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【山笠記事3】祇園山笠の起こりについて

みなさん、こんにちは。津屋崎祇園山笠振興会です。

本来なら、「山詰め」という期間に入りました。
山詰めというのは、山笠が建ったあとの見張り期間のようなものです。
昔は、山笠を壊されないように、夜中も見張りをしていたとか。
最近では、会社のリフレッシュ休暇を消化して山詰めをしてくださる方もいたりします。それくらい重要なことなんです!

今年は、その山詰めもできない状況ですが、
振興会として、この機会に私たちの山笠を知ってもらおうと、5本程度の記事を投稿していきます。

↓過去記事はこちら お時間あるときに「【山笠記事1】はじめに」からお読みいただけますと幸いです。

さて、今回は祇園山笠の起こりについて書こうと思います。

私たちが行っている津屋崎祇園山笠。
そのおおもとは、博多祇園山笠です。

そして、博多祇園山笠というのは、祇園祭のひとつ。
祇園祭の本家は、京都の八坂神社のあの祇園祭です。これは日本三大祭りと言われ、大変有名です。

この記事では、博多祇園山笠の起こりと、祇園祭についてお話できればと思っています。
※津屋崎以外のお祭りは、著作権の問題で写真が使えないため、リンクを多めに入れています。

1,博多祇園山笠の起こり

博多祇園山笠とは、博多の総鎮守である櫛田神社の奉納神事です。
7月1日に始まり、7月15日の「追い山」で終わる福岡を代表するお祭りの一つです。
15日の追い山は、以下のような形で行われています。

”4時59分 大太鼓の合図とともに一番山笠から順に「櫛田入り」。
その後、境内を出て旧博多部に設けられた約5kmの「追い山笠コース」を須崎町の廻り止め(ゴール)を目指して懸命に舁く。”(博多祇園山笠振興会HP

津屋崎祇園山笠と同じ祇園山笠であるとはいえ、大先輩であるため詳細を語ることは憚られます。詳しいことはHPをご参照ください。とてもわかり易く紹介されております。

博多祇園山笠で奉っている神様は、もちろん素戔嗚命(スサノオノミコト)です。

祭りを通して何を行っているかといいますと、無病息災を祈願しています。

いつ頃から行っているか?

諸説あるので断言は難しいのですが、博多祇園山笠振興会発行の『博多祇園山笠2014』の記載に則って紹介しようと思います。

博多祇園山笠として最も古い文献上の記録は、『九州軍記』にある1432年(永享4年)のものです。

”六月十五日博多津櫛田祇園の社祭あり。三社の神輿を沖の浜へ御幸の後、山の如く十二双の造り物をからくみ、上に人形やうな物をすへて、是を舁ささけもて行”(九州軍記)

とあります。12基も山が建っていた上、それとは別に3社の神輿があったとか。

1432年から今も残っている事自体、すでにすごいことなのですが、起源はもっと古いと言われています。

博多祇園山笠の起源は、1241年(仁治2年)承天寺の開祖・聖一国師が、博多で疫病が蔓延した際、疫病除去のため施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいたのが始まりと言われています。(伝承)※甘露水:不老不死の霊薬のようなもの(別名:アムリタ)

聖一国師も承天寺も仏教、でも櫛田神社は神道。不思議です。
1241年から1432年の間に何が起こったのか、ついつい追求したくなるところではありますが、それは横に置いて、
ここで重要なのは、疫病が蔓延した際、疫病除去のために始まったというところだと思います。

そうです、博多祇園山笠は、大昔、新型コロナウィルスの蔓延と同じようなことが起こったため初められたお祭りなのです。

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であるからこそ、
博多祇園山笠を受け継いでおられる博多祇園山笠振興会の皆様、そして博多から分かれて始まったとされる各所のお祭りに従事する皆様は「残念だった」「仕方ない」では済まされない想いを抱えていることと思います。

これは、津屋崎祇園山笠振興会も同じです。

皆様、来年は、2年分の素晴らしい山を奉納しましょう。

少し想いの話をしてしまいました。。。

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もう少しだけ博多祇園山笠の話をしようと思います。

博多祇園山笠といえば、あの男衆の勢いとスピードかと思いますが、実は最初は違いました。

「追い山」というスタイルが始まったのは、1687年(貞享4年)のことだそうです。

”博多土居町に助右衛門という者あり、娘を竪町 幾右衛門の息子に嫁がせしが、正月、幾右衛門の息子夫婦が嫁の里に初入した際、幾右衛門の息子に土居町の若者が水桶をかぶせ、それを余興に酒宴をしていたところ、幾右衛門の町内のものが聞き、土居町の助右衛門のところに押しかけて大喧嘩となり、その場はとにかく納まりしも、この夏祇園山笠は土居町が二番山、三番山が官内町の竪町の組なり”(櫛田社艦)

簡単に言いますと、「竪町の男が、嫁の里である土居町で、ぞんざいな扱いをされていたから喧嘩になった」ということです。

本来、山笠というのはのんびりしたもので、「昼喰い」というお昼休憩があり、競争はしていませんでした。

しかしこの年は、土居町に恨みを抱えていた三番山の竪町が、休憩時間である「昼喰い」中に、二番山の土居町を追い越そうとしたのです。それに二番山の土居町が呼応し、「追い山」が始まったとされています。

この偶然始まった「追い山」というスタイル。
今となっては無くてはならない要素どころか、博多でも津屋崎でも山笠の柱となっています。人を惹きつける要(かなめ)でもあります。

客観的にみると「そんなことで?」と思うことが、350年近く続いていることはとても面白いですよね。

2,祇園祭について

博多祇園山笠も、津屋崎祇園山笠も、「祇園」とついている通り、
祇園祭の一つです。

博多も元々は祇園祭のみ行われていて、山笠が建つようになってから「博多祇園山笠」と呼ばれるようになったそうです。(日本の祭がまるごとわかる本 参照)

津屋崎も毎年必ず7月19日(山笠記事2参照)に祇園祭を行っています。今年も少人数の参加者で行う予定です。これだけは必ずやらねばならぬという想いからです。

ということで、この山笠の中核をなす「祇園祭」について見ていきましょう。

津屋崎祇園山笠の祇園社は、博多の櫛田神社から勧請してもらったものです。※勧請:神様をわけてもらうこと 
そして、櫛田神社の社伝によると、

素盞嗚大神は天慶四(九四一)年、藤原純友の反乱の鎮圧に当たった小野好古が神助を祈願し山城(京都)祇園社から勧請した。(博多祇園山笠振興会)

とあります。
上記のことから博多の祇園社は、941年に京都の祇園社から勧請してもらったことがわかります。

京都の祇園社というのは、あの有名な八坂神社のことです。

これらのことから、私たちの祇園祭のおおもとは八坂神社の祇園祭にあることがわかります。

では、八坂神社の祇園祭とはどのようなものなのでしょうか?

祇園祭とは、
日本三大祭りのひとつで、33基の山鉾で疫病を払うお祭りです。日本全国の夏祭りのルーツと言われたりもします。
7月17日の「山鉾巡行」が有名で、祭神は当然ながら素戔嗚命。

山鉾というのは、山車の一種です。(山鉾について

では、どのように始まったのでしょうか?

八坂神社のHPにこのようにあります。

”古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。”

上記から、869年に疫病が広がったため始まったことがわかります。

また、梅雨である7月頃、比較的新しい都であった京都は、人口が増え河川の氾濫などにより衛生状態が悪化することも多く、そのような災いを除去するために祇園祭を行っていた、ともあります。(日本の祭りがまるごとわかる本)

つまり、祇園祭は、1150年ほど前に、疫病や自然災害を取り除くために始まった荒々しい神様を祀る、優しいお祭りなのです。

まさに、今の日本の状況に対して初められたお祭りなんですよね。

これが、私たちが行っている津屋崎祇園山笠の源流であると言って良いでしょう。

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以上、津屋崎祇園山笠から、博多祇園山笠まで遡り、さらに八坂神社の祇園祭まで遡ってみました。

この作業でわかったことは、
私たちがお祭りに冠している「祇園」には、
元来、「日本全国の人々が健やかに過ごせますように」という願いが詰まっている、ということです。(祇園祭の起こりから)

日本全国となりますと、少し荷が重くも感じますが、今年も津屋崎の祇園祭を通して、津屋崎祇園山笠に関わる全ての皆様の無病息災を精一杯祈願していく次第です。

最後までお読みいただきありがとうございました。

次回は、
【山笠記事4】津屋崎祇園山笠の現代の役割って??①
です。お楽しみにー!

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※コロナウィルス感染拡大の状況から、津屋崎祇園山笠「祇園祭」への参加や見学はできません。

参考文献
博多祇園山笠2014 博多祇園山笠振興会
津屋崎祇園山笠三百年記念記録誌 
日本の祭り解剖図鑑 エクスナレッジ
日本の祭りがまるごとわかる本 晋遊舎

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