短編 | 「ぼくを叱って」 (1192字)

前がよく見えない。ぼくはいつの間にか道に迷ったみたいだ。帰りのバスが来るはずの幼稚園の駐車場には、いつも一緒のお友達もいない。どうしちゃったのかな。幼稚園に戻ろうとして振り返っても、もやがかかって何も見えない。もう帰れないのかな。ママが心配してるかも。ママはぼくの姿が見えなくなるだけですごく怒るんだ。だから、ぼくはいつもママの姿を見失わないようにしていたのに。ママは、、、あれ、ママの名前はなんだっけ?



父さんの大事な時計を、ボクは勝手に持ち出して、何かの拍子に壊してしまったんだ。家には帰りたくなかった。でも、他に帰る場所なんてない。重く暗い心を抱えながら自転車を引いて帰路につく。真夏の夕立はアスファルトに強く叩きつけ、あたりを生温い霧で包んだ。帰ったらなるべく早く父さんに言うつもりだったけど、結局、言い出したのは真夜中になってしまった。ボクの話を聞いた父さんは、「壊れたモノは仕方が無い。でもな、失ったら2度と戻らないことだってある。それだけは覚えておくんだ。」と言って、哀しげな瞳をボクに見せただけだった。最後に父さんと話したのはいつだったかな。



小さなお前の手を引いて歩く。この瞬間が永遠だって言うことを、お前は教えてくれた。でも、いつからかオレはお前よりも小さくなってしまったみたいだ。近所の人たちは、お前がオレによく似ていると言ったけど、お前とオレは全く違っている。オレのやったことなんてちっぽけなことなんだ。むしろ、お前には悪いとさえ思っている。恩を仇で返したっていい。でも、そんな暇があったら、違う形で誰かに恩を返すんだ。オレみたいになっちゃあダメだ。



ベッドの上の僕の手はシミとシワだらけだ。目を覚ましているけれど、視界はぼやけて良く見えない。取り敢えず右手を伸ばしてみると、誰かがソッと手を握った。僕はその手に左手を添えて両手で握る。その左手にまた誰かの手が重なる。何だかとても安心する。また眠くなってきた。もう目覚めないとしても、僕はこのまま眠りたい。誰かが僕の名前を呼ぶのが聞こえる。ただ、僕は自分の本当の名前がなんなのか分からなくなった。やがて耳が塞がれるように何も聞こえなくなる。僕がそれを望もうと望むまいと。



涙を拭いて欲しい。あなたの手に触れたいけど、私にはもうそれができない。今はすべてがはっきりと見えるというのに。あなたはもう私の手の届かないところへ行ってしまった。いや、私自身が離れたのだ。あなたの傍に居られなくなる時が来ることは知っていた。だから今は涙を拭いてよく見て欲しい。涙で霞んだ視界では、大切な瞬間を見逃すかもしれない。こんな私をゆるさないで欲しい。ゆるすことが私への救いと考えないで欲しい。


私は、ぼくを、オレを、私を、、、叱ってくれることを望んでいる。


そう、ぼくはただ叱って欲しかっただけなんだ。



おしまい

サポートいただけたら、デスクワーク、子守、加齢で傷んできた腰の鍼灸治療費にあてたいと思います。