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着ぐるみキャリア理論。

着ぐるみを着たことがあるだろうか。

特定のこのキャラクターの、と教えるつもりはさらさらないけれど、僕にはその経験がある。おもにイベントのなかで、仕事のひとつとして着用した。会場を歩けば子どもだけでなく大人も盛り上がり、決して小さくないやりがいは感じられる。しかし想像に難くないだろうが、とても暑く、それなりに重く、個人的にはむしろネガティブな印象が大きくなってきた。

言葉を選ばず示せば、さっさと脱ぎ捨てたい気持ちになる。視野は狭く、身動きも取りづらい。なんだか自分の身体ではないようで、はやく出番をまっとうして、バックヤードで“もとの自分”に戻りたい。気づけば僕は、どうしてもその一心になってしまう。

ふと、そんな社会人が多いのではないかと気がついた。

会社や社会のルールに則って、“もとの自分”ではないところで生きる。それこそが社会人であると、胸を張ってそう言い放つ人もいることだろう。たとえその時間が苦しくても、仕事という役割をまとい続け、そして終業や週末を迎えれば思う存分に羽を伸ばす。日曜日が終わろうとすれば、また次第に憂鬱な気持ちになっていく。

「働く」とは、まるで着ぐるみを着るようだと捉えてもふしぎではない気がする。一般には、そう喩えられる大人が多いだろう。基本的に彼らは“さっさと脱ぎ捨てたい”から、仕事や自分と向き合う余裕はない。そうなれば当然クリエイティブは欠落し、やりがいは枯渇する。

かくいう僕自身は今、限りなく“もとの自分”に近いかたちで生きている。心も身体も軽やかで、まったく休日が羨ましくない。平日が憂鬱ではない。今の仕事を選べたタイミングや、ふだん時間を共にする周りの人たちに感謝しながらも、どうすればこの世界から“着ぐるみ”を失くせるのだろうとも考える。もっともっと、“もとの自分”で生きられる社会であってほしいと願う。

たとえば自分や他人と向き合う対話、それぞれの違いを認める多様性、前例や環境に囚われない選択をできる柔軟性。考えだすとキリがなさそうだけれども、裏づける要素を探ってみたい気持ちがある。大人はもっと、のびのびナチュラルにあっていいのではないかと思っている。

いつもいつもありがとうございます〜。