「読みやすくする方法」が「読みにくい」という批判がなぜ、くだらないか?という話

https://www.clear-code.com/blog/2021/9/22/readable-code-workshop-202tmu.html

最近このような記事を読み、この内容の話ではないのだが、このブックマークに、

https://b.hatena.ne.jp/entry/4708720641114181506/comment/dreamzico

このような批判がついた。

この記事自体がリーダブルではない。まず長い。長すぎる。A4用紙一枚にまとめたレジュメにしないと、多くの人は読まない。クソコードを書く人にこそ読む気にさせないと。言語文章もコードなのでリーダブルにすべき。

これ、ほんとにくだらない批判だと思う。そのことについて話しておく。

1.文章がリーダブルであることと、コードがリーダブルであることは違う。

「言語文章もコードなのでリーダブルにすべき」とあるが、これは暴論だ。そもそも、「自然言語」の文章と、「プログラミング言語」のコードは明らかに異なる。

これは「AとBは同じCなのだから、BをDにできるなら、AもDにできるはず」みたいな暴論だ。(A=コード、B=文章、C=言語、D=リーダブルと落しこめば、「コードと文章は同じ言語なのだから、コードをリーダブルにできるなら、文章もリーダブルにできるはず」となる)。これにA=3、B=4、C=数字、D=2で割りきれる、とか適当なものあてはめれば、すぐにおかしい構造であることがわかるだろう。

だから、この時点で、「リーダブルコードについての文章が読みやすくあるべき」というは、乱暴な議論であると。

ただ、ここでは、細かい指摘だ。僕がこの記事でかきたい内容は以下のことである。

2.「読みやすい文章を書くための方法」の説明した文章が「読みやすく」ある必要がまったくない

この批判はいろんな類型がある。たとえば、「美しくある方法」を書いた人が実際には美しくないことだとか、「ユーザ体験を良くする」学びが、実際には良くない体験の学びであるような。つまりこれはQ=「Pにするやり方、方法、法則、手法」だとすると、QはPではない、というような形式だ。

もちろん、そうであることが理想ではあるように思う。実際には文章は読みやすいほうが良いし、人は美しくあるべきだし、学びは良い体験であったほうが良い。しかし、そうではないからといって急にその論が間違っているわけではないのだ。

だから、「Pにするやり方、方法、法則、手法」が、実際にPではないからといって、それが途端に説得性がなくなるわけではない,というのは、「Pにするやり方、方法、法則、手法」の真偽性と、実際にQがPである真偽性とは無関係だからだ。「QがPである」ことが偽であるからといって、Q自体が偽であることは明らかに異なる。 一見矛盾しているように見えるかもしれないのだが、矛盾してないのだ。

「なぜQがPではないか?」というのは、Qが真偽とは別のところではあるからというのが多いだろう。そもそもそれを書いた人自体が異なる目的のために書いたのかもしれない。たとえば「読みやすい方法」を書くために、「読 やすくあるべき」というより「より正しくあるべき」という評価軸があるのかもしれない。また、もしくは、時間的制約によって「読みやすくある」という工程、コストが支払えなかったのかもしれない。

また、Q自体がPであることが不可能なパターンがあるかもしれない。というかそういうことがもしかしたら多いのかもしれない。「読みやすくする方法」の文章自体が、読みやすくなることが不可能になる自体がありえるかもしれない。「Pにする方法」というのは、ある意味、「AからPにする方法」読み替えよう。とすると、Qの型とAという型が合わない可能性があるのだ。

「Pにする方法」というのは、ある意味、世界の秩序や法則を記述するものであり、それ故それらを獲得するには、不断の努力が必要である。、つまりそれらをまとめるのは、不断の努力の結晶であるかもしれない。それらの努力をさらに、理想形にして伝えるのは、かなり難しいし、大変な労力を伴うのは想像に難しくないだろう。

3.その批判は建設的ではない。

そもそもそれらはただの揚げ足取りであって、元の議論を無下にするものだ。その批判したとこで一体何になるだろう?何を生み出すのか?

なにも生み出さない。くだらない批判だ。非生産的で、非建設的だ。

世の中の法則や秩序や真理、現実を見つけて、それを形式知にしていく。それらは、積み重ねが必要だったり、観察が必要だったり、実験が必要だったり、考察が必要だったりするだろう。そのようなことに関して、一定以上リスペクトを送った上で批判するべきだ。

それらを、なにもその人の意見を汲み取る努力をしてない奴のただのひとりよがり「読みにくい」というの意見で台無しにするのは、まったくもってクソだ。非常に不快だ。不愉快だ。

内容を読まない人間に建設的な議論はできない。内容に基づいて批判でなければ、次につながる生産的な議論はできない。だから、そもそも内容に結びつかない批判はするべきではない。

また、このような批判は、結局、議論が可能だったはずのものが、議論ができなくなるものでもある。結局「Pにする方法」を語るのに、Pでなければ語れないというのは議論の幅がそれだけ狭まるのだ。語りえるのにも関わらず、沈黙しなければならないのは、不健全だろう。












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