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「言わないこと」の行方。

「言わないこと」という概念に興味がある。

人は誰しも、何かを感じて何かを思う生きものだとする。しかしながら、そのすべてを口に出しているわけではないだろう。当然ながら他人との協働の中で生きることを余儀なくされ、自分だけの感覚を示すわけにはいかない。まあ厳密には示すことが必ずしもわるいということでもなく、その先には世界や他人とすり合わせる「対話」が必要になる。

いわゆる配慮が必要とされる中で、人は自然と「言うこと」と「言わない(言えない)こと」に線を引いて生きている。ときに後者は我慢と言い換えられると思っていて、さまざまな要素が渦巻く社会を生き抜くためには、きっと備えておいて損はない感覚だろう。口を閉ざして自分と社会(他人)の折り合いをつけられる人をオトナと呼ぶような、そんな風潮も感じる。

しかし、僕は思うのだ。ではその「言わないこと」は、いったいどこへいくのだろうと。時折、配慮や我慢をする姿を感じ取り、評価してくれる人も見かける。しかしそんな人はごく僅かというか、そもそも言葉をなくして通じ合うことなど難しいことであり、もっといえばそこまで自分以外の誰かに興味のある人ばかりなのか疑問である。そして、ほんとうに自分と社会の折り合いをつけているかなど、確かめようがない。

僕の「言わないこと」は、たとえばこのnoteで文章になる。せっかく感じて考えたのだからと、持ち前の貧乏性が大きく影響しているのだろう。他人や社会にアピールするつもりはなくて、おもに自分との対話のため言葉にしているだけ。だからこそ、そうでないほかの人の「言わないこと」はどこへいくのだろうと、ふと気になったのだ。配慮や遠慮できる人の美しさが理解できないわけでもないけれど、それこそ僕はそこを我慢できず、こうして表現してしまう生き方なのである。

いつもいつもありがとうございます〜。