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「ちがい」は「まちがい」ではなくて。

就職試験における、面接の意義を考える。もちろん人によってさまざまなイメージを抱く事柄だろうが、今の僕は「お互いの相性を確かめること」だと思っている。採用する側とされる側が比較的ナチュラルあるいはスムーズに未来を過ごせるよう、直接会話や対話をしてみること。あくまでその“お互い”は、対等な立場にあるイメージだ。

ただ、少し前までの、たとえばバイトの面接や新卒として就活に挑んでいた僕ならば、「いかに採用してもらえるか」ばかりを気にしていた。電話連絡や書類提出をして、それなりにコストを払ってたどり着いた面接の機会をムダにしたくないと、そんな貧乏性の精神もあったのかもしれない。すなわちそれは、「採用してもらえなければ失敗」という考え方を裏づけて、そうなれば少しでも気に入ってもらえるような言動を心がける。すると当然ながら、自分に歪みが生じる。その後たとえ採用を得られたとしても、ナチュラルとはかけ離れた自分であることを強いられるだろう。

「不採用」の通知は基本的に採用する側が発するものであるが、それはただ「相性が合わなかった(縁がなかった)」という判断に過ぎない。そもそも人それぞれの違いを認めているからこその就職試験であり、合わない人がいるのも当然のこと。というか採用される側にも「辞退」というカードがあるわけで、繰り返しになるがお互いに良い未来を思い描きそれを信じられなければ、「採用」は不要だと思える。

たとえば不採用で浮き彫りになる「違い」は、決して「間違い」ではないのだ。とにかく採用を欲しがっていた過去の自分は、いち早く就活を終える友人や複数の内定を勝ち取れる友人から、劣等感のようなものを感じていた。しかしそれは世の中に踊らされていたようで、まるで自分の軸で生きられてはいなかった。今なら事業の面談をする際、すっかり肩の力を抜いて、自分との相性を考えられている。この広い広い世の中で、しっかりそれぞれの違いを、あるいは自分自身を認めて生きていく心地よさを感じつつある。

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