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父が死んだ日の夜、笑いが止まらない

一度だけ、笑いの発作におそわれたことがある。

19年前に父親が亡くなったときだ。

それは随分長い闘病生活が続いた後だったので、ショックやつらさというよりは、それらが昇華した、しみじみとした悲しい気持ちで、東京板橋区の大学病院へ向かった。

病院の人に案内されて、迷路みたいな通路をぐるぐる歩く。

父が5年も出たり入ったりしていた病院だけど、一度も通ったことがない通路だ。帰りも送ってくれるのか心配になってくる。

進むにつれて、だんだんすれ違う人が少なくなる。8月なのにしんと空気が冷たい。遠くでセミの声が聞こえる。エレベーターで、地下の霊安室に向かう。ここは館内案内にのっていない場所だ。

患者や見舞客が間違ってたどり着かないように、分かりにくい場所になっているらしい。というか、万が一たどり着いてしまったら、一般玄関に戻るのは難しい。

霊安室に着くと、スタッフを紹介された。

考える前に「お世話になっております」と口に出たけど、この人にはお世話になっていない。続けて「この度は」ご愁傷様です...といいかけて、さらにわけが分からなくなる。ぎくしゃくする。こういうときにするっといい感じの玉虫色の言葉を吐き出せる人間になりたい。

後で知ったのだが、その人は、病院と同じ系列の「葬儀社のスタッフ」だった。特に葬儀社を決めてない場合、暗黙の了解ベルトコンベア的にこの系列業者に頼むことになるらしい。

うちではもうすでに、ほかの業者と連絡を取ってあったので、その旨を伝える。今挨拶を交わしたばかりのその男性は、無表情のまま「そうですか」と音もなくするっとフェイドアウトしていった。

どこいったんだ、あの人。

病院関係者も何も言わない。ここではすべてが「あうんの呼吸」で行われるみたいだ。気づかないうちにスタッフが増えたり減ったりする。

うちら家族だけが蚊帳の外である。

棺桶は木棺か布張りか、木棺だったら材質は、など「選ぶリスト」は忍者の巻物みたいに長々しい。「失敗しない棺桶の選び方」なんていうリーフレットもあったけど、あの「失敗」ってなんだろうな、ホント。これ以上、どんな失敗があるってんだ。

病院の霊安室。

父の入ったお棺を持ちあげようと、二人の男性職員が中腰になる。まず頭のほうを持って、次に、足元のほうに手をかけた男性が

「あっ」

手を滑らせて、ゴトンと棺を落とした。

ドリフのコントみたいに父親がびょーんと飛び出してくるかと焦った。

思えばこのときから、その「芽」は生まれていた。


火葬の日取りを決める。

「今なら、〇日の午前中のスポットがとれるそうですー-!」と携帯を耳に当てたまま葬儀業者さんが切羽詰まった感じでいう。なんだそんなに火葬場って忙しいのか。コンサートチケットの予約みたいだ。亡くなったばかりだってのにあわただしい。こりゃ大変だ。ひとまず大急ぎでスポット確保。予約が取れて「良かった、ラッキー♪」みたいな気持ちになっているのが尋常じゃない。

まだやることがある。

今日中に病室に残った荷物を引き取らなければならない。入院患者への食事の配膳や、医師の巡回の時間と重なるのを避けるため、「しばし待たれよ」との病院からの指示。

病室の前の廊下の、固いソファに座ってただじっとうつむいて待つ。母、姉、自分。

もう父はここの「客」ではないのだ。

「亡くなった人の家族」というのは、患者さんにとって「不吉なもの」として映ったりしないだろうか、と息をひそめるような心持ちである。

ふと横を見ると、母が黙って、どこかをじっと凝視しているので可哀想になった。

あーあ、お母さん・・・

ハッと何かに気づいたように、母がひそひそっと、押し殺した声でささやいた。

「あたし...さっきから見てたんだけどね、ほら、そこ。そこの病室に回診の医者が入ってすぐ部屋の電気が消えたのよ!見てみなよ、いま、真っ暗でしょ!?それでずー-っと見てンだけどまだ出てこないの!アヤシイヨ!ゼッタイ!患者とデキテルに違いないヨ!あんたちょっと見てきなよ!」

それを聞いた瞬間、隣の姉と、自分の体がぷぅっと風船みたいに膨らんだ感じがしたと思ったら、私たちは、坂を転げ落ちるように笑い続けた。

どこまでも続く急な坂道。

意識的には、全く不謹慎だ、自分は今悲しいのであるよ、と思いながら、止められないんだなー。

くっくっくっくっくと喉の奥からこみあげてくる笑い。水道管が破裂したみたいに勢いが止まらない。止めなきゃと思って顔に力を入れると、目と鼻の穴がぶわっと膨らむ。

痛みで笑いを紛らわせようとゴリラみたいに自分の胸のあたりをバチンバチンたたきながら、引きつったように首をそらせてゲラゲラ笑う。

ナニコレ。笑いか、しゃっくりか分からないんだけど。

なんだなんだこの次から次へと湧いてくるのは。姉の身体がまるまって肩を震わせているのを空気の振動で感じたら、収まりかけてた笑いがまたものすごいパワーで盛り返してくる。もーやだ、なんなのこれ。ゲラゲラが止まらない。

「自分の内側」が笑ってるのか「自分の外側」が笑ってるのかさえ分からない。

ゲラゲラゲラ、クックックックック...

夜の病院

電気の消えたひんやり冷たい廊下

消毒液の匂い

固く閉まった扉がずらりと並ぶ病棟

遠くに響く巡回の足音

響く笑い声

ゲラゲラ ヒーヒー ひゃっひゃっひゃ...

狂ったように笑いころげる、夫を亡くしたばかりの妻と、父親を亡くしたばかりの娘二人

怖いですね

迷惑ですね

ごめんなさいね

なんだったんでしょうね、あれ。

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