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アートは余白があってこそ。

地域の知人が主催する個展を観に行った。地元の駅のギャラリースペースで、ひとことでいえば画展のようなものが行われていた。いわゆるマダムと呼んでも差し支えのない雰囲気をまとった女性が、シニア世代に差し掛かってからのめり込んだというPCを駆使したアート。ずらりと並んだ作品たちを眺めてみる。

在廊していたマダムは、僕を見つけると来場への感謝を言い、そして自身のアートを説明し始めた。「これはこのとき、こういうふうに思ってね…」「ちょうどタイミングよくあれがあったからね…」などと、それぞれに込められた独自のストーリーを事細かに話す。とても活き活きとした姿が印象的だった。

しかしながら、僕はその言葉を浴びながら違和感に駆られていた。たしかにアートとは、作り手の思いや考えが宿るものであり、間違いなく尊重されるべきである。ただ、そこからさらにアートを味わった人自身が「ぼくなら・わたしなら」と、派生するのが醍醐味というか、少なくとも僕はそう信じている。だからこそ、その“余白”を塗りつぶす活き活きとした彼女の主張に、首を傾げたのだ。

とはいえ、たとえば自分以外の誰にも見られなければ、何も伝わらないアートである。名曲は多くの人に聴かれるからこそ、名曲になりうるわけで、大切なのはそのバランス感覚。きっともうアートに限った話でもないけれども、自分や社会と対話をしながら、可能性を探っていたいと思う。

いつもいつもありがとうございます〜。