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内的世界の貧しさを思い知らされる

ずいぶん前
「夕陽を見ながら、この夕陽をどう表現しようかと考える」
と 中学生のよしもとばななが言ったと読んで
こんなこと考えたこともなかったから小説家にはなれなかったのね
と思った愚かな私。

詩を書こうとしている今だって、
「どう表現しようか考える」ことは必要なのである。
そんなことに、きのう気が付いた。
詩を書こうと思ってからもう二年。あほすぎて笑える。

次の勉強会のための他の方の詩を読んでみて、改めて気づきがあった。
みんな自分の世界があるのである。
字面を見ればそりゃそうだとしか思えないが。

詩の入り口から終わりまで、その世界の中で成立しているのである。
たとえ、実際に行った旅行とか、乗ったバスとか歩いた道とか
リアルの経験を基にしていても
みんな 比喩の世界に引っ越して作者のうすいうすい膜の中で終始する。

それが現代詩なのかしらね

なんていうか
私自身が、半径5~100メートルがせいぜいの
自分の事実を言葉にしているのに対して
他の人は自分の「層としての世界」を持っている。
言葉に対する探究心なども比べ物にならない と気づいてしまった。

相対的な感覚ではなく気づいてしまった。
今までは気づくことさえできない位の差がついていたのだろう。


プレバトを思い返す。
「才能あり」くらいなら許される表現も
段位持ちには許されないことがあるがそういう差である。
名人を目指している人ばかりの中で
私は「特待生に早くなりたい」と言っている。そういう差である。

自分の世界を構築できるようになったら。

以前、表現の過不足がやっとわかり出したころ
「急にうまくなった」と言われたことがある。
そういうのを目指したいと思う。野心だけは持っていようと思う。


守り人シリーズの「ナユグ」のようないつでも行ける自分の世界を
作ってみたいと思う。
作りかけても中途半端であったかもしれないと思う。



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