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立秋 2024/08/07

少しずつ秋の雰囲気が増してきたそんな今日は2024年の立秋の日。夜が涼しかったので、あれ今日って立秋じゃなかったっけ、わーほんまに立秋やなぁ、などと当たり前すぎることを思ってしまった。わたしは自分では今年は丁度1か月前くらいからもう秋めいているというか秋は訪れていると思っていて、これで暦の上でまで秋になってしまったら、ますますセンチメンタルな空気感が増していくことになるなぁ、と思った。

秋の気配はセンチメンタルだ。少しずつ少しだけ青みがかった(ほぼわからないくらい)のベージュのような淡いシルバーのようなフェードのようなベールのような空気が、そっと日々の中に差し込まれていく。それは既に始まっていて、今年はそれがなんだか早かったような気がする。それが、わたしの季節をキャッチする感覚が鋭くなったからなのか、そういうことではなく単にわかりやすいのか、やはり地球の気候は変わっているのか。正解探しがしたいのではなく、多分そういうことなのだと思う。色んなことが複雑に、そして単純に絡み合ったり共存したりしている。センチメンタルの中には、複雑さとシンプルさの相反するふたつも入っているかもしれない。縺れながら、解けながら、今ここにあるもの、或いはかつてここにあったものについて、気持ちやら思考やらを添わせていくとき、そこには恐らくセンチメンタルが存在する。このあたりのニュアンスは、ノスタルジアに似ていたり、通じる感覚かもしれない。

雲、という形の雲が(☁️)空にぽかりぽかりと浮かんでいるのを横目に見ながら、わたしは今このnoteを書いている。雲の形も変わり始めている。入道雲ももうすぐ見納めかもしれない。夏にしかできないことは、華やかだけどあとから振り返ると切なくなることが多い。線香花火なんかはその際たるもののような気がする。"もののあはれ" には、やはり共感が含まれ、共感にはやはり幾許いくばくかの切なさ、もっといえば哀しさが含まれる。哀愁、という文字を見れば一目瞭然かもしれない。言葉は、文字の形は、そして音は、そういうふうにできていてやはり美しく、そこにはやはり "もののあはれ" があると思う。

"もののあはれ" 、それは日本人が手放してしまいそうになっている、本来持っているよさであり、アイデンティティではないかとわたしは密かに思っていて、それはきっと、あらゆるものと繋がる力だと思っている。だから八百万の神という概念があるのだと思うし、そもそもそれが世界の根本なのだと思っている。

なんだか小難しくなってしまったので、この辺で終わることにする。みなさま今日もよきいちにちを。



2024/08/07 (181/366)

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