見出し画像

自分の言葉を持つ人は。

何かを伝えるということは、何かを伝えないということでもある。すべての意味やターゲットを括り切ることは到底不可能で、そこを目指せば極めて抽象的な表現になるだろう。そんなぼんやりとした言葉が、誰かに“刺さる”わけがない。まあ別に、誰もが刺さる表現を目指しているわけではなかろうが、誰かに伝えるということは、ある程度の特徴を持たせ“尖らせる”必要があるのではないかと思う。

僕は、自分の言葉を持つ人が好きである。社会的な「正解」を使うわけではなく、どこかで誰かが言っていた「受け売りの言葉」を借りるでもなく、自分の経験や価値観から湧き出てきたものを表現するような人。それこそぼんやりとした言葉で、あえて言えば“逃げる”こともない。その人独自のまさしくオリジナルな言い回しを目の当たりにすると、そこに自分との違いを感じ、そして個性を感じるのだ。

勇気と覚悟があるのだと思った。自分の言葉を持つ人は、きっとどこかで伝えないことを決めてある程度の表現を諦めて、伝えたいことを尖らせていく。たとえ一方の人に伝わらなくとも、あるいはネガティブな感覚を宿すように感じられても、私はコレだと発信するのだ。僕は、その姿勢やあり方に惹かれていたのかもしれない。きょう参加した「対話」をテーマにした場で、そう気づくことができた。

しかし、そんな「勇気を必要とする場」とはいかがなものかと、即座に考えを改める自分もいる。意を決して自分を表現する、というような世界では果たして、生きやすさや心地よさを感じられるだろうか。つまり、僕が理想としたいのは、それぞれの人に湧き上がってくるものを自然とふっと外に出せるような環境。そこには、そもそも勇気という概念すらないのだ。

勇気という言葉にしっくりきたと思ったら、勇気ありきの世界を煩わしく思えたという、そんな良い意味で忙しなくて発見の多い時間を過ごせたわけである。

いつもいつもありがとうございます〜。