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新しい学校

新しい学校を模索する動きがあちこちで大きくなってきて、
期待が高まっている。
それで日本の教育は良い方向に動くだろうか。
大いに期待している。

ただ、懸念が、大きな懸念が一つある。
システムやカリキュラムや校舎や教具を変えても、必ずしも教育がよくなるわけではない、ということである。

カナダやオランダだけでも、オルタナティブ教育を中心にそれぞれ数十校に及ぶさまざまな学校の視察をし、世界各国に行くたびにその地の学校を訪れてさらに数十校、国内では出張の機会を利用して軽く200校を超える学校を視察してきた。

旧来の学校で子どもたちがとても穏やかに幸せそうに過ごしている学校は、先生方がその土地と時代の文化に適合した教育をしていた。それらの学校と卒業生たちが、新しい時代の波に柔軟に適応できるという保証はないが、この地ではまだ従来の学校が機能している、変える必要はないと思えた。

先進的な学校で成功しているところには、必ず素晴らしい先生方と校長先生がいた。それらの学校はチームワークで動いていて、自分たちの課題が言えた。一方で、評判が高くても、すばらしいところだけを強調する先生方がいる学校では、不満分子が(教師も生徒も)、外部からのゲストにそっといろいろ教えてくれるという経験をしてきた。

さて、先進の方法を取り入れようとしながら、
1)教員の持つ文化がその方法と異なり、
2)教員の根っこに持っている価値観が異なり、
3)あるいは教員に新しい方法を取り入れる力量が伴わず、
頓挫している学校が少なからずあって、

それらの学校や系列学校群では、
一人一人の教員を育てるという困難な作業が、
新しい方針に追いついていなかった。
系列学校群に関しては特に、
中心の理念が素晴らしければ素晴らしいほど、
その理念を体現できる先生を揃えることは難しいのだ。

さらに、
4)そもそもその理念を取り入れようとした学校が、
  新しい方法の持つ文化背景や価値観を理解していなかったり
5)校長の強力なリーダーシップで動いていて継続が難しかったり、
6)様々な主張が入り乱れて派閥争いがあったり、
することはしばしば見聞きする。

加えて、
7)大人たちはいい学校だと思っているが、子どもたちが生き生きしていなかったり、他の教育を知らずに大人の受け売りで自己満足に陥っていたり、
8)学校の文化が特殊過ぎて、外の社会で生活することに困難を感じている卒業生がいたり
もした。

こういうことは、全て想定内のことで、どこでも起こりうることである。
改革に関わるスタッフは、当初から準備しておかなければならないだろう。

とりわけ、最初の3つに関して、
 教員たちの価値観をどう揃え、力量を伴わせていくか
 あるいは多様な価値観を認め合い、成長を喜ぶ文化をどう維持するか
ということは重要だ。

素晴らしいと言われる理念を持つ学校がいま一つ伸びない理由の一つが、
教員がその理念を体現するだけの「文化」「価値観」
平たく言うと「身体感覚」をもっていないことだから。

スタート時に理想と希望を掲げて、意欲ある先生方が試行錯誤する。
意見の食い違いが出て何人かが退いていく。
痛みを伴うことかもしれないが、そのこと自体は起きる方が自然かもしれない。それを超えた学校が新しい流れを作って残っていく。

社会全体としては、いろいろな教育観、学校観があった方が全体としての多様な教育が保障されるから、それぞれがそれぞれに歩むことができれば、
それがいい。

しかし実際のところ、オルタナティブな方法のトライアルの数が増えるにつれ、その困難さを超えることができない学校が出てくるだろう。それだけの教員を揃えられない、育てられないという理由で。

オランダではそれが課題になっていたと思う。
だから教師教育の制度を整えようとさまざまな工夫をしていた。
オランダの教師教育が世界でも進んでいるのはきっとそのせいだろう。

そう考えると、日本でも、
新しい学校を作ろうとする動きが出てきている今こそ、
理念を理解し、システムやカリキュラムや校舎や教具を使いこなせる先生のストックが必要だ。

法律と制度の改革はもとより、
自分で試行錯誤できる教員が増え、その仲間が増え、
それを支える地域を作っていくことが必要であろう
 教育は地域文化の上にある。
 先生の力量が低くても、地域の生活と文化がしっかりしていて、
 子どもたちが地域で暮らしていれば、
 学校は実はあまり子どもの発達に影響を及ぼさない。
 今の日本は、地域や家庭の機能が弱体化してしまっている上に、
 放課後も含めて子どもが学校で過ごす時間が長すぎる。
 さらに宿題という学校文化や塾という競争と評価の塊が家庭を侵食している。
 コロナで学校滞在の時間が短くなっても、
 すでに地域や家庭に子どもたちを支える機能が低くなっているから
 問題は解決しない。

日本の教師教育を真剣に考えていかなければならない。
遅すぎるけれど。
熱い想いを持った教員志望者や教員をつぶさないように。
捻じ曲げないように。学校を捨てないように。
新しく教育に関わりたいと考える人たちが
関わりやすい仕組みを作る必要もある。

教師予備軍として一定単位を取得した大学生に免許を授与する日本独自の「開放制教員養成制度」は、教員にならないけれど教育についてしっかりと考えられる大人たちを増やすことができる装置だ。

しかし、今まで、実は、
教育について、教員について、馬鹿にする大人たちを増やしてきたのが、
開放制教員養成の一面だったかもしれない。
残念ながら、大学にはそんな授業が少なくない。

この制度を活かすためには、
教員養成の質を高めて(まずは第一段階として、せめて学生が眠くならないものにして)、
新しい学校の試みに参画できる先生を増やしていかなくてはならない。

新しい学校が少なくて、そこに到達できる子どもが一部であるなら、今までと変わらないことになる。
オルタナティブな環境を希望する親に入れられた子どもたちが集まっている学校では、その家族の文化に支えられ、子どもたちは特別にいい教育を堪能していた。そして必ず、その隣に、そうでない公立の学校があった。

新しい学校を作るということが、子どもたちに当たりはずれや格差を認識させることであってはならない。日本では、オルタナティブな新しい学校は、単発にできても広がらずに来た。オルタナティブ教育が拡がっていくために、自分の学級でも見様見真似で試行錯誤できる教員が増え、その仲間が増え、それを支える地域を作っていくことが必要である。

カナダ(オンタリオ州)の学校でいいなと思ったことは、世界各国からの移民が自分たちの文化を持ち込んでいるから、多様な刺激が作用して、常に学校に変化を促していたこと。
オランダの学校でいいなと思ったことは、公立でも私立でも「隣の学校の真似をすることができる」状況だったこと。親子も先生も学校を選択できて、移動できるシステムがあったこと。
比較的小さな国が集まった北欧では、互いに影響を及ぼし合いながら、福祉の概念が教育の理念と輻輳して学校が変わっていった。
これらの国々において、教育の変化が少しずつ拡がっていき、
それぞれの国で教師教育の工夫がなされて行った。

変わる学校を支えることのできる一般の教員養成はどうしたらできるのか。
学校に入ってからでなければ教員は育たないという人がいる。
では、大学でできることは何かを考えなければならない。

教育改革は制度改革を伴う必要がある。しかし、
それを担う人の専門性を開発できなければ、教育改革はできない。
教師教育者の専門性開発をテーマとする場が、日本にはまだほとんどない。
それを始めなければならない。

下記の本は、2014年までにどんな教師教育者研究が国際的に積み重ねられてきたかが一望できる本。ヒントを探してほしい。

#教師教育 #オルタナティブ教育 #新しい学校 #教育改革  ♯専門性開発 

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