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関心領域|平和に生きることへの贖罪

今年鑑賞している作品は、ほんっと〜〜〜〜に個人的なアタリが多いのですが、今年最も自分を揺り動かしたのが「関心領域」でした。ここ1年くらい、下手すると人生通してのムズムズを、久々に、心の水面まで浮上してくれた。

鑑賞してきたばかりですが、言いようもなく得られたものを、失われる前に保存しておきたくて。文字にしないと気が済まないのが、ああもう、自分の自分たる。「ああ怖かった〜」とかで絶対終えられないのはもう性質なんだなあ。自分でも自分をちょっと持て余している。

どうして「ただ生きているだけでいいよ」と言ってもらえる環境に生まれた上に生活させてもらってるにも関わらず、じっとしとらんのかが、よーく言語化されてしまって、ちょっと自分に引いているところですが、もう、そういう生き物なので、向き合って掘り下げて生きていってみる所存。


イキモノや文明とはどうあるべきか

一緒に取り上げたいのはこのあたり。

  • Nextflix版「三体」(純粋に中国版は未鑑賞)

  • オッペンハイマー

  • 猿の惑星 キングダム

猿はちょっとオマケではありますが、ワードとしては同じだったのでピックアップ。

「経済・技術進化」だけでは生き物は次のフェーズへいけない

まず「三体」。

船のシーンは珍しく自分が耐え難かったレベルでしたが、メッセージとして一番刺さったのは、「子供を死なせたらゲームオーバー」という条件でした。三体問題という至極難解な課題を解くほどに技術や頭脳が進化する、それだけではダメなんですね。ぜひご覧あれ。

「良いこととは続くこと」は「バビロン」でも取り上げられていました。

ちょうど、仕事を中心にではありますが「規模の経済」と「技術進化」を追いかけるだけでは何かがダメだ、と腹の底で感じ続けてきていたところでしたが、ああ、「倫理(エシカル)」さが足りてないんだ、とよく理解できました。サステナブルの概念が、サーキュラーエコノミーが、続くことそのものが、次の文明を作るというのならば、そのレシピに足りていないのが「倫理」なんですね。その一つの切り口がDE&Iとして、今、語られている。

技術の研究開発における倫理・道徳性を同じく描いたのが「オッペンハイマー」。言わずと知れたクリストファー・ノーラン監督が描く原爆の父の話。広島原爆の後、彼の世界はモノクロに変化します。

確かに、誰かを殺し、誰かを生かした。そのボタンを押したのは別の人間ではあるが、果たして血塗られた自身が称賛され生きることを、自らが赦し得るだろうか。
戦時下における直接殺人の功罪については「アメリカン・スナイパー」がおすすめ。

技術の倫理性については「Winny」も非常によかった。

「猿の惑星キングダム」においても、人間に代わって猿が統治する地域が描かれ、かつて開発された人間の技術を誰の手に渡すかというシーンがあります。技術とはツールである。そのボタンを押すものに倫理が備わっていない限り、誰が”上”に座ろうと変わらないというテーマです。

人徳を以てそれを行えないかを、試行錯誤するのが「キングダム」。

死体の山と共に生きる者たち

「関心領域」はアウシュビッツの隣に暮らす家族の話で、各自が何を見て、何を重視し、何を求めて生きているかが描かれる群像劇。どの人物も、意思決定の軸が割とはっきり描かれているので、かなりトレースしやすい。

同じ環境にいる者同士でもここまで見える景色が違っているという題材においては、「怪物」もたまらなかったなあ。

戦争映画ダヨ!としてしまうと興味を持つ人間が結構狭まりそうな中で(なんとなく「ジョジョ・ラビット」をまだ見ていないのである)、全ての人間に「お前の視野はどうなっているか」を問う「関心領域」は、タイトルが非常に良いんだろうな、と鑑賞してみて改めて感じました。実にコントラバーシャルな仕上がり。
なお、コントラバーシャルでいくと、かなり人を選びますが、集団強姦について描いた「ウーマン・トーキング」もよくできていた。

「スキャンダル(女性に対するセクハラ)」、「spotlight(小児性愛)」、「ムーンライト(人種、LGBTQ)」も日常に潜む負の真実、誰かの不幸の上に誰かの生活が成り立っている現実を描きますが、群像劇の方が、自分の概念を再考する上では役立つんだなあ。

引き裂かれ、平和のために死んでいった者たちの視点から、戦後に生まれた我々に問いかけるという題材でいくと、日本人としては「風立ちぬ」、「永遠のゼロ」を推したい。

戦争を、民の目から見る作品としては「この世界の片隅に」だろうか。ガンダムでも頻繁に描かれる主題である。

目の前で起こっていなければいいのか。視野に入っていない世界を見渡したら、価値観は変わるはずで。自分の意見が、自分の喜びが、自分の不満が、本当にそんなことをしているべきかと、改めて見直される。

”日常”や”当たり前”を問い直すために、怪獣映画やディザスター映画があり、共通敵が新たに現れればイキモノは協働するというお題が提供されますが、こういうものを幼少期から日常的に大量摂取してれば、そりゃあ「平穏に生きられるのは幸運であり、自分は何をすべきか」を常に問いたくもなるものだよなあ、と改めて思いました。

火に焼かれ、声にならない叫びを上げながら死にゆくのが己である時、その者が渇望した平和な世界に生きる者は、どうすればいいのだろう。どうか、ただ平穏に、笑って、幸せに生きてと、願うものであるが、実際になってみると、そうもならんのが不思議である(私だけ?)。いやでも仕事だ家庭だ人間関係だアイデンティティだ、と、誰もが悩みは尽きないわけで、どうしたらいいんだろうな。なんで素直に幸せを享受するように進化しないんだろうか?
いや、言ってるだけの厨二っぽい思想なのはわかっているのだが。こんなことを言わずに黙って幸せになればいいものを、考えてしまうからには、できることを探すしかないですね。

ちなみに今年見たエンタメでは「フォールアウト」「House of Ninja」「モナーク」の3つがすごい好き。こういうの好きなんだよ、大好きだよ。シリアスと交代で見たいですね。

はあ、次はマッドマックス見なきゃ。


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