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【小説】健子という女のこと(14)

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 田端はそんな自分の若かりし日の怠惰な生き様を、健子に話して聞かせてやった。はじめは、ただ懐かしくて心地よく始めたのだが、終いには、ただの老人の繰り言のようになって終っていた。
 はじめのうちは、相づちを打って、聞いていた健子だったが、田端の話を子守唄にして、祭り見学の疲れも出たのだろう、助手席で眠り込んでいる。田端は脇道に車を停めて、軽い寝息をたてて眠る健子に、自分のジャケットをかけてやった。
 静かにしばらく建子の寝顔を、眺めていた田端。無性に口づけしたい衝動とは裏腹に、猛烈にその行動をかき消さざるを得ない衝動が、全身を駆け抜けた。健子の横顔に、田端の青春時代の蹉跌が蘇ったからだ。
 田端は、かぶりを激しく振って、サイドブレーキを素早く外し車を出した。ハンドルを握りしめて、かき消そうとする面影は、非情にもどんどんと鮮明になり、田端に覆い被さってくるのだった。
 飛騨川沿いからいつしか離れた国道は、すっかり暮れた、下呂市街の外れにさしかかっていた。

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 冴子は、祭りのせいでか、なかなか拾えぬタクシーを、やっとの思いで捕まえて、高山駅まで戻った。駅前のタクシー乗り場は、旅行客の姿が目立つ。行楽気分を満喫している初老の夫婦連れが、やけに目について仕方がなかった。田端ともう一度、あんな風に仲良く連れ立って、楽しい旅行ができるほどに、夫婦仲を修復できるのか、今の冴子には自信がなかった。
 身体中の血液が、凍えて固まってしまうほど、心が冷えきってしまっている自分に、また泣けるのだった。今夜は必ずや、いかになろうとも、結論を出さねばならないと、心で強く誓う冴子であった。

 高山駅舎は、昭和初期の開業らしく、昔ながらの懐かしい、佇まいをしている。SL時代の名残なのか、旧式の洗面所が、一層郷愁をかきたてていた。                  
 冴子は駅弁をひとつ買い求め、改札口の上の古ぼけた駅舎とは、不釣り合いの電光掲示板で、次の列車の確認をしようと一歩踏み出す。その膝に硬くて黒い大きな箱が、激しくぶつかってきた。
「痛い!なにするの・・・」冴子は蹲りながら、反射的に叫ぶ。謝りの言葉ひとついえない、その箱を携えた男を、激しく叱責しようとしたのだが、その男は、すでに四、五人の仲間を追いかけるように、改札口を通り過ぎて行ってしまった。後に残された冴子は、やり場のない怒りを、衆目に負けて、渋々収めざるをえなかった。罰悪く少し右足を、引きずる格好で、掲示板を確認する。
 十六時二十分発、美濃太田行・・・。冴子は腕時計と見比べながら、駅員に聞く。「そうです!あの入線している列車です!」 冴子は、沈着冷静な駅員の返答を、背中で聞きながら、右足を引きずるのも忘れて、階段を駆け上がる。まさに、閉まろうとしている、列車のドアの隙間に、身体を捻じ込むようにして乗り込むことができた。



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