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《終わりをつくる》ができなかった話と、京都日帰り旅♪

前のnoteが途中なのですが、これは今日書かないといけない気がするのでこっちを先に書きます(とか書いたのが07/16で、もう一週間経ってしまいました🥲)。

ので、ここからその日に書いた内容なので、これ以降ここまで、と書くまでは今日=07/16ということになりますのでよろしくお願いいたしますm(_ _)m

デジ近さんと京都✨

今日は、デジ近さんのチャコさんが京都にこられるということでお誘いいただき、上賀茂神社と三十三間堂に行ってきました。

で、このシリーズ(シリーズだったらしい🥲)の、第1幕の終わり(もう終幕でいいけど、暫定ってことて)だったみたいなので、しつこいですが先にこれを書きます。

ただ、ここにプラスして、「意識して終わらせていく」という意識を持って行動することも大切だなぁと思うようになったんです。
終わりカス?という言葉があるのかわからないんですが、終わりのカス(そのまま😂)みたいものがたくさん溜まっていっていて、その1部はもしかしたら「終わらせたつもりにして葬ってたり」してるかもしれないな、と。

それって、全然終わってないし、なんなら実は何かをはじめているようで全くはじまってないんですよねー!
自分のことを、誤魔化しているだけなのだ。
しかも全力でポジティブなことのようにセルフプレゼンテーションしているからタチが悪い(ちなみにわたしはよくこういうことをしている)。

あーーーー。
なんかすごいことに気付いてしまったー(衝撃すぎて他人事感😂)。

はじめてるつもりがはじめてないこと。
終わらせたつもりにして、終わらせてないこと。

そんなことにフォーカスしながら、今日1日過ごしてみようと思いました。

これは、5月11日に書いたnoteで、さらにその前に書いた関連noteも貼ってあって長いので1部抜粋しました😌✨

で、結局、今日の今日、この《自分の意思で終わらせる》を初めてきちんとしたんですね、わたし。

ずっとそれができなくて悩んでいて、それにはこの辺のnoteに書いたようなことも深いところで関係していて。
※ このnoteめちゃ長いんで、こちらもまた1部抜粋しておきます。

ちなみに、お金が全面に出ていますが、これはエネルギーとか、時間に置き換えても全く同じことです。
つまり、自分という資源・価値の扱い方の話。
わたしは、「他者に分け与えなくてもいい」ということが「豊かである」「自分を満たす」ことだと、勘違いしました。

これは、循環をとめる思考です。

豊かさをまわりと共有できない。
循環を産まない。

だからその結果、実はどんどん色んな意味で貧しくなるし、ずっと「(何かが)ない」という状態に追い込まれて、そこでもがくことになる。

まあ、これだけ書いてきたので言わずもがななのですが、本当にずっとそれをやってきました、わたしは。
「買わなくても(お金は)なくならない」から、「安心して欲しいものに巡り合うまで待ってていい」ということに。

まあ実は(すこし話がズレてしまうのですが)、予算以上のものがきたりしたこともあったんですけど、それはそれで何とかなりました。
そう。なんとかなる。要るものは手に入る。

だから、「お金が無くても欲しいものは手に入る」もしくは「そのためのお金がやってきてくれる」っていう概念も、最近新しくわたしの中に加わりました。
人のもの、自分のもの、とかそういう制限を超えて、わたしがわたしと認識するモノは必ずわたしのところにくるし、残る。
勝手に無くならない。だってわたしだから。

お金の話は、《自分の在り方》の話でした。
そして、幼い頃に自分が嫌な目にあったから、それから自分を守るために作りあげた自分を守ってくれるものでもありました。

やっと、ほんとうの自分に気づいて、解放することができると思ってます。
ひとりの世界は辛かったです。でも、自分のものが大切だという想い自体は、自然と自分のことも他人のことも尊重できる姿勢につながっていました。

全然本題に入れませんが、この部分の裏側?みたいなものを、今日は1日かけて手放してきたので、先にこの部分を書いておかないとわたしにとっては意味がなくて。

なので、長かったですが引用しました。


要るものは手に入る、の逆

これ、なんだと思います?

・・・これは、「要らないものは出ていく/出す」です。簡単ですよね、単純に逆にすればいいんだから。
でも、もともとわたしには、要るものは無くなる。いやむしろ、自分にとって大切なものほど無くなる。・・・という考え方があったんです。
そこから、この考え方☟に行き着いたわけなんですが、まだ手放せてないものがありました。

人のもの、自分のもの、とかそういう制限を超えて、わたしがわたしと認識するモノは必ずわたしのところにくるし、残る。
勝手に無くならない。だってわたしだから。

それは、逆の意味での自分への信頼でした。

手放すことへの恐れが、まだ手放せてなかったんですよね。
ここにあるものを自分が意図して手放す、ということはしていなかったんです。

あえて、無くすこと。
あえて、自分から、手を離すこと。

それは、自分の知らないところで自分の大切なものが無くなる恐怖に脅えていたわたしにとって、ものすごく怖いことだったんです。

勝手に無くなったものは、大概返ってきませんでした。でも、これについては上記の引用を読んでもらったらわかっていただけるように、既に克服したと思ってます(そしてこれからも克服し続けていくんだと思います)。

でも、だからこそ逆に、自分で「これは要らない」と決めることに慣れてなくて。勝手になくなるのが前提だったから、無くさないようにしてたところをその前提は覆しました。でも、結果も同時に覆しておかないといけなかったんですよね。でも、そこに気づいてなくって、結果はそのまま(つまり無くならないけど、自ら無くすことも無い)という状態になっていたんです。

だから、ずっとあるんです。
何もかもが。

でも、それって完全に状況や環境が飽和してしまって、新しいものが入ってくる余裕がどんどん無くなっていくんですよね。
なんなら、わたしの場合は特に「無くさないようにしてる」わけなので、もともと他の人に比べて余裕が無いのにも関わらず、さらに「勝手には無くならない」という設定に変えたものだから、余裕がなくてパンパンになってしまった、というわけ((꜆꜄ ˙꒳˙)꜆꜄꜆

だから、「要らないものは出ていく/出す」のうち、特に「要らないものを判断して出す」が、新たに今の自分のテーマとして浮上していたことに、昨日までのわたしは気づいてたせんでした。というか、恐怖の名残?があるから、気付いてたけど気づいてないフリしてました。


思い出って厄介😇

「あの時のあの思い出」があるものは、厄介だと思います。

「要らないもの」と判断して手放すというプロセスにおいて、変な意味付けをしてしまうと「あの思い出」すらも要らないものになってしまう。ということは、これを手放すということは「あの思い出」も捨てるってことになるんだ...!という思考がオートマチックに発動。その結果、捨てられないという負のスパイラル・・・

だからわたしは捨てられない人になったんだな、と。
謎がまたひとつ解けた。

大丈夫。
思い出も、必要なものは物質としては無くなってもわたしの中に残り続ける。

人のもの、自分のもの、とかそういう制限を超えて、わたしがわたしと認識するモノは必ずわたしのところにくるし、残る。
勝手に無くならない。だってわたしだから。

とすると、ものがなくなったって、わたしがわたしじゃなくなることはないわけですし、手放した(無くした)からといって、何かが起こる訳でもない。

だから、今の自分に合ってないものは、手放すしかない!と。そうすれば、また新しいものが循環するし、古いものがその循環に乗じてやってくる。こういうことも、最近やっと十分に理解出来たような気がします。

そして、例え何を手放しても、基本的にはわたしは無くならない。自ら終わりをつくっても、何も問題ない、という考えに至りました。

その安心感のもと、今日行ってきた京都では、お祓いand手放しをしに行ってきました!(前置き長くてすみません!!)


上賀茂神社(賀茂別雷神社)

本当は、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)というそうです。御神体は、本殿のその奥に鎮座されている「神山(こうやま)」という山だそうです。

賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、通称「上賀茂神社(かみがもじんじゃ)」「上社(かみしゃ)」の名で親しまれる神社です。
御祭神は賀茂別雷大神かもわけいかづちおおかみ。
国宝2棟、重要文化財41棟を含む広大な敷地は全てユネスコ世界文化遺産に登録されています。

今、普段入ることの出来ないご神域へ特別にはいらせていただける国宝本殿への特別参拝の時期だったそうで、本当に幸運でした(下のツイート内のリンクから飛べます)。

初めて参拝させていただいたのですが、ものすごーーーーーーーーーーーーーく好きな空気感でした。

『氣を祓う』って、こういうことなんだ...的なことを思ったり、なんとも言えない「静寂の無」みたいなものを感じたり、時間が止まったような感覚も。

本当にたくさんのことを体感させていただきましたm(_ _)m✨✨✨


お参りが終わり、境内内を回って、チャコさんが調べてくださっていた神山珈琲のお店へ。

ここの珈琲がめちゃくちゃ美味しかったんです...!!!
わたしは別に珈琲党ではないし(なんならカフェオレ党)、今までは全くといっていいほど珈琲の味について考えたり美味しいと思ったことがなかったんですよね(失礼な話です、ごめんなさい)。でも、ここの珈琲は違いました。香ばしすぎず、濃すぎず、でも珈琲で、清々しさみたいな抜けを感じる珈琲。

この珈琲なら何倍でも飲めると思いました🥺✨✨✨


祇園でお昼を食す

珈琲のあとは祇園へ移動。
チャコさんおすすめのお香屋さんへいって、様々なお香の香りを堪能しました🥰

わたしは、月待ち蜘蛛、という香りが好きだと思ったのですが、今家にあるお香を使い終わってからのお楽しみにすることにしました♪

つぎにお昼を食べに移動!
全く知らなかったお店に連れていって頂きました!

見てください、この魚座感!!(カオス)
いやー、すごかった。
各席に人形が一体ずつ居るんですけど、絶対他にもいそう(霊とかではなく。わかりませんけど😇)。

なんか、裏の京都を(こんなもんじゃないと思うけど)見た感じがしました。

ということで、ここから☟は本日07/24に追記しました。


三十三間堂へ

小学校の修学旅行以来の三十三間堂。
イメージが全く違いました。こんなに綺麗なところだったとは。

本堂内は写真NGなので、外観とお庭の写真をたくさん撮らせてもらいました。
虹(halo)が出てて、とても美しい空でした☀️🌈✨✨

ここの水がすこしとろっとしていて不思議な感覚がして気持ちよかった。
夜泣き封じという功徳?があるらしいのですが、何だか羊水っぽい感じがあるのかな...と今更ながら思ったりしました。


甘味も忘れず😚

このあと、まだもう少し時間に余裕があったのでチャコさんと喫茶店に入っていろいろお話ししました!

珈琲白玉ぜんざい✨✨
大変美味しくいただきました!!!
(なんていうお店だったか忘れてしまった...紹介できず残念🥲)

移動中もなんだかんだとほぼほぼ話してたんですけど、まぁいろいろと話は尽きませんね😂

TwitterなどのSNSでのやりとりとは全く違う(どちらも良いですけど🙂)、楽しい話ができてよかったです。


ということで。

1週間経ってしまいました。
今日はもう水瓶座満月の日ですね。

今日はまた、違う神社さんに参拝させていただいてきます。
またnote書きます!(うう、書きたいことが溜まっていく...😅)

めっちゃ言ってます(書いてます)が、こちらでも言わせてください😊💓
みなさま、よい満月を♪


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