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否が応でも

「NO」を言える人間になれと、
時代が、そんな風潮になっている。

その背景には、さまざまな社会的問題が見え隠れしている。労働だとか、性差だとか、いずれの状況においても、切っても切り離せない要素だろうと思う。

僕は、この「NO」を発すること、謂わば、「拒否/否定」行為がとても苦手だ。

大抵の幼児は「イヤイヤ期」という通過点を経るにもかかわらず、オトナになっていく過程で、相手の顔色を窺うことを覚え、世の中で生き抜くには、イエスマンである方が簡単と信じてしまい、そのうち、それまでの「肯定/許容」は、フラストレーションとなる。

なんて皮肉なのだろうと感じる。


僕らが2、3歳の時分には、あれもこれもイヤだと、少しずつ身内間から「NO」を発信し、何でも自分自身でやってみることを覚えたのに、結局、社会的な「正しさ」に焦点を合わせて、偽りに程近い「YES」を提示しながら四苦八苦するなんて、と。

そんな日々のフラストレーションを、僕は、ことばと表現に頼って、事後報告として発表してしまう。
そうでなければ、この名前のない感情と対峙することは不可能だと悟った。



悪癖

割と何に対しても許容範囲の広い僕は、人が10話したことも、一度はすべて持ち帰る癖があるので、「後出しジャンケン」で意見するのは迷惑だろうと思い、最終的に、何でも言うことを聞くヤツになってしまいがちだ。

交友関係において、遊ぶ場所が自分の意思とは全く異なる場所に決まってしまった、とかだったら、まだ可愛げがあると思う。
社会の間(はざま)で、やりたくないことをやらされる局面も、ギリギリ、世の中を呪えば良い話だ。

しかしこの悪癖は、自分にとって一切の得がない、かなり低俗な願いでさえも受け入れてしまう。
そうなった場合、責められるのは、「断れなかった人間」になってしまう。そういうのを理不尽と言うのだろう。



言い訳

断れない人間は、「NO」の輪郭が見えなくなるまで、言葉を幾重にもオブラートで包む
相当気心の知れた仲か、或いは運が良くなければ、相手に言葉の本質は伝わらない。

何なら、「こいつは何が言いたくて喋ってるんだ…?」という疑問さえ抱かせる。
それは、話している当事者も抱いている懸念である。


会社勤めだった頃、あまりにも会議中の発言が少なかったことから、別途呼び出されて意見を聞かれたことがある。
僕が社内で何も話さないのは、「言えない環境だったから」なのでは、と上長から気を遣われたのであった。

この時の会議の内容は、確かに、新卒の僕には重たいものだった。
かと言って、反対にあたる意見を述べたり、断ったりすれば、それはそれで誰かの反感を買うのは明らかだったので、考えること自体を放棄した結果、「大丈夫です」と言うに至っていた。

上長が親切心も半ばで真意を探ろうと、僕を呼び出した時点で既に、彼の欲しい答えは分かっていた。
僕がキャパシティ不足で、本当はそんなことできない、やりたくないんだと、本人の口から聞いてみたいのだろうと、ちょっと斜に構えていた。

ところが、ここまで答えが出ていても、僕は言葉として「NO」を言えないのだ。
何なら、先にも述べた、反感を買うことに対し、保身に走ってしまうため、結論はどんどん後回しになっていった。

僕が自分自身の思考と、上長と2人きりの空気に耐えかねていた頃、僕の主張を割って、

彼は一言、

「この時間にもコミュニケーションコストがかかってるんだよね」


と言い放った。

僕はただの「言い訳じみた何か」を言いたくて吃っているだけの人間になった。
それ以来、社内で誰かと口を聞いた記憶がない。


僕が「NO」を伝えようとしている時間、僕の発言は遠巻き過ぎて意図が伝わらないどころか、聞いてくれている相手の時間を頂戴している、くらいの謙譲(卑下に近い)の意識が働き、無言で受け入れることの楽さに気付いた。

どれだけ自分の神経がすり減ろうと、遠回りをするよりも、穏便に事が運んでいく近道を、僕は選んだ。

同時に、そんな自分の性格を恨んでいる。


「解像度」の違い

かつて勤めていた会社の話は、あくまでひとつの事例に過ぎない。
相手が大人だったことから、むしろ経験値の低い自分が何を言いたいのか、勝手に読み取ってもらえていた部分もあるので、解釈を一任できた。

厄介なのは、本当に自分が正しいと信じてやまない、超絶ポジティブ志向の人間である。
嫌味や冗談を抜きにして、その鈍感力を見倣いたいと、何度も思った。

彼らは、真正面からものを言えるだけでなく、自身の言っていることに間違いはないと思っているので、意見を聞く素振りだけして、実際は、同調以外の言葉を求めていない。

何なら、同調意見でさえ、一句でも他人の解釈が交わった途端、否定の物言いになっていくので、立派だと思う。
もちろん、これは純度100%の嫌味だ。

こちらが、どれだけ相手のプライドを傷付けまいと、努力して言葉を紡いだとしても、めっきり意図を理解しようとしない者もいれば、「じゃあ○○ってことね」と、強制的に会話の存続を断つ者もいる。

そういう人間と向き合う度に、誰からも否定されない廃村で育ったのかなと、不憫に思える。


また、彼ら自身が高圧的かつ主観的な態度になっていることに気が付いていない時点で、もうこちらはお手上げなのだ。
「NO」を言う隙を与えられない、もう一言の猶予も許されない。

そんな人間と、僕みたいな回りくどい人間は、ソリが合うはずもないのだ。

見ている世界の解像度も違うのだと思う。
価値観の違いに限らず、見えている景色そのものが違うんだと思う。

僕が度の強い眼鏡をかけている一方で、相手は乱視のまま、双眼鏡を逆さに覗いている。

そのくらい違って見えているのだ。


本当のところ

それでも尚、自分の不利を避けたいのであれば「NO」と言え、というのは、だいぶ無謀な話ではないだろうか?

物事が相対的に成り立っている以上、対人関係における価値観、言葉のニュアンス、解像度の違いには、それぞれの客観的な自己理解が必要であるのに対し、断れない人間だけが「NO」を叫ぶように求められるのは、全くもって無為だと感じる。

断るに断れない要件を持ち出した相手、或いは、そういう立場の人間には、まるで何の非もないような、そんな感覚をおぼえるのだ。


僕は、基本的に否定をしない。
だからこそ、自分から「NO」と発した経験、回数は記憶しており、それがどれだけ骨折り損だったかも、まざまざと思い出されるのだ。

それでも相手が自分の拒絶意思に気が付かない以上、なす術がなくなり、尚且つ関係性も存続してしまうことが、つらくて仕方がない。

都合の良い人間に成り下がる、そのプロセスを自らの足で踏んでいる現実が、悲しい。


誰か、この愚かな生き物に「NO」と言ってはくれないだろうか。

そうやって僕は、自分自身を、他人任せにして生きている。

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