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対等な世界を。

日々のコミュニケーションの中で「対等」という言葉が気になり出している。

人は気がつけば、上下関係の中にいる。子どもの頃から自然と年齢でクラスを分けられ、歳上には敬うように促され、会社には「上司と部下」なんていう概念がある。まあそこまでいかずとも、自然と相手の役割や肩書きを気にしながらコミュニケーションを選ぶわけで、目の前の人によって態度(対応)が変化するのは、人として至極当然なことだとは思う。極端な話、3歳の子どもと60歳の大人、それぞれに接する際の気持ちは異なるだろう。

最近気になり出しているのは、そんないわば“小手先”の話ではなくて。もっと根本的で潜在的な、精神の部分である。

たとえば、親とのコミュニケーション。たしかに小さい頃から生命的に依存せざるを得ない存在であり、彼らがいなければ自分はここまで育たなかった。しかし僕が子どもの頃にあったのはまさに上下関係であり、すなわち具体的には言いづらいことや言えないことがあった。彼らにそれを伝えたら立場が追いやられるだろう、というちょっとした恐怖である。あくまで想像だが、そんな雰囲気が感じられた。

そして今、僕は当時の自分と両親は対等でいられなかったのかと疑問を抱いている。人と人として、互いの世界や価値観を尊重し合うこと。そこには年齢差(や親子関係)を超越した、リスペクトの関係性があるイメージである。決してある1人の意見で掌握されるわけではなく、人それぞれの違いを考慮した上でのコミュニケーション。たとえば上司と部下だろうが、事業者と顧客だろうが、あるいは男と女だろうが、対等であることが平穏な、いやまっとうな世界をつくる気がしてならない。地域で活動している今は、歳上と歳下の両方の人と接することがあるけれども、少なくとも僕は対等なコミュニケーションの体現者でありたいと思っている。

いつもいつもありがとうございます〜。