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スポーツのはじまり

イギリスで生まれた近代スポーツ

スポーツは概念的であり種目の成立過程で複合的な意味合いを持ち、さらに変化していくためこれといった定義が存在しない。そのため明確な発祥は仮説や断定的な捉え方がふさわしい。その理由にほとんどの国でその表現を英語の”sports”と扱う。日本でも日常でスポーツを翻訳して使用することはないだろうし、そもそもできないのが正しい。

このスポーツの概念の原型となったのは19世紀のイギリスの支配階級による文化だ。当時のイギリスは世界的に覇権を握り経済的にもっとも進んだ国であったため裕福な層は多くの余暇の時間を得ることができた。文化は昔から余暇から生まれて来たとよく言われるがスポーツに関してもこのイギリスの支配階級における余暇から生まれたのだ。

さらに社会領域を非暴力的に統制する歴史的段階に差し掛かっていたことが大きな要因だ。イギリスから現在の議会制による民主的政治が広まったことが何よりの証拠だ。強固な国家を築くために国内での暴力性は不要であった。イギリスで生まれた近代スポーツ以前にも古代ギリシア時代や中世西洋に現代のスポーツに類似したものは多く記録として残っているが、大きな違いはルールが存在し暴力をコントロールしていたことである。

そんなイギリスで生まれた近代スポーツは当初、教育的機能を果たし、教育機関から発展していった。産業ブルジョワジーが勃興するにつれて上流階級出身の若者が集まるパブリックスクールは変革をせざるを得なかった。そこで教育にスポーツを導入することで生徒に責任と倫理的な意識の向上を期待し、生徒間の関係が規則づけられるようになった。

やがて他校との対外試合が行われるようになり、それぞれ学校ごとに異なるルールで行ってきたものをどこでも通用するようにルールを統合する必要があった。この制度化がスポーツがグローバル化した発端である。制度が決まることで共通認識のスポーツができ必然的に差異を強調し、排除し合って複数のタイプに分裂増殖する。サッカーとラグビーがフットボールから派生した最初の例である。


ベルナール・ジレは「スポーツの歴史」でスポーツとは“遊戯・闘争・激しい身体活動“と定義したが、近代スポーツの特徴であるルールによる暴力的な要素の排除が抜け落ちているのである。

スポーツ 図 _アートボード 1

アメリカ文化によるスポーツの発展

ワールドカップがオリンピックと対等に扱われるようにサッカーが世界各国で人気を博しているスポーツに対して、アメリカであれだけ人気の野球・バスケ・アメリカンフットボールが世界的に扱われていないことに違和感を覚える人は少なく無いであろう。現にアメフトはオリンピックの種目にも存在せず、我々の国ではサッカーと対等の人気を持つ野球ですらオリンピックから外されることもある。

それにはアメリカ発祥のスポーツの経緯が関わっている。
上記にあげた3つのスポーツはどれもアメリカ発祥のスポーツである。アメリカのスポーツの特徴を挙げると、
①アメリカ社会の産業化により、資本主義化するにつれて広く生み出された大衆を基盤として発達
②チームスポーツであるのに個人の活躍が目につく
③スポーツをめぐって様々な形態のビジネスを発祥

①はイギリスの上流階級のジェントルな振る舞いのために生まれたスポーツと対照的に、アメリカのスポーツは初めから資本主義社会の大衆を観客を念頭にしたものである。クリケットの一種であるラウンダーゲームから生まれ“baseball”は攻撃と守備がハッキリ分かれているため観客の立場から応援しやすいスポーツとして多くの愛好家を持つことを可能とした。

見やすさの点で言うと②個人の活躍も含まれる。個人の活躍は劇的なシーンを作り上げたり、感動を生みやすい。何よりも見所が解りやすいためそのスポーツの素人でも容易に参入できる。さらに見ている人にとって個人の心情に入り込みやすいのが個人の活躍が目立つスポーツの特徴だ。

資本化の促進は③に移行する。学生や地域で行われていたスポーツもアメリカではプロ化することで専門的な人材を育成し、より消費的に扱われるようになる。さらに60年代以降に衛星放送が整い、スポーツと切り離せない関係になった。テレビに映ることを前提とすることでスポーツのルールを変えた経緯もある。有名なのがテニスのタイブレークである。放送時間に試合が終わるように設定されたルールだったのだ。

ルールだけでなくスポーツ自体を生んだ経緯もある。スポーツは基本的に屋外で行われるものだったが、オフシーズンや悪天候時にも資本を動かす為にプレーが可能なものとして生み出されたのがバスケットボールである。

このようにアメリカのスポーツはイギリスで生まれたスポーツのように心身を対象にするのではなく、アメリカの社会を前提に発展したためアメリカのような資本主義社会の基盤がないと発展しないスポーツなのである。

社会に接続されていくスポーツ

余暇の過程や消費の中で発展してきたスポーツは言わば社会から生まれてきたものである。しかし次第に社会がスポーツに触れる逆転現象が起こり始める。新聞のスポーツ面に載ったり通常の誌面に移ったりスポーツの情報が流動的な動きを見せる。
解りやすい例が近代オリンピックと政治の関係性であろう。冷戦化での東側と西側がお互いにそれぞれの開催時に参加拒否した話は有名だが、戦争による中止、敗戦国に対する参加拒否、政治的対立や政治的駆け引きをはらんだ国や地域の参加承認・不承認・ボイコット・人種問題など上げると切りがないほど出てくる。オリンピック自体が選手の競争だけでなくナショナリズムを掲げる舞台ともなっているのだ。

1936年にドイツ・ベルリンで開催されたオリンピックは明確な意図の下で政治的に利用された初期の事例である。第一次大戦後、敗戦したドイツは政治的情勢が変化し、ナチスの台頭とヒトラーが指揮を採る時期を迎え、ナチスの宣伝と国威の発信の場として活用された。聖火リレーの実施や競技に使用される判定装置の導入、テレビの実況中継、記録映画などどれも初めての導入でナチスの技術を披露した形になった。特に聖火リレーを実施するためのコースの調査結果は第二次世界大戦における軍の進行に使われたといわれている。

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(https://news.livedoor.com/article/detail/4199716/)

個人単位では(ここにもナショナリズムが背景になることもあるが)、成熟したスポーツは次の段階に進み、いかに結果を残すか、もしくは記録を伸ばすかの世界に突入する。欠陥を補うための練習には生理的限界が存在するためある程度情報が行き渡ると再び競争が激化する。さらに勝つための手段として人力を超える為のドーピングが広まり問題視されるようになった。オリンピックでは1968年のメキシコオリンピックからドーピング検査を正式に組み込んだが未だにスポーツの種類によっては禁止のものがあったり、禁止されていないものが禁止にまたは再禁止になったりなど、ドーピングは終わりなきイタチごっこになっている。

選手だけでなく零コンマの世界をいかに超えられるかメーカーがユニフォームや靴などの用具を改良することでメーカー間に争いが生まれ、フォームや形態にも用具と同じように情報化が行われる。

この他にも現代ではスポーツに含むのか議論を呼んでいるeスポーツが出現する中、ドーピングと同様に未だにハッキリと解決されていないジェンダー論・人種差別、更には平等性を前提とするスポーツに参入する前に格差社会が存在していることなど社会と切っても切り離せないものとなったスポーツ。
今月はもっと深くスポーツそのもの、強いては社会のことを知るために「スポーツ」を議論の題材として上げていきたいと思う。

<参考>
スポーツとは何か


(文責 遠山)


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