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対話への絶望、希望。

「やりがいってなんですかね笑」。ふと久しぶりに連絡した大学時代のバイト仲間と近況を報告しあったとき、返された言葉である。その前段として、僕は具体的な事業化に向けて「大変だけど毎日楽しい」と現状を共有していて、一方で彼女は6年目を迎えたという今の職場に、何の楽しみも見出せていないようだった。

基本的に僕は、別に他人の人生に対してどうこう言うつもりはない。それぞれの価値観や決断が尊重されるべきだと思っているし、何より僕自身が好きに生きてきた。けれどもなんだか、彼女の印象は虚しかった。自宅と職場を行き来して、ただ淡々と仕事をこなす日々。たとえば週末を待ち侘びていること、月曜日が憂鬱なこと。少なくとも、僕には耐えられない生活である。

何が足りないのだろうと考える。いや本当に余計なお世話ながら、あくまで僕の視点から、なぜ彼女は虚しく見えるのだろうと。すると、やはり「対話」なのではないかと思った。日常の中で「問い」を立てること。社会はどう動いているのか、自分と重なる部分はないのか、そこまでいかずとも日々の中で感じたちょっとした違和感でもいいのかもしれない。すなわち自分がどう生きたいのかが解釈できれば、目指すべき場所ややるべきことが見えてきて、それこそやりがいに繋がるのではないだろうか。

とはいえ、わかっている。そんないちいち問いを立てる人など、ごく少数派ということぐらい。厳密には、ここ1〜2年でわかってきたことだ。みんな忙しい。何を生み出すのかわからない、あるいは何も生み出さないかもしれない「問い」に、わざわざ自分から見向きはしない。だからこそ僕は問うてる人に惹かれるのかもしれないけれども、まあそれはそれとして。かつてのバイト仲間の彼女の姿を見て、対話への絶望と、ある意味での希望を覚えたのである。

いつもいつもありがとうございます〜。