当の家族であった。
当然のようにペットロスに。

こう言ってはあれなのだが。
父はそれなりに生きて、自ら死を望んで死んで、穏やかな顔で眠っていた。
愛猫は最期の最期まで苦しみながらも、生きようともがいた。

辛さを比べるものじゃないかもしれないけれど、私には愛猫の死の方が辛かった。
手術を受けさせたのは間違いだったのかもしれない。
その分、一緒にいてあげるべきだったのかもしれない。

悲しくて寂しくて苦しくて、ずっと泣いていた。

愛猫の死を精神科の先生に話すと、「猫ちゃんそんなに愛されて幸せね」と言ってくれた。

その言葉に心から救われた。

今でもやっぱり寂しいし会いたくなるし、泣くこともある。

でも、私が天寿を全うしたらまた会えることを信じて日々過ごしている。


そして、この年の大晦日。
父と愛猫のいないのーこ家で、大きな修羅場が起きた。

年越しを母が一人で過ごすのは可哀想だと思い、私はDさんと一緒に実家で過ごすことにした。
だが私はまだホルモン治療中だったので、体調が悪くなってしまった。
起きているのが辛く、Dさんと母には申し訳ないが私は別室で横になっていた。

その時のDさんと母の会話は、Dさんからすると酷いものだったと聞かされた。
母がDさんに対し、「娘のどこがいいの?」だの「もっといい人いるんじゃない?」と言っていたらしい。
まぁここに関しては、私自身に色々ありすぎて母の気持ちも分からんでもないので、別に怒りはない。
ただ母親が言うことではないよなぁ。

横になっても体調がよくなる気配がなかったので、二人には本当に申し訳ないが本格的に寝ることにした。
母は完全に酔っ払っていた。
私が「ごめん、体調よくならないから寝る」と伝えると、母はテーブルの上の食器片付けてからにしてと言ってきた。
「ごめん、今は本当に無理だから明日やるから」と言っても、しつこく片付けろと言ってくる。

私はそれにキレた。
久しぶりに腹の底からキレた。
こっちは体調悪いんだからいい加減にしろよと。

そして私と母の大喧嘩が始まる。
今まで溜まりに溜まったものを吐き出すかの如く。

すると母はいくつかの衝撃的な発言を残す。
「お父さんが死んだ後、のーこを殺して私も死のうかと思った」と。
「睡眠薬飲んで寝てる時に殺せば苦しまないと思った」と。

キレた。ふざけんなよとキレた。
私がどんな思いで乳ガンの治療頑張ってるか分かってんの?!それを親のあんたが全部無駄にするの?!と。

確かに父が死んだ後、実家で朝目を覚ますと、私の枕元に母がいたことがあった。
特に何もせず、そのまま去っていったので、その時の私も何となく「私を殺そうとか考えてるんだろうなぁ」って思ったらまさかの正解だった。

諸々の爆弾発言を残した母は気持ち悪いと言い、トイレに連れて行ってから布団に寝かせた。

それらを見ていたDさんと「実家で寝たら命ないんじゃね?」と話し合いながらも、とりあえず寝た。

夜が明け2015年の元日。
母は何も覚えていないと言った。
姉が実家に帰ってきた。
挨拶を適当に済ませ、私とDさんは逃げるように実家を去ったとさ。




いやいやいや、この時期は本当にあれですよ。
大変って言葉で簡単に片付けられないですよ。

私、2014年の一月に大吉二回引いてるんですよ?
良いことある!って思うじゃないですか。

いやいやいやと。
何だこの年はと。
書きながらちょっと泣きました。
ちなみに母の爆弾発言、本当に覚えていないのか謝罪は一切ありませんでした。
なんかもう、あかんよね。

親に殺されそうにならなかった人が羨ましい。
親不孝者だと言われなかった人が羨ましい。
私は生まれた時からずっと無価値で、それが覆ることはない。
私はもう十分頑張ったと思う。
ここまで乗り越えて生きてきただけで、もう満足。
だから早く迎えに来て。

これが正直な気持ちでもあります。
ネガティブを吐き出した後はポジティブも吐き出すように心がけていますが、根っこはまだこんなもんです。

苦しんでもがいてあがいて、色んなものを失って。
また何かを失うのが怖いから、一人になりたくもなります。

私は性格が父によく似ています。
自信がなくて、臆病で、人を信じられなくて、死に救いを求める。

ただ、父と決定的に違うのは、世の中にはこんな私を理解してくれる人がいることを知っているところです。

私が中学生の頃には既に、インターネットを通して知らない誰かと話せる時代になっていました。
知らない誰かだからこそ話せることもあるし、理解してくれる人もいることを、その頃から経験していました。

父はガラケーで文字を打つのも覚束ない人でした。
今より閉鎖的な時代に生まれ、話せる人は顔を知っている知人しかいなくて。
知人には余計に弱音を吐けないし、自分を理解してくれる人なんてこの世にいないと思い込んでいたのでしょう。

それがどんなに孤独なことか。
想像すると苦しくなります。

世の中は不条理で残酷なことばかりです。
でもその反対側もあることを、父には知ってほしかったです。

あなたが思うより世界はもっと広くもっと自由で、あなたはあなたが思っているよりも愛されていることを。

じゃなきゃ、お客さんたちもあんなに必死に出資するからなんて説得しないよ。
お店が最後の日に集まってくれてないよ。
あなたを偲ぶ会が開かれて、そこにも来てくれたんだよ。私は行かなかったけど。

のーこ家はみんながみんな本当に不器用で、間違うことが多くて、素直じゃなくて、ごめんとありがとうが言えない。
歪な形で不細工な愛情しかなかった。
そんな家族が嫌いだ。

だけど、次生まれ変わる時には、あなたがあなたらしく生きられますようにと願う。


さて、この記事を含めて自伝を9つ書いてきました。全体的に暗く重いことばかり書いたかなと。

でも、私の人生において特に辛かった出来事を全て書いたので、次回からはとても平和な内容になると思います。

読んでくださった方、スキやコメントをくださった方、本当にありがとうございました。
苦しんだのーこも報われるでしょう。

今回はこの辺にしておきます。
それではまた次回。

よかったらこの曲を聴いてみてください。
名曲です。



生きる糧にさせていただきます。サポートのおかげでご飯が美味しい。