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「書く」から生まれた正義。

毎日、何かしらを書いている。

地域おこし協力隊としてのWebメディアの編集や、企画書の整理、また副業としての記事やコピーの制作、あるいはこのnoteのアカウント。変な話、ひょっとしたらライターだった前職よりも「書く」に携わる時間が長くなっているのかもしれない。そのバリエーションも豊富である。

これは決してわるい話ではない。僕自身、文字や文章を考えることに抵抗がないからだ。自分の特徴や個性を活かして生きているとも思える。そして何より「書く」を愛するものとして、日々鍛錬できているという愉しさもある。

ただ、そのおかげで生活の中にちょっとした弊害が見られるようにもなってきた。他人が選んだ文言のニュアンスがどうしても気になる、というときがあるのだ。この表現で正しいのかなあ、なんでこの言葉を選んだのかなあ、だなんて。別にその書き手を蔑むつもりは皆無なのだが、客観的および個人的な感覚と照らし合わせると、疑問符を浮かべてしまうことが少なくない。つい最近も「あなたは以前〇〇と言っていましたよね」と研修の題材にされたとき、その〇〇を飲み込みきれず「まあ…ちょっと違和感ありますけど、そんな感じですかね」と返してしまった。

結局言葉とは、ニュアンスである。何をどう見て、どのように感じて考えたのか。そういったニュアンスの表現のひとつとして言葉があると、少なくとも僕は思っている。そしてそれこそが、言葉の魅力であるとも思う。これからもなるたけ正直に、素直に、違和感の少ない表現を求めて、言葉と付き合っていたい。自分が好きな「書く」に取り組み続けていたい。

いつもいつもありがとうございます〜。