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対話あっての世界なのだと。

地域の移住・定住促進の担当として、とある会合に参加してきた。基調講演を経て、地域に関するサービスを持つ企業と、各行政の担当者がマッチングするような時間が設けられる。Tシャツに薄手のジャケットを羽織った、若さと自信を兼ね備えたような30歳前後の社員が、MacBookを広げてサービスの内容を伝える。

キャリア、メディア、編集などさまざまな分野の企業が、それぞれの得意分野と「地域」を掛け合わせていた。地域をより良くするための多種多様な切り口に気づかされ、僕にはそれだけで、すでにひとつ有意義と言えるような感覚があった。

しかし、自分の地域も掛け合わせたアイデアが、なかなか深まっていかない感覚もあった。企業のサービスは、なんとなく理解できる。ビジョンやミッションもまあ、なんだか区別こそ簡単ではなかったが、言葉としては伝わってきた。ただ、じゃあ僕が暮らす美里町とはいったい何ができるのだろうと、その部分の思考が深まっていかないのだ。

対話が足りていないからだと思った。すなわち、行政の「こんな街にしたい」や、あるいは僕個人の「あんな街にしたい」という、本来なら軸に据えるべき本質的な部分。そんなそもそもの意志がなければ、たとえいくら立派な企業が目の前に現れても、きっと話は進まないだろう。

対話を探究する僕の知り合いは「社会や他人と対話をする前に、まずは自分自身との対話が必要だ」と謳った。自分と向き合ってこそ、自分以外の世界と向き合えるのだと。その言葉により一層の納得感を抱くとともに、僕自身の思考の解像度を高めていく必要性を感じたのである。

いつもいつもありがとうございます〜。