闇の終わりではかった
生きることの意味がわからなかったのだが、どうやら意味などないらしいと聴いた。
ずっと『意味』を探し続けていた私には、ガッツポーズものの情報である。
これを採用して生きてみる事にした。
「意味などない」っという言葉の前後の文脈を無視し、都合のいいところだけを取り出し、採用する私。どうなることやら。
8日目
私は、特に強烈な不満もなく生きてきた。
どこか、自分は特別だと思って過ごしていた。
そんな中、特別なはずの自分が、生産性のない人生を送っていることに、苛立ちを覚えた。
自分のやりたい事を、やりたい時に、やりたいようにやってきたのだが、少しずつ、やりたい!っという思いが減り、やった先の未来が簡単に想像できるようになったので、やる前にやらない選択をし始めた。
「やった先の未来が想像できた」っとは、未来予想ができる特殊能力が開花したのでもなければ、世界情勢や社会現象など多くの情報を分析した結果の未来予想でもない。
ただ単に、いままで数々のやってみたい!っをやってきた経験から、何一つ身にならず、飽きたらやめるのが、私だと気がついたからである。
これを書いていて思い出したのだが、反対されたやりたい事は、「アメリカの高校に入学したい」「夏の甲子園でバイトがしたい」というこの2つだったように記憶している。
とにかく、私は、「めんどくさい」っが口癖になった。
そんな自分がイヤで仕方ない反面、やる気も起きない。
特別な存在であるはずの自分が、めんどくさいと思ってしまっている。ついには、生きることさえも、めんどくさいと思い始めていた。
だからこそ、生きることの意味を求め始めたのだろう。
その時流行っていた、「天職」の文字に、押しつぶされそうだった。
みんな、ちゃんと働いている。それぞれが、天職をみつけ生き生きと過ごしている。
そんな風に思い込み、自分だけが、無駄に空気を使い、水を汚し、食料を奪っている、どうしようもない存在だと、さらに自分を追い込んでいた。生産性のないこの人生は、もう終わりにしたいとさえ思った。
そんな日々が続いていたら、コロナになって、なんだかんだとあって、今、日記を書いている。
人生に意味はない!
っと聞いたときの歓喜は、奥底に眠る、自分の闇にスポットをあてた。
これは、闇の終わりではなく、本当の闇との対面であり、新たな始まりなのかもしれない。
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