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◆濱中史朗氏 ロングインタビューVOL.2

史朗さん
「まぁスカウトごとが多い。」

のぶちか
「あっ、史朗さんがスカウトされるという事ですか?どんなジャンルですか?」

史朗さん
「あぁそれは猿山(修)さんにしても…。だから自分から行った事は無い…。行けないから。」

のぶちか
「それは性格的にですか?」

史朗さん
「うん、性格的に。」

のぶちか
「…スカウトされる時に、佐々木さんにしても猿山さんにしても、まぁすごく力があると言うか、センスのあると言うかそういう方々が多いと思うんですけど、交流されてる方々がもう皆すごい…」

史朗さん
「でも当時そんな色々話がある訳じゃないから…。で、ましてや萩にそんなにギャラリー自体無いじゃん、少なかったから…、だから『このままで良いんだろうか?』って(笑)。だから自分でしに行ったりね、ゲリラ的に。まぁ長屋門(※①萩市のカフェ)さんとかね。無い状態があるから自分でする、みたいな(笑)。何もない地域で…、だったら自分でって(笑)」

のぶちか
「へぇ~。」

史朗さん
「まぁそんな感じやった。今はまぁ色んな話があるじゃんその…、裾野が広がってきてて、クラフトフェアとかさぁ。(当時は)ジャンルもそんな無かったし…」

のぶちか
「へ~…、当時萩焼がまだまだが隆盛期というか…、あっ、長屋門さんでやられたのは佐々木さんの後ですか?」

史朗さん
「前かな?26(歳)とかその位の時。」

のぶちか
「いやあの当時って今よりも萩焼もまだ活況だった気がするんですけど、で、僕実は長屋門さんで史朗さんが企画をされていたのを母とたまたまぁ」

史朗さん
「あぁ言ってたねぇ。」

のぶちか
「はい!あの時もう白磁をされてましたよねぇ?」

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史朗さん
「あぁそれは後の方やねぇ。最初はねぇ四人展みたいなんで、同級生なんだけど…。俺が土器を作ってたの知ってる?」

のぶちか
「そうなんですか(←知らなかった)!?その四人展の時にですか?」

史朗さん
「そうそう。5点…とかそんなもんだったかな?まぁ土器を作ってたの。(長屋門での)一番最初はね。」

のぶちか
「へぇ~。いやその~、萩焼自体はすごく活況な中でちょっとまた(制作物が)別枠路線というか…」

史朗さん
「うーん…」

のぶちか
「いや、今のお話で行けば土器ですし…。思いっきりガッツリ古典的な萩焼とかオーソドックスな萩焼路線であればまたちょっと印象(売れ方)も違ったと思うんですけど?」

史朗さん
「まぁウチ(実家)がそういうあれ(伝統窯及びそれに準ずる窯元)じゃなかったっていうのもあるしね。それで、なんで『萩焼を?』って、あの、まぁ疑問ばっかりだった。なんでこう萩…に居てぇ……、萩焼をしなといけないのか?っていう疑問をはっきり知りたかったんだよね(笑)。で、いや別に萩焼を否定している訳やないんよその…。そっち(萩焼作り)に行かないといけないっていうね、そういう自分の精神的な位置付けって言うかね。別に親もがっつり萩焼やってる訳じゃないし…。で、なんか『作るって事は何だろうか?』っていうのはあった、その時から。で、分からないから…、まぁ取り敢えず土器から始めよう、って思った(笑)。っていう感じやったんよね(笑)。」

のぶちか
「あ~~~。それはあれですか?焼き物の興りだからだったんですか?」

史朗さん
「そうそうそう(笑)。『最初からやったら分かるんじゃないか?』って(笑)。」

のぶちか
「へぇ~~~。」

史朗さん
「萩焼をやるっていう自分の立ち位置が見えなかったって言うか(笑)。周りからもそうだと思うんだけど、立ち位置って言ったら変だけど…」

のぶちか
「それを考えてらっしゃった時が年齢は何歳ぐらいの時でしたか?」

史朗さん
「22~3(歳)の時だったんじゃないかな…」

のぶちか
「はぁはぁはぁ…、あぁ…すごいなぁ…」

史朗さん
「それでねぇたぶん、24(歳)位の時に作品的なものを作ってラセーヌ(※2山口市のカフェギャラリー)に大屋窯と一緒に出して…、それが初めて…出したやつかな。」

のぶちか
「その時の作品は土器…?」

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史朗さん
「土器はもうちょっと前かな…。土器しながら他の事もしてた。全部土器じゃないよ。で、どきやってて『これ食器にならないな』って思ってやめた(笑)。」

のぶちか
「(笑)。それはもう機能的にって事ですか?」

史朗さん
「うん、このまま土器作っててどうすんの?時代錯誤って(笑)!壺とかね、なんかそういう形態を持ったものだったら分かるけど(笑)。」

のぶちか
「はいはいはい(笑)!へぇ~、なるほど~。」

史朗さん
「別にそういう生活してる訳やないし。で、これ『限界がある』って、器としてね(笑)。表現としては勝手やけど。」

のぶちか
「土器から食器への移行と言いますか、『食器じゃないとダメかもしれないな?』って考えるきっかけって何かあったんですか?」

史朗さん
「えーっと、やっぱり佐々木さんだったり猿山さんだったりするね。やっぱり色々やったりもしてたんだけど…、食器っていう軸にちゃんと持って行ってくれたのは佐々木さんだったのかもしれないし…。でその後にはまた離れて色々やってて…、なんかまぁ骸骨作ったりとかさぁ…、してた中で猿山さんに発見された…。で、また猿山さんと接する中で…、食器っていうものがさぁ、ベースになる…、でそういう食器感って言うか別に食器感語ってる訳じゃないんやけど…、なんかこれが離れちゃうとこう…、こんな事になってしまうって感じのとこもある(笑)。それを…制御してもらうって感じかな…。」

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のぶちか
「(深く)へぇ~……。」

史朗さん
「今ちょっと解き放たれてるからさ…。あのっ、あのぅ…、こう言っちゃああれなんだけど(笑)、でももう今はまぁ大人だからそんな感じ…じゃないんだけど(笑)。」
のぶちか
「ハハハ(笑)!」

史朗さん
「かなぁって感じなんだよね、やっぱりあのぅ…疑問ばっかりだからさぁ食器ばっかりに集中できない(笑)。『これ、食器って結局何なの?』とかさ、シチュエーションもあるし…、その必要とする側とかねぇ色んな兼ね合いがあるから、自分だけの世界というか思ってる事だとその…、食器じゃないんだよね、やっぱり…。」

のぶちか
「なるほど~。」

史朗さん
「食器がねぇ、正常に戻してくれる(笑)。精神を戻してくれる…様な感じ(笑)。」

のぶちか
「じゃあ興味が多岐に渡ると言うか…」

史朗さん
「多岐に渡るって程でもない…。そん時に集中して考えてるってのはあるけど…。やっぱり表現的なものが自分のこう…根っこの部分ていうかね…。根っこの部分が食器じゃないんだよね。どっちかって言うと美術したいってとこもあるからね…、だからさ。でもやっぱりあの焼物は食器作れないとあかんだろって、そういってる人もいるし、先輩方って言うかおじいさん…、やっぱり焼物屋は彫刻家じゃないしさ。やっぱり器作って…、まぁ八木一夫にしても器も作れるしってのもあるし…。イサム・ノグチとかまぁ別やけど彫刻からやから…。焼物やる以上は器(は作れないとなぁ)かな…」

のぶちか
「イサム・ノグチで言うと、史朗さんの好きな(イサム・ノグチが師事した)ブランク―シ(彫刻家)に関しては、惹かれたきっかけというか…」

史朗さん
「パリ行った時に見に行ったんだよね。それが二十歳位の時だったかな。パリのブランクーシのアトリエっていうか。今はポンピドゥー(センター)の横にあるけど。そん時にそういう抽象的なものに憧れがあって、その前はフォンタナが好きでね、ルーチョ・フォンタナ。で、そういう抽象的なものがすごい好きだった…。元々ね。でも色んな影響がある、それだけじゃなくてね(笑)。で、えっと親父もねぇアフリカ美術とか買ってたとこだっだから。でアフリカの美術って言ったらまぁブランクーシとかも影響してるからさ。まぁアフリカものとかもよく観に行ったりもした…。」

のぶちか
「関係ないですけど、今アフリカものとかすごい人気がありますよね、農具とか民具とかめちゃ高くて。」

史朗さん
「インテリア系?」

のぶちか
「はい。」

史朗さん
「親父のはミュージアムクラスとかだったんだけど…」

のぶちか
「はー!!!そうなんですね!」

史朗さん
「当時ねぇ、そんな店があったの。今は結構インテリアショップとか流行ってるじゃん。でもやっぱり当時見てたのと違う…。いやまぁ東京行ったらそういうとこ行ったり、親父が行ってたとこよ。で、その時もう美術デビューしてたよね普通に。」

のぶちか
「ほー!あぁそうなんですね~!」

史朗さん
「で、段々カジュアルになってきてぇ…、なんかいつのか分からないけど雰囲気良いのはいっぱいあるんだけど…、やっぱ親父が集めてたのは凄いなって感じだった(笑)。」

のぶちか
「へぇー!」

史朗さん
「流行りじゃなくて当時の良いものを知ってるって感じ。」

のぶちか
「へぇ~!月村先生(史朗さんのお父様)は史朗さんが何歳くらいの時から美術蒐集を始められてたんですか?」

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史朗さん
「もうたぶん、若い時からだろうねぇ親父が…。爺さんが(蒐集を)してたから。爺さんは(美術)蒐集と萩焼の研究をしてて、『萩の古陶磁』って本も出してるし、色々と研究をしてた。で、萩城の瓦とか古銭とか、萩城に関するものは結構博物館に寄贈してるんだよね。」

のぶちか
「いやぁ、段々見えてきました…」

史朗さん
「で、親父のお父さんも医者やったんやけど、まぁ蒐集してたみたい。で、病室に 富岡鉄斎の軸かけてやってたみたい。」

のぶちか
「(笑)!病室にですか(笑)!?」

史朗さん
「病室って言うかあの…、診療室。」

のぶちか
「へぇ~~~~~~!じゃあ本物を見られてきてますもんねぇ~…。」

史朗さん
「まぁ本物かどうか当時は分かんないけど、そういうイメージと…、なんかお婆ちゃんとかもそうだったけど…、うーん…、どうなんやろ?でましてや病院だしさぁ、まぁなんらか骸骨とかいじっても違和感無いというか(笑)、別に骸骨とかあった訳じゃないし…、なんかそっちに引っ張られたって感じ(笑)」  

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のぶちか
「ほぁ~…(←すいません)。以前、喜左衛門のお話(好きな茶碗が何かをお聞きした際に
『喜左衛門井戸』を挙げられて)をして頂いた時に、それが出来上がるまでにじゃあそれ(喜左衛門井戸)を作った人は何に影響を受けたのか?とか(史朗さんがものづくりを)深掘って深掘っていった時に骨に辿り着いたというお話をして頂きましたが、なんかそこがお爺様がお医者さんだったっていう事だとか、もしかしたら影響が…」

史朗さん
「あるかもしれない。」

のぶちか
「へぇ~…。その他、影響を受けた方やアーティストはいらっしゃいますか?」

史朗さん
「殿敷(侃)さんとか…、殿敷さんはもう高校か中学校の頃から知ってるし…。で、兄貴もねぇその影響でファッション始めてねぇ…、その…マインドの影響で、マインドの(笑)。まぁ、したい事したいって思ったりしたんだろうねぇ。」

のぶちか
「ほぁ~、そうなんですか!」

史朗さん
「で、その殿敷さんと四年に一回の芸術祭がドイツであるんだけど、それ一緒に行ったんよね、殿敷さんと兄貴がね。と、親父も行ったんかな。何人かで行って、それですごい感化されたんだと思う。それがたぶん、兄貴が19(歳)位の時。で、俺はその頃高校生だったから色んな情報を知らなかった。まぁ(俺も兄貴も)色々な経緯がある。」

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