見出し画像

夏の記憶と課題図書③【追記あり】 2024/06/20 -3

さらに続きです。

少しずつ紐解かれているような、脱線しているような、それが確信に迫る道筋のような、全ては前兆のような、そんな感じがしているので、そもそもcomplexを紐解くといっているのでさらりとスッキリとスマートに(しつこいw)全てが詳らかにされるなんてことはあるはずもないので、ワインディングロード的文章の綴方というか、道の歩き方というか、寄り道というかそれこそが王道というか・・・つまり、今ここに書いたことがそのまま核心であり確信であるということなのだろうなと思いながら、このまま出てくることを更に明文化していこうと思う。


ということで、前置きはこのくらいにして、1つ前のnoteのこの文章を書いていて、更にリリース前に読み直して、浮かんできたある記憶があるのでそれをまた書いて見ようと思った次第で、なのでその部分を引用した次第です。

そうだった。本を読むとき、わたしはわたしと一緒に居られた。本を読むことは息をすることで、わたしと2人きりになることだった。子どもの頃はそういう風に思って読んではいなかったが、今振り返って言葉にしてみて、ここに書いたような表現が先に出てくるということはそういうことなのだと理解した。本を読むと、その世界に浸れるのが好きだった。現実を忘れて、本の世界に没入することができた。

夏の記憶と課題図書②

そうだった。わたしにとって、本を読むのは現実逃避を含むのだった。というか、現実逃避そのもの・・・・・・・・だった。自分の中で収まりがつかないその何某かを収めるために、或いは違う形で真正面から触れずに・・・・・・・・・消化する/昇華する、或いは消火するために、何かに取り憑かれたように本を読むということはときどきわたしの人生に訪れる。

そしてそれを、わたしは「この作者にハマっているから」などといった単純明快な理由で採用し、知らないフリをして・・・・・・・・・本の世界に埋没し、 真正面から触れることの難しいその何某かを "しょうか消化・昇華・消化" する、という手法をとってきたのだと思う。

もうお分かりだと思うが、自分のためにここで敢えて明文化しておくと、わたしが「真正面から触れられない」「現実逃避を必要とする」「自分の中で収まりがつかない」ものの正体とは『感情』だ。もっといえば『自分の感情』。それが1番厄介だと、わたしは本能的に知っていて、他者を理由にそれを遠ざけてきていたのだった。

何から書けばいいのか分からなくなって、そもそもわたしは何を書きたいんだっけ?となって、そうしたら「わたしは感情を感じるのが嫌いだ」と出てきた。わーお、いきなりぶっ飛ばしてくるねー!ちょっと落ち着いたら?イヤイヤ、落ち着いてなんか居られないっしょ、だってここの扉開けるんでしょ?この扉があること、ずっとスルーしてきたのに、とうとう気付いちゃったんでしょ?そりゃ興奮(?)もしますよ、ぶっ飛ばしますよ(by潜在意識)。

夏の記憶と課題図書②

ね、全部もう書いてあるでしょ(苦笑)


(そして、ここで今が何時かに急に目がいって、11:11に投稿したくて無理矢理リリースしたなう、です。なのでここから更にもう少し書き足すことになるので、書き終わったらタイトルに【追記あり】って書き足しそうと思う。書き足す書き足すって書いてるから書き足すって言葉がものすごく迫ってくる。大変。でも続きを書く。)


冒頭に記したように、そして今ここに書いていることの2段落前?に「ね、全部もう書いてあるでしょ(苦笑)」と書いているように、全てはもうここにあって、自分が見ていないということにしていたり、分からないということにしているに過ぎない。たた、そこで終わっていてはcomplexの核心に迫る=解消はできないと今のわたしはわかっているので、ここから更に対話を進める必要がある。

ということで、事例を重ねるだけになる事は明白なのだがそれは依然として書いておきたいことのようなので、最初に引用した文章をもう一度ここに引用したい。

そうだった。本を読むとき、わたしはわたしと一緒に居られた。本を読むことは息をすることで、わたしと2人きりになることだった。子どもの頃はそういう風に思って読んではいなかったが、今振り返って言葉にしてみて、ここに書いたような表現が先に出てくるということはそういうことなのだと理解した。本を読むと、その世界に浸れるのが好きだった。現実を忘れて、本の世界に没入することができた。

夏の記憶と課題図書②

このことは、社会人になってからも起こっていた。今から書くのはそのときの記憶。どの作者にハマっていたかというと、それは東野圭吾さんで、そのときはとにかく処女作からそのときに既刊のものはほぼ全て読んだと思う。当時のわたしは社会人4年目で、好きな人がいて、その人が自身の都合で居なくなる(わたしの日常から居なくなる)というタイミングだった。たぶんわたしは悲しかったり寂しかったりしたのだと思う。恋愛感情を取り除いても、自分の人生でその人との出逢いやそれ以外のあれこれが大切なのだということが何故かわかっていた感じだった(当時のわたしにはその自覚はない)。でもそのことに気付けなかったわたしは、最後その人がいなくなる当日まで自分の中にある喪失感に向き合うことが出来なくて、仕事と通勤とご飯の時間以外はたぶんずっと本を読んでいた。ミステリーというのは都合が良かった。どんなに複雑に作り込まれた設定も伏線も、読み進めれば必ず問題が解決されていく。わたしの中にあるものは何も紐解かれないけど、本の中の世界は進んでいく。その体験を通して、問題解決、犯人逮捕、伏線回収の感覚を味わいたくて・・・・・・、わたしは読み終わりそうになったら本屋さんに寄って次の本を買って帰り、読み終わったらその余韻に浸ることなく次の本を読み始める…といった具合に、ひたすら本の世界に逃げた。逃げることで実は後ろの正面から向き合うということをしていて、受け容れられない感情を救いとるための代償行為(ということにしてしかそれを行えなかっただけで本当は代償ではなかったが)であり、それはただひたすらに自分の救済そのものだった。

長いですね。でも(たぶん)続きます。



2024/06/20 -3 (147/366)

よろしければサポートお願いします!!!いただいたサポートは、必ず循環させていきます!!!