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どうでもいい、どうにもならない。

自分には、どれほどのチカラがあるのだろう。

知人に誘われ、となり町でのイベントにエッセイを出展してきた。芸術を大きなテーマとして、音楽や美術を楽しめる場所に「ことば」のエリアも設けられ、僕はこのnoteのような表現を成してきた。かつて古民家だった場所には100名に迫る来場者があったようで、そこの歴史を知る町の職員さんはこんなに人が集まるのかと、感心した様子でカメラを構えていた。

僕は初めてのイベント出展を通して、率直に在廊が苦手な自分に気がついた。一応ずっと会場にはいて友人に会って話した時間もあったけれども、なんだか自分のエリアには近寄れなくて、文章を読んでくれている人の背中を遠くから眺める程度で十分だった。れっきとした理由は、まだ定かではない。ただ単に、目の前で読まれることが恥ずかしかったのだろうか。まあそれもなくはないのだろうが、主成分ではない気がしている。

おそらく、どうしようもないから、である。僕は僕の文章を表現することしかできなくて、その先で誰かがどう思うか、どう考えるかまでコントロールしようとは思わない。いや決してコントロールとまでいかずとも、そこはもうその人に委ねるべき部分だと信じている。「近くにいて説明しなよ」と促されたこともあったが、果たして僕の答えなど必要なのかと、というかもうすでに僕は(エッセイで)表現しているぞと、むしろ謎も含めて本人の答えを大切にしてほしいと、そんなことを考えていた。

すなわちあえていえば、興味がなかったのだろう。たしかに読んでもらえたり何かを感じ取ってもらえたりすることは嬉しいけれども、それがあろうがなかろうが、きっと僕は不変である。たとえば、誰かに影響を与えるほどのチカラもないだろう。好きだから自分と向き合い、好きだから言葉にする。あくまで僕の中にはそれ以上も以下もなくて、その先はもうどうでもいい。厳密には、どうにもならない。

それでもイベントの終わり際、ふと『オードリーのオールナイトニッポン』を思い出した。中学からの同級生2人で“しゃべり倒す”同ラジオは、まさにアートそのもの。彼らしか知らない高校時代や芸人の若手時代の話になることはしばしばだが、それなのに、いやそれだからこそ人気を博し、15周年を迎えた今年は東京ドームでのライブを成功させた。彼らはリスナーとのコミュニケーションの場を、そしてリスナーへの感謝を表現していたように思う。僕は彼らと肩を並べるつもりはないけれど、ある種ひとりの表現者として、そのあり方を参考にできるのではないかと感じた。ことばを通したリアルな場の可能性を、探ってみてもいいのかもしれない。

いつもいつもありがとうございます〜。