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【前編】"サッカー未経験者"がプロのサッカーライターを目指す理由

私はサッカーライターになりたい。しかし、サッカーができない。
なぜなら、サッカーの競技経験がないからだ。

サッカーライターを目指す上で、競技経験がないことは大きな欠点になることは間違いないが、私にはサッカーライターへ進む道しかない。

ではなぜ、サッカーライターを志すことになってしまったのだろう。就職活動が本格化してきたこのタイミングで、一旦書き留めておきたいと思う。

実は、中学3年からこの目標はぶれていない。高校受験を推薦入試で受けるため、志望書に書く「人生のビジョン」を考えるようになったことがきっかけだ。

サッカーと私の出会いは小学校低学年のころ。テレビでG大阪VSマンUの試合をみた少年は、日本のサッカーが世界に立ち向かう姿に心打たれる。しかし、ちょうどそのあたりから友人の影響でバスケットボールを始めたため、サッカー選手になるなんて考えもしなかった。なんせこの時期から下手だったし。

とはいえ、サッカーゲームやテレビでの観戦は常にしていた。2010年の南アフリカW杯や2011アジアカップなど、躍進を始めた日本サッカーが私をサッカーオタクに変えていく。ウイイレは毎年発売日にヨドバシカメラへ猛ダッシュ。お年玉をそのために発売まで温存するのは至難の技だった。今考えるとガキっぽい楽しみ方だったのかなと思ったり思わなかったり。

そんな少年も中学生になり、成長期を迎えていた。その頃は成長に体が追いつかず、体調が優れない時期だった。毎日学校ではなく病院に通う日々。ご飯もろくに食えない貧弱中坊だったのだ。

そんなある日、テレビをつけると、それまであまり見ていなかったJリーグが放送されていた。2011年J1リーグ第30節・浦和レッズ対横浜Fマリノス。この試合が私のサッカーへの熱をさらに高めていく。当時の浦和は降格争いで瀬戸際まで追い込まれていた。試合前の実況では「レッズはこの試合に勝てないと…」みたいなことで聴衆を煽っていたのを覚えている。しかも、早々に先制されてしまう。「こりゃ難しい試合だなあ」と思っていると、後半に浦和が猛反撃。今ではスーパースターの原口元気のゴールで追いつき、その10分後くらいに逆転ゴールを決めたのが、梅崎司だった。

当時の梅崎は怪我に苦しみ、思うような出場機会を得られておらず。私としても初見の選手だった。それでも、怪我を乗り越えてピッチの上で戦い、結果でチームを救った梅崎のトリコになっていた。当時の自分をどこか勇気付けてくれたのは間違いなく赤き背番号7だった。結果的に2-1でレッズが勝利。この一勝もあって瀬戸際で残留となった。

この活躍を見て、2012シーズンから浦和の試合を中心にJリーグを観るように。ロンドン五輪もあり、気づけば常にサッカーが頭の中にあった。高校受験を控えていた私だったが、そっちのけでサッカーを見まくっていた。学校の授業ではルーズリーフに手書きの記事やメンバー予想を書いて友達に読んでもらっていたのも思い出す。

そんなことをしているうちに、勉強ではそこそこの高校に行けないことが判明。今でもこれは不覚だが、面接を得意としていた私は都立高校への推薦入試にシフトすることになる。そこで、「自己PR」という壁に人生で初めて直面する。(21歳時点で2回目の壁を迎えていることはまた別の話)

そこで、高校で学びたいことを書くために将来のビジョンから逆算することにしてみた。

これが実際の自己PRシート。おかしなところも、今の自分とは少し違うところも多々あるが、中学3年生の文章なので大目に見ていただきたい。自分を奮い立たせてくれたサッカーという競技に対して貢献したいと思う気持ちが筆を走らせた。「スポーツ雑誌の記者」と書いてあるが、この時点でサッカーライターになることは決めていた。

まぁ、そんなこんなで受験当日を迎えたわけだが、当日の面接もこのPRシートを基に質問をされた。「どんな競技が好きなんですか?」「きっかけはなんですか?」とかありきたりな質問に、思いの丈をぶつける単純作業だった。
結果、合格率10%以下と模試で判定された高校に受かってしまう。ここでひとつ、自分の夢は間違っていないと思うきっかけとなった。

前編はここまでにしようと思う。さらにこの夢が加速する大学生活は後編で。また後日!


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