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問いがあるから今がある。

同い年の従姉妹が、第一子を出産した。連日、親戚のLINEはその話題で持ちきりというか、これまでたまに会話をしていた程度だったのにも関わらず、頻繁に新着通知を知らせるようになっている。僕の両親も、そして祖母も、新たな命の誕生に心を躍らせているようだ。明日には2つ先の県にまで車を走らせて、会いに行ってくるらしい。

子どもは疎か、結婚もしていない僕からしたら、まずひとつありがたい限りである。両親は「じーちゃんばーちゃん気分」を、祖母は「曾孫の存在」および「曽祖母としての自覚」を味わえるだろう。ただ、なんらかの“圧”を感じざるを得ない。以前それこそ祖母に「結婚する相手はいないの?」と訊かれたことがあって、「結婚してくれることがおばあちゃんの幸せだよ」とまで言っていた。両親は僕の性格を解っているだろうから口には出さないが、何か思う部分がないといったら嘘になるだろう。

とはいえ他人の、いやそれより近しい親族の幸せを結婚(や出産)でしか測れないような彼らを見ると、なんだか虚しい気持ちになる。もちろん彼らが生きてきた時代、何より僕がその子育ての恩恵を受けてきたこと、それらを否定できるほどの豪快さは自分にない。ただ、単純にそうでない人を受け入れてほしいだけなのかもしれないが、そこまで期待もしていない。

良い会社に入るだとか、若いうちに結婚して子どもを授かるだとか、いわゆる“一般的”に問いを持って生きてきた。自分は果たしてそれで幸せになれるのか、ほんとうに他の道はないのか。その問いを続けてきたからこそ、今こうして毎日楽しく、面白く生きられている。自分を信じることでしか自分を守れないけれども、自分さえ信じていればいいとポジティブに捉えたい。結局僕は僕の人生を、責任を持って全うするしかないのである。

いつもいつもありがとうございます〜。