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優しさと自分らしさ。

おもに「自分との対話」をテーマに学びを深めている近頃、自分自身の感覚や感情を表現することに苦手意識を抱いている人がいる、ということに気づかされている。それも決して少なくない割合だと、個人的には感じられている。

自分との対話、すなわち内省を通じて感覚や感情、価値観などと向き合うこと。僕自身を主語とするならば、べつに難しいことではない。このnoteを毎日書いていることもそのひとつだし、僕の根底には高校時代に自然習得していたアドラー心理学の考え方がある。自分は自分、他人は他人。それぞれの正義を生きていくのが何よりだと思っているし、基本的には他人を“どうでもいい”というか“どうにもならない”存在だと見なしている。よくもわるくも、である。

しかし、対話を苦手とする人は、どうやら自分の表現が他人にとっての悪影響を及ぼす可能性があると危惧しているようだ。あるいは感情や価値観を見せたとて、受け入れられなかったらどうしよう、などという不安もあるように思える。ただ、僕に言わせてしまえば、人間はそこまで影響し合える生きものなのかと思う。懐疑心を抱いてしまう。あえて尖った表現をすれば、自意識過剰である。

とはいえ、それは他人に対しての配慮であるとも考えられる。自分以外へ優しくあるために、自分自身が無理をする。そんな“オトナな”あり方を美徳とする世界も、たしかこの世のどこかにはあったような気がする。それこそその考え方に、僕は立ち入ることができない。それが正義なら、信じ切って生きてほしい。しかしながら、ときに優しさが自分らしさの弊害となるのなら、なんて世知辛いのだろうと感じてしまうのである。

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