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生きづらさと対話。

近ごろ、対話について考えている。他人や社会との「コミュニケーション」というよりも、どちらかといえば自分自身と向き合う「内省」のイメージ。僕は今後そんな対話の場を増やすことで、この世に少しでも“自分の言葉”を生み出したいと思っている。内省の先にこそ、より良いコミュニケーションがあるのではないかと、そんな考え方もしっくりきている。

きのうは対話のオンラインイベントに参加してきた。すでに対話する場をつくっている人、これからつくろうと考えている人、対話という言葉に惹かれてきた人、シンプルに対話が好きな人。さまざまな人が、対話について語り合う場だった。

印象的だったのは、ひとりの大学生のお話。彼女は受験をきっかけに学習成績という自分以外の軸だけで評価される社会を目の当たりにして、違和感や疑問を抱きはじめたという。そんなある種の「生きづらさ」から、自分が本当はどうありたいのか対話を繰り返してきたようだった。今はデンマークの国民学校「フォルケホイスコーレ」のあり方に興味津々で、同国への留学も決まったそうだ。

生きづらさは当然良いものではないけれど、対話するきっかけになるのかもしれない。たしかに僕自身も高校時代の挫折から、自分や社会を、あるいはその関係性を考え、己のあり方を問うことができた。そしてそこで得た気づきは、今の自分をかたちづくってくれている。もしあの経験なしに学生時代が順風満帆だったら、少しゾッとしてしまう。それほど有意義なものだった。

ときに生きづらいことも、価値になってくれる。人は、生きづらさも何かのきっかけに変えていける。そう思えれば、苦しい時間を送る人を救える気がする。その瞬間の当人にとっては必ずしも良い時間でないと思うが、僕はそんな気概を持って誰かを見つめていたい。対話をもって、生きづらさに価値を持たせたい。

いつもいつもありがとうございます〜。