見出し画像

AFC、のその後のはなし。③

こんにちは、のびたまごです。
昨日のホニャララLIVEがすごくてまだ頭やらなんやら…がまだまだ追いついてません。

※なので、まだ途中ではあるのですが途中まで読んだ時点での気づきなどまとめたnote☟


この続きと、ホニャララLIVEの自分なりの感想まとめも書きたい!

なのですが、今はまだそこはまとまらないことだけはわかるので、「一旦置いておきます」。

今できることを、まずは。
てことで、こちら☟の続きです!


AFC(アストロファッションコーディネート)
とは何ぞや?!という方はこちら☟どうぞ!

男性はこちら☟

トランスジェンダーの方は、ご自分の違和感のない方から申し込みされたらいいと思います☺️❣️
きっとニュートラルに対応してくださいますよ✨

で、ですね。

とうとう、意を決して、川久保玲さんのインタビュー(お言葉)に触れさせていただきましたm(*_ _)m

気になる雑誌(バックナンバー)はたくさんあったんですが、なんとなくこちらから入りました。


そしたら、このオペラ《Orlando》のテーマ?というか扱っているものまでが、すごかった。。。


コム・デ・ギャルソン=無垢な少年

わたしは正直に言うと、実は最初コム・デ・ギャルソンは敬遠していた存在だった。
自分には関係ない世界線という感覚で、自分の中にないものと思っていたから、自分の周りの世界に入れる気もなかったし、実際に周りにコム・デ・ギャルソンを来てたり持ってたりする人は一人もいなかった。

そんな感じて全く知らないのに、この目だけは何故か知っていて、あとからどんなお洋服やデザインがあるのかを見てから、「あ、あの目はギャルソンだったのか」と愕然とした。

その目、とは、この子のこと。


なんだろう、それこそ【反骨精神】的なものを、この表情から感じ取っていたんだろうとしか思えない。

なぜなら、わたしの中にそれがあるから。

ただしく自由に生きろー川久保玲さんへのインタビューからー

まず、心に止まった言葉をいくつか、引用させてもらいます。

私が仕事をする時は、与えられた場所だとか、結果だとか、人に合わせるとか、そういうことは考えません。自分の内だけのことで作ります。それが結果として偶然のようにいろいろな事象と絡みあって表現となるのです。
彼(ヘア担当)も表現者だから良い意味でどこか狂っている。全く自由に、勝手にやります。私も勝手にやります。でもそれがコレクションに結実してくるのです。
それは言葉ではうまく説明できない繋がりだと思います。思えば私の現場はそういうことがほとんどです。
ー私はいろいろなイメージや目的、個性、そして異なるスタイルがぶつかりあって生まれるものが楽しみなんです。結果がどうなるかを計算して仕事をすることはありません。毎日、本当にこの五十年間の一日一日がその積み重ね。何かを意識して選びとっているわけではない。それぞれに異なるクリエイターの力が集まってできる偶然や相乗効果が、みんなにとって面白いことを生むのです。

ー純粋なクリエイション、真の自由というものは、あらゆる二元論、左と右、リアルとノンリアル、男と女などを超越した時に達成されるのだと思います。

ー雑誌「INTERVIEW」二〇一九年秋号でのビョークとの対談からー
私は『オーランドー』の本番を観ていないのです。音も聴いていません。
正直『オーランドー』も関係ない。自分勝手に作りました。
それしか言いようがないのです。


あまり引用しすぎるのはダメな気がしてきたので、最後に1番響いた言葉を。

正直に言うと、物語に関係ない私の思いを混ぜたいと思ったのです。それが黒なんです。それは未来。事実です。

未来が黒い…。

わたしは言葉を失いました。
未来って、今まで明るい色のイメージが強かったから、勝手に自分の中にある言葉のイメージや色と不協和音が起こった。だから、ここを読んだ時思考が停止しました。

そして、【未来が黒い】という言葉から今のわたしが感じることが、今のわたしって大切なことだという確信がありました。

これはわたしが感じことなんですが…
川久保さんにとっての【黒】は一九八二年のパリコレでの“黒の衝撃”と呼称された黒の穴あきニットが象徴しているものなのかなと。

それは、「新しい生き方の規範」という評価と同時に、「西洋の服の冒涜」とまでいわれた、と同雑誌に書いてありました。

黒は、闇、未開発の世界、まだ光のない世界。

そこに穴を開ける。
風を通す。

それを、そういう行為のことを、その行為の結果に得られる予測不能の自体のことを、もしかしたら【未来】と言っておられるのなら、光は闇から生まれるように、【未来は黒】から始まるといっても全くといっていいほど違和感がないな、と思いました。

未来という未踏の地、まだ見ぬ舞台は、目の前にある黒いカーテンのその向こうにある。
カーテンを開かなければ、風穴をあけなければ、見ることはできないし、そこにそれがあることに気づくことすらできない。

逆に、その闇の向こうに舞台がある保証はなく、何度破ってみても、何度開いてみても、闇が続くだだと知るだけのこともあれば、新たな壁が立ちはだかるだけのこともあるのだろう。

でも、やるのだ。

川久保さんは、この【ただ、自分の感覚を信じて、やる】【やる(自分の表現)を続ける】を突き詰めておられる方なのだ、とわたしは思った。

だから、ギャルソンの服はメッセージに溢れているのかもしれない。

『MY ENERGY comes from freedom and a rebellious spirit.』私のエネルギーは、自由と反骨精神からくる。


わたしのなかでの「反骨精神」って、何でもかんでも反発してる、みたいなイメージになってしまってたんですけど、ここまでいろいろと書いてきて、決してそういう意味ではないということが痛いほどわかった。

それは、アイデンティティーの獲得であり、自分という存在であることを貫くことなんだ、と。

(前に書いた自己一致とまたここでもつながりますね☺️)

自分にとってはただそれだけのこと。
周りから見たら、常識外だったり、前代未聞だったり、未開の地・未踏の地だったり、ある人にとっては想像を絶するようなことだったりするだけ。

だから、周りから見ると「反骨精神」という言葉になるだけなんだなぁ、と。
VIVA!!反骨精神!

でもその周りから見た言葉を自分の真(芯)に置くことが出来る川久保玲さんは、本当にすごいと思った。

ここで、この言葉を再度引用させていただきます。

ー純粋なクリエイション、真の自由というものは、あらゆる二元論、左と右、リアルとノンリアル、男と女などを超越した時に達成されるのだと思います。

ー雑誌「INTERVIEW」二〇一九年秋号でのビョークとの対談からー

この『あらゆる二元論、左と右、リアルとノンリアル、男と女などを超越』する、と表現されている両翼を担っているもの、極、対照になっているものが、川久保さんにとっては【FREEDOM】と【REBELLIOUS SPIRIT】であり、それゆえそれがさっきの言葉に表されているように【彼女のエネルギー】となって(もう魂と言ってもいい気がします)、純粋なクリエイションが達成され続けているんだなぁ…

と、感動しすぎて、心が震えてます。
自分(川久保玲)というこの与えられた生を、全身全霊で生き切り続けておられる。

生まれてきてくださって、表現をしてくださって、ご自分を生きてくださって、ありがとうございます。
なんでかわからないけど、わたしがこんなこというのおこがましいんですけど、もう感謝しか出てこないです。。。

導かれてここにいること。流れにを委ねることの意味

思えば、yujiさんのブログからユカコさん(AFCしてくださったアストロファッショニスタの方です✨)に導かれ、今度はコム・デ・ギャルソンに、川久保玲さんに導かれて。

今、ものすごく呼吸がしやすいなと感じてます。
身体の力が抜けました。

頑張って反抗し続けるのが反骨精神だと思ってて(もうほんとに恥ずかしくて情けなくて、こんなこと言いたくないけど…もう言いますよ!笑)、無理矢理頑張ってました。

そうやって自分を表現する(頑張って反抗し続ける)ことが自分を生きてることだと勘違いしてました。もういや!←泣きそう😭

そりゃうまくいかないですよね。
流れに身を委ねてるつもりが全力で抵抗してますからね。もう面白すぎですよね。

流れに身を委ねるって、自分の中の思い込みやこだわりを、ひとつひとつ手放していくことなんですね…

このnoteも、朝から起こったことひとつひとつを自分でジャッジすることなく受け容れて行動してみてたら、気がついたらこんなこと書いてた、っていう状況なんです。

この気づきが、きっとまた次の気づきを連れてきてくれて、昨日の某ホニャララのnoteが自然とまとめられるところまで自分の心のいろんなところに《触れて》いけますように。

また次のギャルソン特集とか、川久保さんの言葉が掲載されている本を探して読んでみます☺️

他にもまたAFC関連のことで変化があったら続編書きますので、ぜひぜひ読んでくださいね🌟


さいごに、わたしのAFC体験談noteはこちらデス☟


ではでは、本当に終わりです!
本当の本当に最後まで、お付き合いくださりありがとうございましたm(*_ _)m

よろしければサポートお願いします!!!いただいたサポートは、必ず循環させていきます!!!