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帽子とマフィン


 いつでも行けると思っているが故に、なかなか行けていない場所がある。例えばそれは通勤経路にあるパン屋さんだったり、地元の景勝地であったり、友人の家であったり。そもそも、行こうと思っていたことさえ忘れていることもある。まあ、それは、単に加齢によるものだけど。

 仙台での単身生活が始まってから、子育てで中断していたスキーを再開した。約8年ぶりにスキーの師匠に連絡すると、また一緒に滑ろうと、嬉しい言葉が返ってきた。それからは、なるべく時間を作ってホームゲレンデの山形蔵王に滑りに行っている。今シーズンは忙しさにかまけて、1度も山形蔵王に行けていなかったが、先日、ようやく行くことができた。ゲレンデでは、旧くからのスキー仲間に会うことができて、やっぱりここが私のホームだな、なんて思ったりした。

 帰りがけ、カミさんから山形市内にあるマフィン屋さんでお土産を買ってきてほしいと連絡があった。このマフィン屋さんは、12年前、長男が生まれて山形市内に住んでいた頃、家族で何度もお邪魔したお店で、気さくな店主のおねえさんとも顔見知りになっていた。おねえさんから蔵王温泉街のパン屋さんを紹介されたりして、スキー帰りにパンを買って帰ったりもした。その後、私たち家族は転勤により、数回の引っ越しを経て、今住んている福島の私の実家に居を構えることになった。その間、そのマフィン屋さんは移転して、今の場所に新たな店舗を構えていた。
 そのお店のマフィンはとても美味しくて、引っ越してからもまた食べたいと思っていたけれど、なかなか行く機会がなかった。山形はカミさんの地元なので、帰省の際に行こうと思えば行けたのに、結局、10年以上も行ってなかったんだな。

 移転先は、ネットで調べてすぐに分かった。一緒にスキーに行っていた先輩とそのマフィン屋さんを訪ねる。移転前は、ご自宅の一画に建っていた小さくてかわいらしい小屋で販売していたが、新しいお店は、白い木の壁が印象的な、お洒落な一軒家だ。センスが良さそうな店主さんらしい、素敵な建物。久しぶりにお会いできるのを楽しみにお店の扉を開ける。

「いらっしゃいませ!」

 お店の奥から出てきた店主のおねえさんは、以前と変わらぬ元気な姿で迎えてくれた。その瞬間、私の心は過去に引き戻されてしまったようで、ちょっと馴れ馴れしい話し方で注文をしてしまう。会計をしてもらっているときに、10年ぶりぐらいに来ましたよ、と言ったら、おねえさんが私の顔と頭を交互に見て、

「あれ?もしかして、その帽子、自分で編んでたりします?」

 と聞く。そうです、と答えると、

「ああ、思い出しました!記憶の中のピースが、パチっとハマりました!」

 そうと言ったあと、「家族で来てくれてましたよねー。小さいお子さん、2人でしたよね?」と、当時の記憶が芋づる式に出てくる。その後、もう一人生まれました。上の子は、もうすぐ中学生です。など、近況を報告。
 もし、おねえさんが思い出さなかったら自分から話そうと思っていたけど、こんなところで自分で編んだ帽子が誰かの記憶に引っかかってくるとは……これが夏だったら、こうはならなかったかもな、など、店を後にしてから思い返したりした。

 帽子を編むことは、私にとっての個人的な楽しみ。自分から人に編み物をしていることを言ったりしないし、自分と家族以外に編んであげたことも数えるほどしかない。だから、編み物をやっていることが、こんな形で役に立つなんて、思いもしなかったから、なんだか新鮮だったし、素直に嬉しかった。

「私も、1度だけ自分で帽子を編んでみたんですけど、それっきりでしたね」

 そうですか。編んでみましたか。実は私も、美味しいマフィンを作ってみたくて、1度だけチャレンジしましたが、それっきりでした……と、心のなかで呟いてみたけど、口にはしなかった。

 楽しい会話を終えて、「また来ます!」と挨拶して店を出た。最後の挨拶の前におねえさんが「そういえば、移転してすぐのとき、奥さんがお店に来てくれましたよ!」と言っていたので、帰ってからカミさんに確認してみたら、「いや、私は行ってない」の一点張り。なんだろう、この噛み合わない証言。おねえさんの勘違いなのか、はたまたカミさんがその事実を認めたくないのか……真実はいつも1つ!とは限らないのがこの世界の面白いところだから、これ以上追求しないほうが良いだろう。我が家の平穏な日常を保つためにね。

サポートいただけたら、デスクワーク、子守、加齢で傷んできた腰の鍼灸治療費にあてたいと思います。