見出し画像

【小説】健子という女のこと(10)

☜【小説】健子という女のこと(1)から読んでみる

 冴子が暖簾をくぐり、引き戸に手をかけようとしたとき、ふいに内側から引き戸が開き、勢いよく涙目の三十歳前後の目鼻立ちの整った、美しい女性と、鉢合わせになった。
 冴子は思わず身を引きながら、その女性に道を譲る。その女性は冴子に、無言で頭を何度も下げて、足早に信号が変わり出した、横断歩道の方へ駆け出して行った。
 見送った冴子が、飛騨庵に入ろうとする。その時、冴子の携帯電話が鳴った。冴子は慌てて飛騨庵の引き戸に背を向け、バッグの中の携帯を弄る。どうにか、呼び出し音が切れぬ間に繋がった。
 鍛冶橋の方へ携帯で話しながら祭りの雑踏の中を、歩きはじめる冴子の背で、勘定を済ませて出て来た田端が、横断歩道を渡り切り向う側で待っている健子に、手を振って合図する。

 田端と冴子は、お互い背中合わせで、反対側に歩み出したのである。

横断歩道22448666_s

「おじいちゃんが、居なくなった!」留守宅の息子からの電話だった。鍵をかけてコンビニへ、買い物に出た十分ほどの間に、居なくなったそうだ。最近、父の徘徊が多くなった。そのことは、息子も充分知ってはいたはずだが・・・。
 父を一人にして出かけるときには、外側から鍵をかけるように、伝えてあったのに忘れたのだ。普段は母親に、何でも頼り切っている息子は、実際に問題に直面して、慌てふためいている。まさか、こんな簡単に、突然出かけて行ってしまうなんて、思わなかったのだろう。 
 普段、自分のことは、自分で何とかして、日常生活をしているので、まさかと思うのだ。徘徊行為は突然起こる。
「どうしたらいいんだ!」三十歳前の息子がヒステリックに、電話の向こうで狼狽えている。

携帯 23216762_s


 祭囃子に、かき消されがちな、こちらの声が、聞き取りにくそうで、ますます、息子は苛立っているようだ。「そのうちに、帰ってくるから・・・」そう言い聞かせて、冴子はとりあえず、電話を切った。
 先日も町会長さんから電話で、近隣センターの駐輪場で、座りこんでいると、電話をもらった。その前は、交番からの知らせだった。あのときこそ、どこかで交通事故にでも遭ってしまったと緊張した。びくびくしながら応対したところ、軽やかな若い警察官からの明るい声で、「お宅のおじいちゃんを、こちらで保護しております」との連絡に、一安心したものの、真夜中に迎えに出る羽目となった。
 名前と住所と電話番号を書いたメモをパスケースに入れ、首から紐でかけ、胸ポケットに、持たせるようになってから、特に徘徊が多くなったような気がする。
 冴子は、最近の父親の変わりようの速さを、気遣っている。娘の自分に「どちらさん?でしたか?なァ~」と、父親に聞かれる日も、そう遠くないような気がしている。
 息子には、「そのうち、何処からか連絡が来るから・・・」と頼んで、頑張ってもらうしか、手だてがなかった。冴子が、万が一東京に居たとしても、そうしただろう。それ以外にジタバタして策を労しても、決していい効果を期待できないことを、経験から知っていたからだ。



【小説】健子という女のこと(11)へ読み進む☞

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?