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思いやりがあってこそ。

結局のところ、対話には「思いやり」が必要なのだろう。相手を思いやる気持ち。それは「自分だったらどうだろう」と、ポンと自身を投影して、想像力を持って考えるということである。

「自分がされて嫌なことは、ほかの人にはしないこと」と、子どもの頃に誰かから教わった。当時でもなんとなく理解できる理屈だったけれども、今となっては言うまでもなく、決して自分ひとりで生きているわけではないから、生きられるわけがないから、社会で共に生きるため調和や対話が必要とされるわけだ。ひどく共感できる教えである。

根底にあるのはシンプルで、「自分だったらどう思うだろう」と置き換えて考えることではないかと思う。だからこそ人は、たとえば言葉の伝え方や、何気ない所作にも配慮する。もし自分ひとりの世界ならばそこに秩序など存在せず、すなわち配慮も必要ない。たとえ自分とちがう考えの人がいたとしても、少なくとも僕は「どうしてその思考に至ったのだろう」と、自分自身の比較を踏まえながら対話をしたい。今まさに、そうしながら生きているつもりだ。

いっとき論破という言葉が、世の中に出回った。論理を組み立てて、あるいは相手の揚げ足を取って「打ち負かす」という意味合いがつよく感じられる。テレビやネットで、エンターテイメントとしての側面を持ちながら映し出されたように見えるそれは、よくもわるくも視聴者の日常を侵食した。思いやりが感じられない議論は、「わからない」とあたかも“負ける”ことは、正しい世界なのだろうか。人として、望ましい姿なのだろうか。なんだか首を傾げる自分がいる。

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