素と無。
たとえば「素の自分でいられる」と、飾らない力まない、いわゆるありのままの姿や感覚は、しばしば「素」と表現される。「もっと素を見せてほしい」だなんて、じつに厚かましい恋愛での言葉を聞いたこともあるけれど、ふと考えてみる。素とは何なのだろう。何をもって、人は素だと言えるのだろう。
かしこまりもへりくだりもしない、等身大の感覚。日常生活で喩えれば部屋着をまとってくつろいでいること、だろうか。好きなものを好きといい、苦手なものを苦手という。自分に正直な、忖度のない姿。素を思えば、そんなイメージが湧いてくる。
友人と話しながら考えていたところ、「無」ではないかと答えが出た。特に考えたり感じたりする必要もないほど、当たり前に時間を過ごせること。いわば「無」があることを、「素」と呼ぶのかもしれない。たしかに素を見せられる関係性を思い返せば、その相手とは無があったのではないだろうか。少なくとも僕にはそのようなイメージがあって、無でいられること、無がまかり通る環境を、素と呼ぶのだろう。
役職なのか、人間関係なのか、その背景にはさまざまな要素があると想像できる。その中で、自分自身でコントロールできる部分もなくはない。すなわち職場を、付き合う人を、生き方を選ぶこと。素であることが正義だと言い切るつもりはないけれど、個人的には大切にしておきたい感覚のひとつである。
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