【幻の映画】異色のアングラピンク映画「ユートピア・ベイビイ」(1968年,国映配給)について
謎のピンク映画
1965年から1973年まで刊行されたピンク映画の専門誌『成人映画』(現代工房・刊)を見ていたところ、同時期のピンク映画とはかなり毛色の違った『ユートピア・ベイビイ』(1968年公開、朝倉プロダクション製作、国映配給)という作品を見つけたので紹介したい。
60年代のピンク映画の殆どがそうであるように、同作のフィルムは、国立映画アーカイブには未所蔵。ソフト化、配信、近年上映された形跡も無い、幻の作品だ。
(※媒体によって「ユートピア・ベィビィ」「ユートピア・ベイビイ」「ユートピア・ベィビー」「ユートピア・ベイビ」「ユートピア・ベビー」と表記の揺れが見られるが、本記事では「ユートピア・ベイビイ」と表記する)
どのような映画だったか?
以上が『成人映画』に掲載された、『ユートピア・ベイビイ』(誌上では「ユートピア・ベィビー」)のストーリーと、BG(今で言うOL)・サラリーマン・学生、というテイでライターか編集者が書いたのであろう短評である。
現実に疲れた労働者の女性が、性に開放的なユートピアへ…というのは、この時代、小説や漫画などでは書かれただろうが、ピンク映画において、このような空想性の強いストーリーは珍しく、同じ号に紹介されている別作品のあらすじには、この様なSF的な要素は一切ない。
短評部分によると「ユートピアの女の人たちは体に極彩色の模様を書いて、毛皮のふんどしをはいて」「女の体に色を塗って、毛皮のフンドシもお色気よりも寒気だね。ユートピアのシーンだけがカラーだけど、これだけを映画にしたらこれあリッパなアングラ映画になったものを」とある。
そして、同ページの下部には、「アングラ映画」というワードが出てくるのも頷ける、以下のような場面写真が載っている。
同誌には、以上の1枚の写真しか掲載されていないが、インターネット上に別のスチール写真をアップしている方がいる。トップレスにサイケ風ボディペイント、毛皮のフンドシの組み合わせがなんとも奇妙だ。
『小説倶楽部』1968年5月号では、『成人映画』誌の場面写真や、スチール写真のものとは異なるパターンのボディペイントを塗り、毛皮のフンドシを纏った桂奈美のスチール写真とともに、以下のような紹介文が掲載されている。
「アングラピンク映画」「お色気より寒気」といったフレーズが出てくるあたりは『成人映画』誌と共通している。
公開当時のプレスシートには、これらの雑誌での紹介よりも詳細なあらすじ・解説が掲載されている。
本作のプレスシートは、片面がポスタービジュアル、もう片面が以後引用していく文章を中心としたプレスシート面となっている。いずれも当時のアングラカルチャーの影響を感じるデザインだ。
このあらすじからすると、空想上のユートピアの存在を通して、現代社会を風刺するという、ユートピアものの王道をゆく作品だったのではないだろうか。
「道路といわず 屋根といわず あたりかまわず 見知らぬ新聞が降っていたからだ」「全国の海岸にユートピアTVが漂着」といったところは、文章で読むと魅力的なイメージに思えるが、どのように映像化されていたのだろう。
さて、この異色のピンク映画は誰が、どのようにつくったのだろうか?
上記の解説にもあるように監督の小山甫はグラフィックデザイナーである。プレスシートの凝ったデザインも監督本人が手掛けたのだろうか。
後で紹介する小山自身による文には「今度、若い仲間ばかりで(映画には全くのド素人が)映画を造ることになった。」とあり、映画業界外のスタッフを中心として作られたことがわかる。
ロケーションは西日本が中心で、関西の人気落語家の起用も書かれている。あらすじにも「結婚して……それでないと困るねん………」という関西弁のセリフの引用らしきものがあるが、キャスティングも関西の役者を中心として行われていた。スタッフ・キャストについては後の節で記す。
プレスシートには「あらすじ」「解説」の他に、作品の魅力を伝える、以下のような文章が掲載されている。
あらすじにあった「ユートピアでは 生まれたての嬰児を母親の意思で捨てることすら自由であるという」という一節や、上記の文章の「ユートピアを夢みる赤ん坊(ユートピア・ベイビイ)」といったところが題名の由来なのだろう。
また、「タイトルバックにカラーのマンガ」とあるが、映画の一部にアニメーションが用いられていたのか、それともただの静止画だろうか。
プレスシートには、それらしき絵と、場面写真のコラージュがデザインに取り入れられている。
本作の監督の小山甫と助監督・美術の松本隆治は、後にアニメーション製作に関与した記録が残っている。
また、本作を配給した国映の関連会社には『戦え!オスパー』などのTVアニメーションを制作した日本放送映画がある。(コノシート編・著『幻のアニメ製作会社 日本放送映画の世界』さんぽプロ・刊より)
ここまでみてきた、空想・SF的なストーリー、アングラ風のビジュアル、異業種監督の起用、西日本の複数の県にまたがるロケーション、ピンク映画としては長めの1時間30分という上映時間、アニメーションの使用?、プレスシートの解説には「型破り」「新しい」といったワード見られる本作は、当時のピンク映画の中でもかなりの意欲作だったのではないだろうか。
本作の公開に先立つ『週刊サンケイ』1968年2月19日号に掲載された、『黒い雪』の無罪判決をきっかけに性表現がエスカレートしていくピンク映画を伝える記事では、国映の宣伝部が取材に対し以下のように答えており、興行的な事情から意欲作がマレになりピンク度を強めていく当時の現状がうかがえる。
本作はまさにこうした状況に逆らう意欲作であったということは、次章に記す、ある事実からもわかる。
作品の情報
基本情報
ここからは作品情報について記していきたい。
日本映画データベース(JMDB)には、「ユートピアベィビィ」として本作のページも存在するが、殆ど情報が載っていない。
『キネマ旬報増刊 1973年11・20号 日本映画作品全集』には、「ユートピア・ベイビイ/朝倉プロ68/小山甫/原木優子/-」との記載がある。厚木ではなく原木なのは原文ママ。
『日本劇映画作品目録 : 昭和20-45年 昭和43年 (映連資料)』では「その他(2)」の章に、本作品のデータが掲載されている。
$$
\begin{array}{|l|l|}
\hline
\text{題名} & \text{ユートピア・ベイビイ} \\
\hline
\text{封切日及び配給会社} & 43.3. 国映 \\
\hline
\text{種別} & \text{現代} \\
\hline
\text{巻・米} & 2329 \\
\hline
\text{型式 色別} & \text{部分色 W} \\
\hline
\text{監督} & (\text{監})\text{朝倉大介} \\
\hline
\text{映倫番号} & 15236 \\
\hline
\text{審査終了日} & 43\text{年3月19日} \\
\hline
\end{array}
$$
題名、配給会社については記載の通り。
巻数に関してこちらの資料には書かれていないが、先に引用したプレスシートには8巻とある。
本作の前後のページに掲載されている映画の長さが1700~2000くらいで収まっているあたり、当時のピンク映画としては長めの作品だったことがわかる。
「部分色 W」とあるのは、前節の引用中にある「ユートピアのシーンだけがカラー」「ユートピアTV番組として展開される劇中のカラー12シーン」といった文章と一致する。「W」はワイドスクリーンのことだろう。
本作は当時のピンク映画で多用されていた、パート・カラー方式(一部のシーンで白黒からカラーに切り替わる手法。ピンク映画では濡れ場のシーンを中心に用いられた。)で制作されたのだろう。
プレスシートには「ユートピアカラー」というマークがついている。
当時はピンク映画配給各社が、パートカラーに自社の独自名称をつけるのが流行っていたそうで(二階堂卓也・著「ピンク映画史 欲望のむきだし」p96、彩流社)、本作に関しては作品独自の名称をつけたというところか。
監督が朝倉大介となっているのは間違いで、朝倉の担当は企画である。
同じページには若松孝二「犯された白衣」の監督が若松孝二ではなく、足立正生ということになっている間違いもある。
封切り日、審査終了日に関しては「成人映画」誌への掲載時期からしても昭和43年(1968年)3月ごろであっているのだろう。
本作の映倫審査とその結果については、「週刊現代」1968年3月7日号の芸能ページに興味深い記事が載っている。
なんと、「成人映画」誌に掲載された本作、映倫の審査で成人指定にならなかったというのだ。
1989年に刊行された『映倫審査・作品リスト:映倫番号順』(映倫管理委員会)には、本作と同じ見開きに載っている成人映画系の製作会社の作品は軒並「成人指定」をしめすマーク(◯の中に"成")がついているが、本作にはそれがない。(ただ、「審査月日」は「43.2.9」となっており、『日本劇映画作品目録 : 昭和20-45年 昭和43年 (映連資料)』の「審査終了日」とは異なる日付が載っている)。
『映倫管理委員会映画選定一覧 (昭和43年1月〜昭和46年12月)』には成人指定を受けた映画が、指定理由とともに掲載されているが、本作の名前は見当たらない。
また、本作プレスシートのポスター面には、同時代の成人映画ポスターにある、<成人映画>といったような表記はないし、プレスシート面にもそのような記載はない。
ピンク映画であるにも関わらず、成人指定を貰えなかったということは他にもあったようで、本作公開と同時期にピンク映画を多数監督していた西原儀一は、鈴木義昭によるインタビューで(成人指定を貰わないと劇場に売れないので、映倫に)「「成人指定にしてくれ」と言って、頼んだのが十本くらいあるんじゃないですか。」と証言している(鈴木義昭・著『昭和桃色映画館: まぼろしの女優、伝説の性豪、闇の中の活動屋たち』社会評論社・刊)。
興行主からの要望や、次節で記す『黒い雪』の無罪判決の影響によって、ピンク映画が徐々にピンク度を高めていくなか発表された「アングラ的な意欲作」は、成人指定を受けなかったということによって、自らの意欲作ぶりを証明したのかもしれない…。
さて、成人指定を受けなかったとなると、「独立系製作会社による、成人指定の劇映画」という、ピンク映画の最も一般的であろう定義からは外れてしまうわけで、ここまでの文中のようにピンク映画として扱っていいのかがわからなくなってしまう。
とはいえ、国映の配給であり、実際には成人映画向けの映画館で上映されたはずである。
次に、一件だけ見つかった本作の上映情報について記す。
本作の上映について
記事冒頭に引用した『成人映画』No. 27に続くNo.28には、「ミニミニ・ニュース」の一つとして以下が載っている
本作の同時上映は、1965年(昭和40年)6月の公開後、刑法175条で摘発された『黒い雪』だった。
『ユートピア・ベイビイ』の紹介記事が掲載されたNo.27の裏表紙には、「一審無罪判決!!武智鉄二の問題作!!」というキャッチコピーで『黒い雪』の広告が掲載されている。
片や国家に猥褻ではないとお墨付きをいただいた成人映画、片や『黒い雪』無罪判決によりピンク映画の表現がエスカレートしていくなか成人指定を受け損なったピンク映画、という2本立てである。
普段は60分の作品を3本立てで上映しているところに、この2本立てが入り込んだか。『ユートピア・ベイビイ』は通常のピンク映画より長めの上映時間(90分)だが、89分の『黒い雪』とのカップリングを意識して製作されたのだろうか?
このプログラム、「大阪地区で」「連日平均千名以上の観客を動員」とあるから、大阪ではかなりの人が見たと思われる。
しかし、本記事のための調査では、ここまでに紹介した以外の『ユートピア・ベイビイ』に関係する記事を見つけることは出来なかった
このニュースは、あくまで『黒い雪』が「一足おさきに大阪地区」で公開されたときのものであり、その他の地区では両作ともに別作品と併映されていた可能性も考えられる。
西原儀一の証言からすると、成人指定を貰えなかったという点が上映機会の少なさに影響していたということもありえるだろう。
首都圏では、そもそも一般公開されることはなく、マスコミ向けの試写で見た人が記事にしたのみだったのかもしれない。
本作がスタッフ・キャスト・ロケ地と関西・大阪色の強い作品であることも、そう推測したくなる理由の一つである。
スタッフについて
次にスタッフについて、プレスシートをもとに見ていく。
製作の矢元照雄は本作の配給会社で、ピンク映画ではおなじみの国映の創業者。
企画の朝倉大介は、本作の朝倉プロダクションの代表矢元一行
の別名義から、菜穂俊一(山下治)・佐藤啓子とのグループ名義となった名前(『ピンク映画史 欲望のむきだし』p48)。
『映画芸術』No.392(2000年秋号)掲載の佐藤啓子のインタビュー記事「私が朝倉大介です」では、「梅ちゃん(※梅元薫)のをやった六三年から、私を含めて三人のプロデューサーがいて、誰がやるんでも朝倉大介にしたの」と証言している。(インタビュー引用部より前の部分によると、六五年に梅元薫が監督デビューしたときに、佐藤啓子もプロデューサーデビューしたとのことなので、六三年ではなく六五年と思われる。)
本作が、どの朝倉大介プロデュースによる企画だったのかは定かではないが、先のインタビューには「矢元一行と菜穂俊一と私の三人でやってたんだけど、菜穂ちゃんが独立してワールド映画を作って。」とあるので、1966年からワールド映画作品の監督をしている菜穂ではないと思われる。
朝倉プロダクションについては『成人映画』No.28に「ミニミニ・ニュース」の一つとして、以下が載っている
すでに朝倉プロダクション作品『ユートピア・ベイビイ』が発表された後に、朝倉プロダクション設立のニュースが出るというのはおかしい。単なる屋号だったものを、きちんと会社にしたということだろうか。
また、矢元一行に関しては、『潮』1970年4月号の「ネオピンク映画の旗手」にでは、国映の専務取締役 兼 朝倉プロダクション代表と紹介されているため、「国映を離れて一本立ち」というのも厳密には正しくないだろう(独立してすぐ戻った可能性もあるが)。
プレスシート情報ではグラフィックデザイナーであり、本作の監督・脚本を務めた小山甫と、助監督・美術を務めた松本隆治については、別に節を設けて詳しく紹介する。
撮影の鈴木次郎と同名の撮影監督は見つからなかったが、ピンク映画黎明期から多数の作品を担当した、鈴木史朗・鈴木史郎の別名と思われる。撮影助手の東原三郎、照明の近藤兼太郎は本作の制作年代以降も多数の作品に携わっている同名人物だろう。
本作と同年に公開された映画『記録なき青春』には照明の近藤とともに本作の照明助手安西光男が照明助手としてクレジットされている。この作品で撮影を担当しているのが鈴木史郎。
音楽を担当したのは猪俣猛とウエストライナーズと中井モモ子。
猪俣猛は著名なジャズドラマー。猪俣猛とウエストライナーズ名義では、67年に発表されたアルバムが近年復刻されている。
本作公開時の知名度がどの程度だったかは定かではないが、プレスシートには「ドラム第一人者猪俣猛とウエストライナーズによるユニークな音楽」とあり、作品の売りの一つだったのだろう。
本作のサウンドトラックが発売される日は来るのだろうか。
中井モモ子は、情報が見つからなかった。プレスシートには「浄るりの音」とあるので、三味線奏者かもしれない。
効果を担当した福島効果グループは若松プロダクション作品に頻繁にクレジットされていたグループ。Wikipediaによると「福島音響」の別名義(出典不明)
製作主任の松崎光雄は若松プロ、国映作品に同じ役職でクレジットされている人物あり。
編集の中島照雄は、ピンク映画や若松孝二の一般映画作品、アニメーション作品『(秘)劇画 浮世絵千一夜』を手掛けた人物だろう。
録音の日本録音センターはピンク映画のほかTVドラマにもクレジットされていた録音スタジオのようだ。
現像所の東映化学に関しては説明は省く。
スチールの原田利男、進行の梅園清子、記録の佐藤恵子に関しては情報を見つけることが出来なかった。佐藤恵子に関しては、佐藤啓子の別名義かもしれない。
キャストについて
続いてはキャストについて、同じくプレスシートをもとに見ていく。
まずは主演の厚木優子。
プレスシートには彼女の顔写真に「●大阪生まれ●B92●W60●H89」というプロフィールと以下の文章が添えられている。
本作の公開2ヶ月前に『週刊アサヒ芸能』昭和43年1月7日号のグラビアページ「`68フレッシュ・グラマー」に登場している。当時の新人女優・モデルの写真とともに、各界の人物による「推薦のことば」が掲載されており、彼女の推薦文は本作監督の小山甫が担当している。
ここまで引用してきた文章と上記を併せると、同名の役を演じていたと思われる。「全国から主役の優子を募集」とあるので、「厚木優子」の芸名は役名が由来か。
彼女は「関西のファッションモデル」「写真モデルが本業」だそうだが、本作の翌年に公開された朝倉プロダクション作品『ブルーフィルムの女』で主演した橋本実紀も、公開時のプレスシート(ブログ「ピンクサイドを歩け」レビュー内に画像が掲載)によると「大阪のファッションモデル」である。
当時のピンク女優の発掘ルートとして、関西方面のファッションモデルが存在していたのだろうか?
高橋芙美子は『タレント名鑑 第1(1963年版) 改訂版』によると、「大正四年四月一日生」「身長 一五七センチ」、現住所として大阪市住吉区の住所が掲載されている。
『成人映画』誌の紹介文には「家に帰れば母親が町内会の旅行の小遣いをせびるし」と、プレスシートのあらすじには出てこない優子の母親が登場する。公開時の年齢からいってこの役か。
福田善晴は優子の恋人の憲役だろう。
「WEBザテレビジョン」に「誕生日 1943年6月30日」「出身地 大阪府」の同名人物が見つかるほか、2010年代まで所属していたと思われる「10ANTS」という大阪の芸能事務所のサイトのWebArchiveから近年のプロフィールのPDFを見つけることが出来た。
プレスシートのビジュアルと見比べた感じでは同一人物だと思う。
本作の翌年からは朝日放送のドラマ『部長刑事』など多数の作品に出演しており、ピンク映画関係では、2007年に朝倉大介(佐藤啓子)・企画、いまおかしんじ監督作品『たそがれ』にも出演しているようだ。
ここまで紹介した3人はプレスシートのポスター面に名前が載っており、本作のメインキャストといっていいだろう。
3人とも大阪に関係のある人物で、福田に関しては本作の数十年後にピンク映画に出演しているものの、本作がデビューとなる厚木、ピンク映画出演歴は見つからない高橋、と、東京中心で制作されていたピンク映画とは縁がなかったであろうキャスティングとなっている。
次節に記すが、監督の小山甫と助監督の松本隆治も本作以前に大阪で仕事を
していたと思われる形跡があり、福田もそれに関わっていた可能性がある。
こうしたメインキャスト、メインスタッフによって作られた本作は大阪発のピンク映画であるのかもしれない。『黒い雪』が「一足おさきに大阪地区」で上映されたときの併映作となったのも、こうしたバックグラウンドがあったからか。
ナレーション、アナウンサーとしてクレジットされている2人も、大阪のマスコミに関係する人物である。ナレーションの笑福亭仁鶴は本作のキャストの中では最も有名だろう。当時すでに関西では人気があったと思われる。
朝日放送アナウンサーの肩書きの乾浩明は、単に朝日放送の番組でアナウンサーを務めていたというだけではなく、正真正銘の社員アナウンサーだったことが、本作の前後に刊行された岩崎放送出版社発行の『民間放送全職員人名簿』で朝日放送のアナウンス部の一人として記載されていることからわかる。局アナが出演したピンク映画というのは、珍しいだろう。
「大阪地区で」「連日平均千名以上の観客を動員」することが出来たのも『黒い雪』の話題性だけでなく、本作が2人のような在阪マスコミ関係の人物の出演作であることも影響しているかもしれない。
松井康子、桂奈美、渚マリ、瞳亜矢子は当時ピンク映画に多数出演していた女優。松井・桂・瞳はユートピア人役だったことが、ここまで紹介した資料からもわかる。渚マリもそうだったのだろうか。
『成人映画』No.36(昭和44年1月1日発行)掲載の「ピンク女優と16人の脱がせ屋たち 全調査=1969」は、当時の代表的な女優30人と監督16人のプロフィール集となっており、この4人のプロフィールも掲載されている。
ちなみに瞳亜矢子はマリファナ密売の容疑で書類送検(『週刊サンケイ』1969年12月1日号)、渚マリは1972年にガス自殺未遂の報道(『週刊サンケイ』1972年4月7日号)が出た後、5月30日に今度は彼氏のアパートで、再度自殺を試み、本当に亡くなってしまっている(『成人映画』No.77・1972年6月)。松井康子に至っては2012年にもなってM資金詐欺の容疑で逮捕されており、現在から見るとなかなかスキャンダラスな面子である。
だからといって、本作が幻の作品と化していることとは全く関係ないだろうが…。
『映画論叢 42』(国書刊行会)掲載の「独立成人映画再考⑪ 女優落穂拾い・続」(東舎利樹)によれば福田が後に出演した『部長刑事』から今沢昭信・塚田兼久、後に大阪ナレーター界の大御所となる藤崎照彦など、プレスシートに記載のない役者も本作に出演しているらしい。
小山甫と松本隆治について
監督・脚本の小山甫は、プレスシートによるとグラフィックデザイナーであり、そちらの方面での資料も見つけることが出来た。
大阪商工会議所が発行した『大阪経済年鑑』の昭和42年、43年版には「(株)ブロックバスター」という会社が「代表 小山甫」、住所が「北区小幡町32小幡町ビル小山デザイン事務所内」で掲載されている。
久保田宣伝研究所が1971年に発行した『広告大辞典』では「アドベンチャーズ」という「豊中市本町3の201」の会社の代表者が「小山甫」となっている。
実際にグラフィックデザイナーとして活動していた形跡に関しては印刷時報社の『カレンダーの研究』に「熊野交通大阪」のカレンダーのディレクト・デザイン担当としてクレジットされているほか、
『宣伝会議』誌の1967年1月号には、前年11月1日に発表された、第34回毎日商業デザイン賞の第一部(A部門)の入選作品として「のれん食堂街・阪神」のポスターの図版が掲載されており、クレジットは「 AD 小山 甫 D 松本隆治 C 福田 憲」となっている。(ADはアートディレクター、Dはデザイナー、Cはコピーライターか。)
ここで小山と、『ユートピア・ベイビイ』で助監督・美術を担当する松本隆治の名前が一緒に登場する。
コピーライターの福田憲という名前は、憲役を演じたであろう福田善晴を思わせる。
厚木優子が同名の役を演じたであろうことを考えると、福田憲=福田善晴もありえる話だ。
小山に話を戻すと、JMDBには本作以外の記載はなく、その他の商業映画を監督している形跡は見つからなかった。
しかし、本作の6年後に刊行された『映画評論』誌の1974年2月号にアニメーション制作者として小山の名前が登場する。
同号「ゴシップサウンド」コーナーの「アニメーション」のページでは「USAインターナショナル・フィルム・フェスティバル作品の、Bプロを東京で、Aプロを名古屋でみた。」という書き出しに続き、国内外のアニメーション作品について触れている。
記事の末尾には (卓也) と署名があり、同誌の年間ベスト企画にも投票しているアニメーション研究家の森卓也によるものだろう。
赤子を絡めた、日本社会への風刺要素には『ユートピア・ベイビイ』と通ずるものを感じる。
数カ月後、この『MADE IN JAPAN』という作品を、小山の単独作品ではなく、松本隆治・木下蓮三との共同制作として、紹介している記事がある。
『朝日ジャーナル』1974年6月14日号の連載記事「解体列島(13)奇妙な二つの顔」は、外国の日本人イメージを論ずる木村恒久の文章とともに、以下の『MADE IN JAPAN』の場面写真とキャプションが掲載されている。
そして、この作品、現在では専ら木下蓮三の監督作品として知られているようで、Youtubeでも作品の一部を鑑賞することができる。
以下のように、本作のクレジットが掲載されているサイトもあるが、いずれも小山・松本の名前の記載はない。まさか本作の脚本を務めた喰始(たべはじめ)=小山甫(こやまはじめ?)、なんてことは無いだろう。
小山の作品として『映画評論』1974年2月号に→
小山・松本・木下の作品として『朝日ジャーナル』1974年6月14日号に→
木下の作品として知られる現在、
という変遷があり、こうなると小山・松本が本当に関わっていたのか、わからなくなってくる。作品のフルバージョンにはクレジットされているのだろうか?
木下蓮三は、大阪府の出身で「昭和33年一光社、のち大阪コマーシャルフィルム、毎日放送映画社を経て、38年プッペプロダクションを設立」という、大阪の広告業界と関係があったであろう経歴の持主だから、小山・松本とはこれ以前に一緒に仕事をしていてもおかしくはないだろう。
松本・木下の関係については、『シネ・フロント』NO.188(1992年6月号)のインタビュー記事「加藤盟監督「ぞう列車がやってきた」の演出を語る」に、以下の証言がある。
「オープニング・タイトルは、昔、僕がCMをやっていたころからの親友で、グラフィックデザイナーの松本隆治という人がやってくれました。僕が作る映画のタイトルはだいたい彼がデザインしてくれるんです。(中略)そのほか木下蓮三さんが助けてくれたりとか、こんどはたいへん恵まれていました。」
『ぞう列車がやってきた』は1992年公開のアニメーション映画で、今作に松本・木下の両名が関わっているようである。
その松本隆治については、グラフィックデザイナーやアートディレクターとしては、小山よりも多くの資料を発見することが出来た。
六曜社発行の『日本アド・プロダクション年鑑』では、現時点で国会図書館デジタルコレクションで確認できるもののうち、1979年から1986年まで、松本が代表を務める「(株)Mr.88」(あるいは「ミスター八八」)が掲載されている。住所は東京都の青山である。
松本の仕事に関しては、「武蔵野美術大学 美術館・図書館 美術資料データベース」に複数の所蔵作品が確認できる。
その他には80年代の『ブレーン』誌に、ダイハツ工業の「ダイハツアトレーターボ〈サハラ〉30秒」「ダイハツミラヴィヴィアンホワイト〈冬の白〉30秒」や、全労済の「こくみん共済〈歌手〉30秒」といったコマーシャルフィルムの企画・コピー担当として名前が出ているのを確認できた。
また、80年代の『印刷時報』誌には、「全国カレンダー展」の受賞作品として宮城まり子の「ねむの木学園」のカレンダーが複数回登場する。
本記事の執筆時点で「ねむの木村」のサイトには「社会福祉法人ねむの木福祉会」の評議員として、「評議員 松本 隆治 グラフィックデザイナー」の記載が確認できる
また、2015年にYouTubeチャンネル「放送局ウツワ」の動画に出演していることも確認できた。
おわりに
今回は『成人映画』誌でたまたま見つけた、あらすじとビジュアルが興味を惹く作品『ユートピア・ベイビイ』について、調査してみた。
すると、作品内容といい、スタッフ、キャストといい、映倫審査の件といい、想像以上に興味深い結果が得られた。
公開当時、(揶揄も入っているだろうが)「アングラ」と形容されたピンク映画である本作。
ピンク映画とアングラ文化というと、若松孝二と若松プロの作品が思い浮かぶ。当時の若松プロの作品に関しては、伝説的な「アンダーグラウンド蝎座」でも上映されるなどして、当時の若者に支持を受けた一方、先鋭化した作風は成人映画の専門館の本来のお客さんには不評だったという話もある。
当時の若松プロの作品は現在でもかなりの数の作品が残り、ソフト化・配信され、特集上映も度々行われる一方、『ユートピア・ベイビイ』については影も形もなく、異業種出身の監督もろとも、映画史から忘れさられたものとなっている。
『幻のアニメ製作会社 日本放送映画の世界』収録のインタビューにおいて、現在の国映の代表取締役・矢元一臣(創業者・矢元照雄の孫、朝倉プロの矢元一行のおい)は、国映の旧作のフィルムの現存についての質問に、以下のように回答している。
大阪あたりの倉庫にでも、ジャンクを免れた『ユートピア・ベイビイ』のフィルムが眠っていることを祈りつつ、本記事を終えたい。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
参考資料
記事中、特に記さなかった国会図書館デジタルコレクションの資料について以下に記す(日付がバラバラなのはご容赦を)。
基本情報
『日本劇映画作品目録 : 昭和20-45年』昭和43年,日本映画製作者連盟,1969. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2526662 (参照 2024-05-26)
キャスト
日本タレントクラブ 編『タレント名鑑』第1(1963年版),芸能春秋社,1963. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2503150 (参照 2024-05-26)
日本民間放送連盟 編『民間放送全職員人名簿』昭和42年度版,岩崎放送出版社,1967. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2515083 (参照 2024-05-26)
日本民間放送連盟 編『民間放送全職員人名簿』昭和45年度版,岩崎放送出版社,1970. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2525982 (参照 2024-05-26)
スタッフ
『大阪経済年鑑』昭和42年版,大阪商工会議所,1966. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3049187 (参照 2024-05-23)
『大阪経済年鑑』昭和43年版,大阪商工会議所,1967. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3026708 (参照 2024-05-23)
『カレンダーの研究』1966,印刷時報社,[ ]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1873004 (参照 2024-05-23)
『宣伝会議 : marketing & creativity』14(1)(153),宣伝会議,1967-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2759581 (参照 2024-05-26)
久保田宣伝研究所 編『広告大辞典』,久保田宣伝研究所,宣伝会議事業社,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11915117 (参照 2024-05-26)
パッケージング社 編『パッケージング年鑑』1974,パッケージング社,1974.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12000741 (参照 2024-05-23)
日本アド・プロダクション年鑑編集部 編『日本アド・プロダクション年鑑』1979,六耀社,1979.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12025913 (参照 2024-05-23)
『日本アド・プロダクション年鑑』1980,六耀社,1980.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12021473 (参照 2024-05-23)
『日本アド・プロダクション年鑑』1981,六耀社,1981.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12020142 (参照 2024-05-23)
『日本アド・プロダクション年鑑』1982,六耀社,1982.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12020330 (参照 2024-05-23)
『日本アド・プロダクション年鑑』1983/1984,六耀社,1983.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12020556 (参照 2024-05-26)
『日本アド・プロダクション年鑑』1985,六耀社,1984.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12023527 (参照 2024-05-23)
印刷時報社 [編]『月刊印刷時報』(453),印刷時報社,1982-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434916 (参照 2024-05-23)
印刷時報社 [編]『月刊印刷時報』(499),印刷時報社,1986-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434962 (参照 2024-05-23)
印刷時報社 [編]『月刊印刷時報』(523),印刷時報社,1988-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434986 (参照 2024-05-23)
おまけ
朝倉プロダクションと『太陽をかえせ』について
本文で引用した、『成人映画』 No.28(昭和43年4月15日発行)「ミニミニ・ニュース」の朝倉プロ設立のニュース中には、先に引用したように「目下独立第一作として山下治監督、瞳亜矢子、野上正義主演で別項の「太陽をかえせ」を製作中」とあり、同じ見開きには「ベッド・シーンもサイケ調で!」の見出しで『太陽をかえせ』のサイケ調な撮影手法などが紹介されている。
しかし『太陽をかえせ』という作品が公開された形跡はない。
No.28に続いて刊行された『成人映画』別冊成人映画セクシー秘ポーズ集(No.29)の裏表紙は、主演・監督が同じで、製作・朝倉プロ、配給・国映の作品『情事残酷史』の広告となっており、おそらくこれが『太陽をかえせ』の公開題であったと思われる。
広告では、国映のオールカラー作品第二弾であることが謳われている。
第一弾はハミングバードでVHS化もされた、同じく山下治監督の「新・情事の履歴書」。
今となっては自身の監督作よりも、小平義雄モデルの人物を演じた主演作『続日本暴行暗黒史 暴虐魔』(若松孝二監督、若松プロダクション製作)のほうが有名で視聴難易度が低い山下治ではあるが、国映のオールカラー作品を2回続けて任せられているあたり、当時監督としては高い信頼を得ていたのだろう。
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