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『 et tu, Brute? 』 2024/10/03

「ブルータス、お前もか」という言葉を創った(?)人は、なんと「賽は投げられた」という言葉も創った人だった。更には、ユリウス暦は彼の名前だった。

ガイウス・ユリウス・カエサル(ラテン語: Gaius Iulius Caesar、Juliusとも、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日[注釈 1])は、共和政ローマ末期の政務官であり、文筆家。「賽は投げられた」(alea jacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか」(et tu, Brute?) などの特徴的な引用句でも知られる。また彼が布告し彼の名が冠された暦(ユリウス暦)は、紀元前45年から1582年まで1600年間以上に渡り欧州のほぼ全域で使用され続けた。

Wikipedia(↓)

天秤座新月の今日、わたしはほほ新月点に目が覚めて、そこから上手く眠れなかった。まぁそうなる予感はしていて、だから特に問題はない(夜早く眠くなるくらいだろう。WSがあるからお昼寝しておこうかしら)。




ここまで、10:52に保存してほったらかしていた。結局お昼寝はしなかった。そして今見直してみたら、書いたという程も大して書いていなかった(がーん)

1日、と言うには短すぎるが(今:2024/10/03 18:19:47)、でもあえて1日と言いたいくらいの体験と体感を経て、今わたしは朝の自分がつけたこのnoteのタイトル『 et tu, Brute?(ブルータス、お前もか)』の意味を、深く深く感じ取っている。

結論からいうと、ブルータスはわたしのことだった。

「 et tu, Brute?(ブルータス、お前もか)」という言葉は、歴史的背景か元になっている信頼していた人に裏切られたときに使う言葉だが、わたしは最近・・・いや、地味によく(なんなら普段から)こう感じることが多い。

「ブルータス、お前もか?(ラテン語: Et tu, Brute?/Et tū, Brūte?)」は、信頼していた者の裏切りを表現する、ラテン語の詩的な格言。共和政ローマ末期の独裁官であるガイウス・ユリウス・カエサルが議場で刺された今際の際に、腹心の1人であった元老院議員マルクス・ユニウス・ブルトゥス(父と区別して小ブルトゥス、英語読みでブルータスとも)に向かって叫んだとされる。

Wikipedia(↓)

恐らく(という接続詞を書くのが居た堪れない・・・いや、おぞましいくらいに当たり前のことを今から書くことになるが)、自分が満ちていないnot enoughときにそう感じているのだと思う。それはつまり、自分の中での分離、或いは分離感が強い / 強くなっているときだ。自己乖離が酷いとき、という言い方が直接すぎるにしろ事実に近いのではないかと思う。

わたしは期待が多い。きっと人より多いと思う。残念だが、期待するとほぼ100%に近い割合で裏切られることになる。わたしがここに書いている "期待" の定義は、現実を自分に都合よくコントロールして見ている個人的幻想のことだからだ。しかも更に悪いのは、自分でそのことに気付きながら、naturalに(恐らくSpécifications par défautデフォルト仕様)日常的に、それをやってしまう。ある意味悲劇かもしれず、この時点で真ん中しか見ていない冷酷な(あえて冷酷と書いてます)自分からすると、「 et tu, Brute?(ブルータス、お前もか)」と言われてしまいそうだ。

唐突だが、わたしはキラキラしたものが好きだ。事実は地味だ。だが、確実なものだ。幻想はときに偽りだ(というかほぼ偽りだ)。だが、華やかさがある。皮肉なことに、事実という名前の真実のみを追い求めていきたい / いたい / そう在りたいのに、その真逆を好む(何なら愛してそう)わたしがここにいて、常に自分を裏切り続けて・・・・・・いるのだ。これがわたしの構造(の一部)なのだ。

このままでは救いがない、と思ったが、救いならあった。そう、ここでまたわたしはわたしに対して、この台詞を使いたい。「 et tu, Brute?(ブルータス、お前もか)」と。

わたしがみている期待は、自分の感覚が幼い間は確かに自分にとっての都合のいい現実(という名前の幻)で、自分のことを惑わしたし、裏切ったし、虚しくしかしなかった。でも今のわたしは昔とは違う。確かに、依然としてそういう部分はある。だってそれがわたしなのだ。それがなくなったら(簡単にときめかなくなったら)、それはそれでわたしではない。

しかし、今わたしがみているものは、期待ではなくその先にある真実であると思っている。その人の魂の美しさそのものというか、その人の願いが満ちた状態というか、その人がただその人であるひかり、そのキラキラが透けて見えているから、それにときめいていたり、そのままに扱ってしまったりするということだ。これまでに何度か今ここに書いたことについては可能性として検証してみたり、そこに至るまでに仮説を立てそれに基づきデータをとったりしてきた(実は)。だから、わたしがみている期待には、未熟な感覚(でも人間のわたし自身のデフォルトの1つである感覚)としての期待と、開いた感覚(こちらも本来のわたし自身のデフォルトの感覚)としての期待がある、ということだ。

あー、スッキリした。どうやら自分裏切り合戦はこの辺りで終わりに出来そうだ。ちなみに、上述の期待以外の期待は全て、乙女座的成分の謎のチェック機構による引っかかりであるため(勝手に裏切られていって悲しみの連鎖が起こるやつ)、あまりそれを感じないためにも自分の調子をよく見て必要ならdigital detoxをするとか、関係ない情報は入れないというある意味当たり前の対策は引き続き必要だと思った。

天秤座新月の今日、聞き治したことで自分を自分に戻してくれたスタエフのアーカイブと、なんとなく再投稿したくなったnoteがあるので、それをこちらでも紹介して終わりにすることにします。
よろしければ聴いていただいたり、note読んでみてください。

『天の決め賜りし座標』っていうのがあると思うんです。

そこは、あなたの源であり、
エネルギーソースであり、
生まれた場所であり、
行き着くところでもあり、
物理的に帰る場所でもあり、
無であり、
有である、
そういう場所。

それを思い出す、ことができるとき、
人は喜びを感じるんだと思う。

わたしがしたいこと、改めて。

でも、それにはまず、今の自分の立ち位置を知ることが本当に大切。
心理学でいう、コンステレーションのことです。
余談ですが、コンステレーション=星座、という意味でもあります。

自分本来の立ち位置に還る。
自分の音を響かせる。
それが、本当の自分を生きるということです。

自分の使命はなんなのか?
自分は何のために生まれてきたのか?

ずっとそんなことばっかり考えて、悩んだり行き詰まっては様々なことを学び、色んなことを体験してきたわたしだからこそ、できることがあるかもしれない。

見えるものがあるかもしれない。

それに、今は確信がもてつつあります。
それは、周りにいてくれたみんな、関わってくれたみんなのおかげです。
ありがとう!

その人が自分本来の音を鳴らせるように、これが自分なんだ!と喜びを感じながら生きられるように、自分に出来ることを精一杯考えて(というかほぼほぼ周りのみんなにいってもらったことそのままですが)、ONLINE shopという形で対価をいただいて行うことにしました!

“On Your Mark” OPENします!(お店は現在運営停止しております)



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