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【小説】健子という女のこと(15)

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 高山本線もほぼ、飛騨川沿いを走っている。紅葉を映す川面が眺められる窓側の席に冴子は腰掛けた。
「アッ!あなたは・・・」冴子は腰掛けるやいなや、向かい側の乗客の顔を指さして叫んだ。乗り合わせた乗客全員が、一斉にこちらを見るほどに、大きな声だった。
「失礼な人ねッ!」冴子は周りを窺いながら、今度は小声になる。指された若い男は、先ほど改札口で、冴子に黒くて硬いバッグをぶつけて、謝りもせず逃げて行った男だった。その男は極まり悪そうな顔で、言い訳がましくいう。「祭りの規制でか、タクシーのヤツが、遠回りしやがって、前の列車に乗り遅れて・・・」若い男が話し終えるのを待てずに、「他人(ひと)のせいにしないで・・・」と冴子はいい放った。いわれた若い男は、口ごもりながら「・・・急いでたんだ」と、やっとの思いでいった。
「急いでいたから、謝らなくてもいいって、ことはないでしょ!」
 普段の冴子なら、こんなことぐらいで、こんなにも激昂しないのに、情緒不安定で憔悴しきった、今の冴子だから、些細なことでも癪にさわるのだろう。

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「ごめんなさい」若い男は、仲間の顔をちらちら見ながら、恥ずかしそうな顔で、ほんの少しだけ頭を下げて、冴子に謝った。意外にも素直で優しそうなその男は、よくよく見ると、まだ二十歳前後の男の子だった。
 最近の子どもは体格がいいので、つい大人の男と見間違えることがある。
「そうよ!謝ればすむことなのよ!」冴子に母親の眼差しがもどっていた、なんでも、その男の子は、連れ立っている仲間と、グループを組んで、名古屋市内でのライブに出かける途中らしくて、黒くて硬いケースは、キーボードだった。そういえば、他の仲間たちは
も、ギターらしきケースを抱えていた。その若者たちの楽しそうな会話を聞きながら、冴子は自分も大学生の頃、田端たちとフォークソングのグループを組んでいて、アチコチの大学祭へ呼ばれては、唄ったり、演奏したりしていた想い出が、蘇ってくるのであった。
 そんな冴子の思い出たちは、やがて睡魔の呪縛に負け、夢の世界へ誘われることとなった。


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