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SUGB 因果巡 2話『この美しき世界で』(7~12)

 青空の中を落ちてくる白球に因果巡は手を伸ばした。
 広げたミットの中に白球が着地する。美しく。完璧に。

 ザガラーテ・オ・ガラーテ(収まるべきものは収まるべきところに)

 因果巡 18歳。

 陽光がマウンドに立つ因果巡を照らしていた。初夏の風が吹き、彼の髪を優しく掻き揚げて、熱を持ち去って行く。四季は順調に動いていた。
 学内に併設された小さなグラウンドだった。小さいが観客席もベンチも立派なスコアボードもある良いグラウンドだ。放課後、そこで友人たちと野球をするのが巡の日課だ。野球。そう、ベースボールだ。因果巡はベースボールをプレイしている。ザガラーテ・オ・ガラーテ。
 ベンチへ戻る彼の左腕のスマートウォッチが振動した。帰る時間だ、と彼はグローブのついていない右手を素早く動かして友人の一人に伝える。因果巡が手話者となって18年がたつ。そのことが分厚い門のように立ちふさがったことが何度もあったが、彼はそれを2人の母とその教えとともに乗り越えてきた。
 友人であるケリーという少年が巡の手話を読み取り「え。マジ」と頭を抱えた。マジ、と巡は手話で返す。
「おい!メグルが帰るってさ」
 ケリーが叫ぶように言うと、チームメイトが巡を囲むように集まってきた。因果巡の人相は、この星のアジアという地域を生活圏とする人々に近い。しかしその顔には彼しか持ちえない奇妙な魅力がある。身長は180㎝を超える長身で、全身に引き締まった筋肉がついていた。かつて落下する白球に翻弄されていた小さな幼子は、立派な体躯を持つ青年へと成長していた。
「頼む!あと3回、いやあと1回でもいいから投げてくれ」
「メグルが帰ったらつまんねーよ」
「そのスマートウォッチどう?」
 浴びせられる言葉1つ1つに頷きながら、今日の用事は絶対なんだよ。ごめん、と巡は手を動かした。左手のスマートウォッチを見せながら、超微妙だよ。前のシリーズのやつが良かったな、と付け加えるのも忘れなかった。
 遠くのほうでワッと歓声が上がる。どうやら巡が帰ることが相手のチームにも伝わったらしい。「メグルがいないんじゃ楽勝だよ」と笑い声まで聞こえてきて、チームは殺気立った。巡が笑いながら手を動かす。
 大丈夫そうだな。
 ケリーは苦笑しながら、なんとかやってみるよと答えた。巡はサッと後片付けをすると、ベンチとグラウンドに礼をした。
「メグル」
 ケリーが手を巡に手を振りながら言った。
「明日も学校こいよ!」
 巡は眩しそうに笑って手話(ことば)を返した。
「お前もな」

 グラウンドから駐輪場へと向かう道すがら、巡は先ほどのケリーの言葉を反芻していた。
「明日も学校こいよ!」はケリーお得意のジョークだ。ケリーは入学してからしばらくの間、学校に来ていなかった。初めはただのサボり癖だと思われていたが、のちにスクールカウンセラーや大人たちが介入し、精神的に不安定な母親の面倒を見るために学校を休んでいたことが分かった。今は母親と一緒に市のサポートを受けながら、学校に通っている。
 いろんな人がいる、と巡は想う。
 それは、ただ当たり前の事実であり、しかし誰もがすぐに忘れてしまう真実だった。巡は自分自身がこの世界の外から来たストレンジャーであるからこそ、多種多様な人間がそれぞれの思考や感情を持ち(しかもそれは絶えず変化し続けながら)存在する、というこの世界の一筋縄ではいかないルールから目を逸らさないで生きている。だから構内を歩く巡を見かけると、誰もが声をかけてくる。先生、事務員、用務員、ジョック、ギーグ、ゴス、パンクス、バッドボーイ……関係なく、だ。それに対して、ハンドサインこそ変えるが巡は同じように明るく応える。我らが因果巡は人に合わせて表情や態度を変える日和見野郎(マスクマン)ではない。そこにいる人々、その一人ひとりに興味があり、そして本心から向き合っているというそれだけだった。いろんな人がいる、と巡はまた思った。

 駐輪場に着いた因果巡は、マウンテンバイクに跨るとスマートフォンを操作して母たちにメッセージを送った。
「これから帰ります」
 ペダルに足をかけて勢いよく漕ぎ出す。グンと広がった青空に今日も物資を運ぶスペースシャトルの姿が見えた。
 因果巡がこの次元にやってきて10数年の間に宇宙開発は大きく進歩した。本格的な移住こそ始まってはいないものの月面には巨大な宇宙空港(スペースポート)や研究施設が建設され、今や人気の観光地の一つとなっている。
 巡は宙を見上げた。その視線は月を越え、火星へと向けられている。開発が進む月とは違い、同じく人類の新たな開拓地(フロンティア)であったはずの火星からもたらされる情報はどういうわけかほとんどなかった。地球に聞こえてくる火星の話といえば、一部の富裕層がとっくに移住を始めているとか、未知の生命体の前線基地があるとか、そんなものばかりだった。
 未知の生命体。
 因果巡は子どもの頃からずっと、なぜか火星に対して懐かしさのようなものを感じている。生まれ故郷かもしれないと考えたこともあったが、しかし火星に生物が存在した痕跡はない。いや、この人類が気づかないだけで存在したこともあったのだが、それは因果巡の出自とはまったく関係のない話である。

 スマートフォンを確認すると、2人の母からそれぞれメッセージアプリに返信がきていた。
 シュリ・マキシマからは「OK。気を付けて」
 ディアナ・ペールライトからは「わかりました。私もすぐに帰ります」
 巡は少し考えて、自宅ではなくダウンタウンの方向へと自転車を走らせた。涼やかな風が彼の身体を吹き抜けていく。因果巡は風に好かれている。
「R」という小さな看板を掲げた古書店に巡は自転車をとめた。チョコレート色の木製のドアを押すと、頭の上で囁くようにベルが鳴る。
 店内は壁面を覆う本棚と古書が山のように積まれた机で構成された迷宮(ダンジョン)だった。その迷宮全体を見下ろすような高さに一人用の机と椅子があり、毛糸の帽子を被った老人が、さながら迷宮の主人(ダンジョンマスター)のように座っていた。
 老人は無表情のまま、巡にゆっくりと顔を向けた。臆することもなく巡は老人に会釈し、指を二本立てて素早く動かしながら店の奥へと向ける。すると老人も樫の木のような二本指を動かして、奥を示した。それは遥か昔、この地に存在した国の騎士たちが使っていたハンドサインだった。巡は老人に再び会釈をすると迷宮の中へと足を踏み入れた。本棚と本棚、積み上げられた本と本、その間を歩いていく。
 ほとんど光の届かない店の奥地、明り取りの窓から微かに入ってくる陽の光の下にディアナが立っていた。読書に集中しているようで巡に気付いていない。金色の髪がほのかに輝き、ただ確実に文字を追う表情は絵画のような静謐な美しさを放っている。巡は静かに息を吐いた。人の気配を感じたのか、ディアナが本から顔を上げて巡を見た。遠い国から帰ってきたかのようなその顔に安堵の表情にも似た微笑みが浮かんだ。
「おかえりなさい」
 ただいま、と巡は手を動かした。ごめん。読書の邪魔をしちゃった。
「そんなことないわ」ディアナが持っていた本を棚に戻す。「このままだと帰れなくなるところだった」
 買っていかないの、と巡が問うと「買っていけないの」とディアナは笑った。この古書店に並んでいるどの本の値札にも無数の0が並んでいる。そんな値段を付けた本を誰が買っていくのだろうか、と巡はいつも疑問に思っている。客の姿を見たこともないが、しかしこの本屋は巡がこの星にやってきた時から、さらに言えばその前からずっとこの場所にある。
 2人は一列になって、本の迷宮を入口に向かって歩いた。光差す方へ。迷宮を抜けると、来た時と全く同じ姿勢で迷宮の主人が椅子に腰かけていた。
「さようならR。また来ます」ディアナが声をかけると主人は何も言わず、しかし少しだけ口角を上げて答えた。そして巡には「対象をよく守れ」のハンドサインを送ってよこした。
 了解です。
 巡は真剣な顔でサインを返す。

 ベルの音に見送られ、2人は店の外へ出た。突然聴覚が鋭くなったかと思えるくらい、日常の音がはっきりと感じ取れる。この古書店から外へ出たときはいつもそうだった。
 自転車の鍵を開けた巡は、ディアナに向かって手を動かした。
 あのおじいさん、母さんたちが子どもの頃からずっとおじいさんだった?
「誰がそんなことを言ったの?」ディアナは笑った。
 巡も笑いながら、シュリかあさんだよと答えた。
「あの人、また変なことを言ってる」ディアナは笑いながら、しかしだんだんと記憶を辿るような顔つきになった。
「そうね。私が子どもの頃からはおじいさんだったかは分からないけれど、でも確かに私がシュリと巡と出会うずっと前、私がこの町に来たときからずっとおじいさんかもしれない」
 つまり年をとっていないってことだ、と巡は驚いた顔で大げさに手を動かした。不老不死じゃん!
「日常潜むファンタジーってやつね」ディアナが楽しそうに言った。「好きだなあ。私。そういう話」
 僕もだよ、と巡は笑った。

 因果巡はファンタジーを好む。それは母であるディアナが児童文学の作家であることが影響をしているのかもしれない。
 幼い頃、この次元、この星の知識をただ吸収するために行っていた読書。その最中にたまたま出会った古いファンタジー小説がなぜか彼の心を捉えた。あるはずのない世界。あり得ないはずの出来事。空想の世界の物語が因果巡の心にはよく馴染んだ。彼はそれらをまったく本当の真実であるように感じることができた。そして物語のキャラクターたち、妖精、吸血鬼、人狼、ビッグフット、モケーレ・ムベンベ……ときにモンスターとも呼ばれる異境の存在が、空想とはいえこの世にいるという事実が彼にはとても心強く感じられるのだった。

 夏の木漏れ日の中を因果巡とディアナ・ペールライトはゆっくりと歩いていた。涼しい風が吹いてくる。囁くような木々のざわめきに時折鳥の声が混じった。初夏のセントラル・パークには生命の息吹が満ちている。
 人口の増加と都市の拡張は不可分の関係にある。それはどの次元でも変わらない事実である。建築技術を発展させ、自然を開発し、自分達の居住地を拡充させる。それは逃れることのできない宿命と言っても過言ではない。大事なのはバランスだった。どこまで自分達の居住地を広げるのか、どこまで自然を残すのか。その選択が、宿命の行く末を決定する。全てはバランスによって成り立っている。
バランス。
因果巡が暮らすニューアークシティも、かつては都市開発計画と緑地化計画が絡み合い、無限の争いを続けるような街であった。しかしここ数年の間に争いは沈静化し、少しずつバランスが整いつつある。その証拠にセントラル・パークはシティに暮らす住民たちの手によって守られていた。行政が定期的に行う補修以外に、住民たちが自主的に保全活動を行うことで都市の中に自然が残る。コントロール(管理)ではなくメンテナンス(維持)の精神。 しかし地元の人々にこのことを聞けば、みんな揃ってウォッチオーバー(見守っているだけ)と照れたように笑うだけだった。
 巡が押す自転車のハンドルにぶら下がった買い物袋(エコバッグ)が、風を受けながら気持ちよさそうに揺れている。夕飯の買い物を終えた2人が家に帰らずセントラル・パークを訪れたのは、ディアナのパートナーであり巡のもう1人の母であるシュリ・マキシマと合流するためだった。合流、といってもそんな約束をしていたわけでも、シュリからセントラル・パークにいると連絡がきたわけでもない。シュリが真っ直ぐアパートに帰っているはずがない、というのが巡とディアナの共通認識であり、どちらが言い出すわけでもなく2人はセントラル・パークへとやってきたというだけだった。

 陽の光の中に微かに黄緑色が混じる。
 セントラル・パーク・オールドエリア。その球場跡地。
 通称「忘れられた球場」
 その忘れられた球場を見渡すベンチに短髪の女性が一人で座っていた。黒のタンクトップにライトブルーのデニム、というシンプルな服装は無駄な筋肉のないしなやかな身体によく似合っていた。ブラウンのサングラス越しに陽の光を眺める姿はトップモデルのようでもあったが、それも一瞬のことで、女性はまるで子どものようにホットドッグにかぶりついた。しかしケチャップもマスタードも口の端から噴き出すようなバッド・ドッグ(無様な食べ方)はしない。グッド・ドッグ(美しいホットドッグの食べ方)を知っているこの女性こそシュリ・マキシマ。因果巡の母親だった。
 シュリの姿を見つけた巡は短い口笛を吹いた。それは巡が手話を知らない頃に考えた母を呼ぶサインだった。サインを聞きつけたシュリが首を動かして巡を見た。サングラスを外して嬉しそうな顔をする。そしてすぐさま、巡の後ろに立つディアナを見つけるとその笑顔は苦笑いへと変わった。
 巡は自転車を止めるとシュリの隣に腰かけた。
「ワオだね。見つかっちゃった」とシュリがはじけるように笑う。
「ねえ、シュリ。私、朝、今日の晩御飯はご馳走ですって言いましたよね」
 立ったままのディアナが顔をしかめながらシュリに言った。
「メッセージでも送りましたよね」
「ちゃんと覚えてるよ」
 惚けるような顔でシュリが答える。
「それは楽しみだなあって返信もしたし。本当に楽しみだし」
「でも、ホットドッグを食べてるわ」
 呆れた声でディアナが言うった。
「食べたくなっちゃったんだよ。それに、2人の分もちゃんとあるぞ!」
 そう言うとシュリは、バトンズ(セントラルシティ老舗のホットドッグ専門店)の袋から2人分のホットドッグを取り出して見せた。バトンズのホットドッグはソーセージにケチャップとマスタードだけのストロングスタイルだ。巡はシュリの手からホットドッグを受け取ると、先ほどのシュリのようにかぶりついた。食べ方はもちろんグッド・ドッグだった。マナーとは親から子へと必ず受け継がれるものなのだ。
「しかもだな」
 自慢げにシュリが胸を張る。
「ワーオ。ちゃんとコーヒーもある」
 バトンズの紙袋の隣にあったスターバックスの紙袋をシュリは巡とディアナに向かって掲げた。巡は楽しそうに笑いながら拍手をして、ディアナは苦笑交じりに肩をすくめた。それからディアナは巡の隣に座り、シュリに向かって手を差し出した。
「そうこなくっちゃな」
 シュリが手渡したホットドッグを少しずつ齧りながら「ああもう、美味しい」とディアナは悔しそうに笑った。

 日が暮れていく。母2人と子が1人、並んでホットドッグを食べている。3人の影がゆっくりと伸びていき、重なり合った。この次元には、この星には、無数の言語がある。その1つを使って表すのなら、この時間は「幸福」であった。「幸福」が今ここにあった。

 セントラル・パーク・オールドエリア。
 忘れられた球場。
 18年前の真夜中に3人は出会った。
 もしあの日、この場所へやってきたのがシュリ・マキシマでなかったとしたら。ディアナ・ペールライトでなかったとしたら。そしてこの次元に落ちてきた子どもが因果巡でなかったとしたら。
 全てはバランスで成り立っていた。



正午を告げる鐘の音が街の隅々へと響きわたっていく。

 蠍(エル・スコルピオ)はその音を聞きながらゆっくりと新聞を広げた。
 地上60階。この街でもっとも高い建物の屋上にあるリストランテ。毎日彼はその店のテラス席で昼食をとる。彼以外に客の姿はない。
 いつもの午後、いつもの店。
 彼は不変と退屈を好んでいた。
 髪をきっちりと撫で付けた細身のウェイターが、ワルツのような優雅な足取りで鰻のトマト煮込みを運んでくる。
 いつものウェイター。いつものメニュー。
 最近、彼の身の回りは騒がしく、苛立つ日々が続いていた。しかしそれもまもなく終わる。この店のウェイターが、こちらが何も言わずともガス抜きの炭酸水をグラスに注ぐように、待っているだけでいい。
 そして、スマートフォンが鳴った。
 早くもない。遅くもない。
 丁度良いタイミングだと蠍は微笑むとスマートフォンの通話ボタンを静かに押して、言った。
「終わったか」

「はあ? なにが終わったって」

 聞いたことのない女の声だった。そして声が大きい。大きすぎる。蠍はスマートフォンを耳から離し、顔をしかめた。電話の向こうでは女が話し続けている。
「終わりかどうかって言うんならさ、終わっちゃいない。むしろ始まったって感じ? アンタにとってもアタシにとってもここが始まり」
 声が大きすぎる。こちらの鼓膜を破壊するのが狙いなのか? いや、そもそもこいつは、お前は。
「誰だ?」
 蠍の問いに女は笑い声で答えた。スマートフォンが吹き飛ぶくらいの豪快な笑い方だった。
「言ったところでアンタは分からない。アタシだってアンタのことはなんにも知らないんだ。これからゆっくりとお互いを知っていこうじゃないか。時間はたっぷりとあるんだ」
「誰なんだ、お前は」

 ここでカメラが蠍の横顔を捉えながらゆっくりとスライドする。カットが切り替わり、とあるホテルの部屋にいる燃えるような赤い髪をした女の横顔が現れる。女は答える。

「邪魔者(トゥルバドール)」

 女の目の前では、蜂のような黄色と黒の縞模様のスーツを着た男が椅子に座ったまま気絶している。男の腹のあたりに置かれたスマートフォンに向かって女は話す。
「名前なんか気にする必要はないよ。ただこれだけ、この言葉だけを覚えてくれればそれでいい」
カメラが女の顔を正面から捉える。メタルブラックのサングラスは黒曜石の如く全てを吸収し何も映し出さない。女がカメラ、つまり向こう側にいる視聴者(私たち)に向かってニヤッと笑い、そしてこう言う。

「I watching you」(アタシはアンタを見てる)
『Jacky Mu』のタイトルロゴ。そしてお馴染みのテーマソング



 その瞬間、リビングで拍手が巻き起こった。因果巡とディアナ・ペールライトの2人がお互いに満面の笑みで手を叩いていた。その拍手はテレビの画面の向こう側にいる親愛なる「彼女」に送られ、そして自分たちのすぐ近くにいる愛すべき「彼女」へと送られた。彼女、シュリ・マキシマは鳴り止まない拍手を浴びながら「いいから。続きを見なよ」と照れたように笑った。

『Jacky Mu』(ジャッキームウ)はシュリ・マキシマ主演のテレビドラマで、シリーズを重ねるごとにファンを増やし人気を集めてきた。今日は第7シーズンの初回放送日である。
 ディアナ特製のロースト・ビーフ・スシ・サラダをたっぷり堪能した後、リビングの大きな緑色のソファに並んで腰かけた3人の家族は、各々の飲み物と一緒にとてもリラックスした気持ちでドラマを見ている。画面の中では、縞模様スーツの男が繰り出す針のような武器を使った攻撃をシュリ演じるジャッキーが涼しい顔で避けていた。長らくスタントの仕事をしてきたシュリの経験がアクションシーンにしっかりと生きていた。

 シュリ・マキシマ演じる主人公のジャッキー・ムウは、自らを「邪魔者」と呼ぶ現代の旅人だ。彼女は強者が弱者に対して振り下ろす理不尽や横暴を決して許さない。そしてトラブルメイカーでありトラブルシュータ―でもある。危険の中でもユーモアの精神を忘れず、人に好かれ人を愛しているが、その背後には常に孤独の影が付きまとう。そんな複雑なキャラクターをシュリは見事に演じていた。
「I watching you」
その決め台詞とポーズ(右手の人差し指と中指を自分の目へ向けてから、その2本指を相手へと向ける)は、世界中のファンやセレブたちが真似をしている。「お前を見てる」という台詞は、強者への警告であり、弱者への励ましであり、自分への戒めの言葉だ。ジャッキー・ムウは目を逸らさない。真っ直ぐな目で、自分が見るものへ向き合う。ある時は組織に属し、ある時はたった1人で弱者のために戦い、その戦いが終わるとその地を去っていく。旅人であり邪魔者である彼女は、同じ場所に留まることができない。

「マタ・タビ・スタイル」

 それが『Jackie Mu』というドラマの魅力だった。主人公が様々な世界を旅するように、サスペンス・ホラー・ウエスタン……ドラマの雰囲気は各シーズンで目まぐるしく変化するのだ。ちなみに今シーズンはSFシーズンと題しタイム・トラベルがテーマになっているようだった。1話からすでにタイム・マシンの存在が明らかとなり、ラストにはジャッキーの精神的メンターであり彼女が幼い頃に亡くなった祖母、マジコ・ウズマキ(ベテラン女優のタイガーマチコが演じている)が時を超えてジャッキーの前に現れた。(その瞬間、巡もディアナも思わず息をのんだ。そしてその様子を見ていたシュリは笑いをこらえていた)

 第1話の放送が無事に終わった。再びリビングでは拍手が起こる。シュリも拍手をしていた。画面が暗転し制作スタッフの名前が順々に表示される。3人は一瞬顔を見合わせてから名前が変わっていくのをジッと見つめて、待った。そしてその時がやってきた。

 脚本 ディアナ・ペールライト

 画面の中心にハッキリとその文字が映し出されたのを見たシュリは、ディアナに握手を求めた。ディアナは少しはにかみながら、その手をしっかりと握った。ディアナにとって初めての小説以外の仕事だった。シュリが「自分のパートナーが小説家で」と話したことを覚えていた『Jackie Mu』の監督から直接依頼がきたのだ。
 ソファで2人の間に座っていた巡は、結ばれた母たちの手の上に自分の手を重ねた。心の中が優しい温度で満たされていくのハッキリと感じる。今日は記念すべき日だった。

 シュリ・マキシマはスタントの仕事を自分の天職だと思っている。誇りに思っている。しかし長い間、映画業界内でのスタントの地位は低かった。多くの人間からオーバーストック(在庫過多)のエクスペンタブル(消耗品)だと思われていた。さらに彼女の場合は「女性のスタント」というだけで奇異の目で見られることもしばしばだった。そのことで面と向かって馬鹿にされたり、下品な冗談をぶつけられることも多かった。どれだけアクションができても依頼がくるのは主役ではなく端役ばかりで、そのほとんどが何らかの事故や事件の被害者だった。
 ディアナ・ペールライトもシュリと同じく自身の仕事を愛していた。自分が子どもの頃に夢中になったような作品を書きたい、という強い気持ちで児童文学の作家になった。しかし自分の仕事や作品が軽んじられていると日々思わずにはいられなかった。大多数の大人たちが子どもの向けの本だと鼻で笑う。作家や出版社に所属する人間たちの中にもそういう大人たちがいた。自身が子どもだったことを忘れてしまっている大人たち。本当はその人たちにこそ読んでほしい、とディアナはずっと思ってきたが彼らは手に取ることさえしなかった。作品の出来よりも彼女の容姿を褒め、作品のストーリーよりもディアナのストーリーを知りたがった。

道理に合わないことが起きている。それもずっと。

 彼女たちはそう思い続けてきた。
 シュリ・マキシマとディアナ・ペールライト。2人はよく似ていた。理解者に出会うことができず、人知れず孤独を感じながら暮らしている、という点も共通していた。2人は時々無性に死にたくなった。理由のない死の誘惑。楽しい時も悲しい時も関係なく、それは訪れた。繰り返しやってくる死の誘惑のことを彼女たちは誰にも言わなかった。言えなかった。それが2人をより深く孤独へと誘った。この次元では死とは終わりだ(そう思わない者もいないこともないが)そう考えられていた。終わり。おしまい。ゲームセット。本当はそれがただの「チェンジ」でしかなく、その先もあるのだが2人は他の人類と同様にその事実を知らなかった。

孤独で、道理に合わず、死の誘惑が繰り返される。

 それはまさしく荒野だった。自分以外の誰もいない荒野を歩き続けるのだ、と2人は自らの人生を早々に結論づけた。しかしそれは大きな間違いだった。彼女たちが想像するよりも荒野は広かったのだ。
 きっかけは空から落ちてきた光る赤子だった。そう、我らが因果巡だ。因果巡の落下が荒野と荒野を繋いだのだ。18年前。セントラル・パーク。忘れられた球場。シュリとディアナは出会った。その時の2人にとって、赤子が空から落下してきたことよりその赤子が光り輝いていることよりも(いや、当然それらも驚くべき出来事ではあったのだが)自分と同じような、荒野を歩いてきた人間と出会えたことのほうが驚きだった。荒野に立っていたのが自分だけではなかった、という事実に彼女たちは喜び、安堵した。そしてこれからは1人ではなく2人で荒野を歩いていくことに決めた。
 2人を繋いだ赤子の存在もまた、彼女たちの人生を変えた。幼き者。小さき者。尊き者。赤子は命そのものだった。この世界で懸命に生きようとするその命の煌めきは2人へと伝播した。かつて死にたいと思ったように今度は生きたいと強く思った。死の誘惑は変わらずやってきたが、彼女たちはもう1人ではなかった。
 彼女が死を想う時、彼女は優しく寄り添った。
 彼女が死を想う時、彼女は静かに見守った。
 彼女たちが死を想う時、赤子を抱いて彼女たちはジッとしていた。
 死に向き合うことは生に向き合うことと同意義だった。
 それでも彼女たちを取り巻く世界が、環境が、劇的に変わることはなかった。しかし少しずつ、確実に変化は起きていった。それは世界からのささやかな祝福だった。2人は迷わなかった、導きの光ならすぐそばにあった。シュリは車を飛び越し、ディアナは物語を書いた。そうやって歩いてきた。そして今、ディアナが書いた物語の中でシュリは車を飛び越していた。
 2人が死にたいと思うことは“ほとんど”ない。そう”ほとんどだ”。死の誘惑が完全になくなることはない。それが生きるということだった。そして、今の2人にとっては、死を想うことそれすらも生きる力の1つだった。

Later that dead of night(その真夜中のこと……)

 因果巡は暗闇の中で目を覚ました。ベットサイドの時計を見ると午前2時と表示されている。夜が底を打ち、跳ね返ってくる時間だ。巡は音も立てずにベッドから降りると、部屋を出てリビングへ向かった。その途中、2人の母の寝室からそれぞれの寝息が聞こえてくるのを耳にして、巡は安堵した。
 いつものように静かな夜だった。グラスに注いだ水を飲み、巡は何をするわけでもなくソファに座って天井を眺めている。電源の切れたテレビは一枚の岩(モノリス)のようだ。
 こうして真夜中に目が覚めることは、因果巡にとってもはや当たり前のことだった。毎晩ベッドに入って目を閉じると睡眠の"ようなもの"が一瞬だけやってくる。それから数時間後には目が覚めて、その後はもう目を閉じても何もやってこない。瞼の後ろに瞳があるのを感じるだけだ。だから因果巡は夢を見ない。悪夢にうなされたことも今見た夢の続きが見たいと思ったこともない。夢を見る間もなく目が覚めた。   
 因果巡が成長するのにあわせて睡眠の"ようなもの"がやってくる感覚も短くなっている。それは何かしらの心身の不調が原因なのかというとそういうことではなかった。そして眠れないから心身が不調になるということもなかった。むしろ彼の体は健康そのもので、成長するほどに頑健になっている。素晴らしい。実に素晴らしいことだ。
 もし医師の診断を受けたとしても因果巡の不眠の原因は分からないだろう。なぜなら原因がないからだ。結果だけがそこにあるのだ。因果巡の体は睡眠を必要としていない。それが答えだった。因果巡本人もその事に気づいている。ではあの、目を閉じるとやってくる睡眠の"ようなもの"は何だ? あれはこの次元の目には見えない規律(ルール)を彼の身体がなぞっているだけにすぎない。旅行者がその土地に馴染むためにその土地の者の真似をすることと一緒だ。そしてこの事は因果巡も知らない。
 どこかで星が流れる音がする。因果巡は天井から視線を外して部屋を見渡した。ディアナの美味しい手料理。照れ笑いするシュリの声。2人の母の手の温もり。時間。さっきまで確かにあった時間。あの素晴らしい時間と今自分が存在する時間が、自分の中で上手く繋がらない。黒い鏡のようなテレビ画面に自分の顔が映っている。
 この時間、シュリ母さんもディアナ母さんもいない、学校の友だちもいない、誰もいない時間の僕は、いるけどいない。あるけどない。時間の外側に弾き飛ばされてしまったような、違う、元々自分が時間の外側にいたことに気がついたようなそんなふうに感じる。真夜中に1人でいる時はいつだってそう思う。
 因果巡は暗闇の中で自分の手を見た。どこかでまた、星の流れる音がした。巡は右手の人差し指と中指を立ててピースサインを作る。
『Jackie Mu』面白かったな。シュリ母さんもディアナ母さんもとっても喜んでとっても幸せそうだったな。
 あの煌めく時間は、この輝く記憶は、本物だったと自分に証明するように巡は2本の指を自分の両目に向け、それからゆっくりとテレビに映るもう1人の自分へと放った。

 I watching you(僕は君をちゃんと見ている)

 その瞬間、世界が繋がった。

 光だ。光あれ、だ。電源が切れていたはずのテレビに光が灯る。おお、因果巡よ。おお、おお、我らが因果巡よ。

 Watching you too(俺たちもちゃんとお前を見ている)

 テレビの放つ光が部屋を侵食するように広がっていく。その光に飲み込まれながら、因果巡は自分の指を見た。
 僕の指がテレビをつけたのか?
 彼の目に映るのは、いつもと変わったところはない、ただの指だ。いや、そんなことはない。長くしなやかな指だ。ボールを投げるのに適した、バットを握るのに適した、良い指だ。
 因果巡の目の前で、映像は目まぐるしく変化し続けている。白黒の砂嵐、赤、青、黄色……鮮やかな色が並ぶカラーバー、何も書かれていない図面とPlease Standby(お待ちください)の文字、点滅するアンテナのイラストとSIGNAL LOST(信号損失)の文字、そしてまた白黒の砂嵐。次々と切り替わる。画面の中で映像が必死に身をよじる。その激しい光の点滅に晒されながら、しかし因果巡は瞬き1つせずにテレビを見続けている。

混じり合う、次元、空間、記憶が。
重なり合う、時間、言葉、物語、チャンネルが。
そして、

濃紺の星空が画面に映し出された。

 空気が澄んでいるのだろう、空に輝く星々がとても美しい。その星空へ被さるように歪な球体が現れた。我々はこの球体を知っている。いや、知らない。知っているだろ。因果巡は知らないんじゃないか。確かにそうだ。知らないし知っている筈だ。確かにそうだ。
 その球体は野球ボールによく似ている。しかしボールと呼ぶにはあまりにも“生々しかった”。球体の表面はボコボコと膨らみあちこちに紫色のアザのようなものがあり、野球のボールのように左右に奔る縫い目は、縫ったばかりの傷跡のように引きつって、ピクピクと動いていた。
 球体が動き始める。惑星の自転のようにゆっくりと確実に回転する。“惑星”の裏側が少しずつ露わになっていく。

 最初に現れたのは目だった。

 次に鼻、そして口。パーツが揃う。それは人間の顔だった。しかも1つではない。球体のあちこちで、配置されたパーツが組み合っていくつもの顔を作っていた。キョロキョロと忙しく動く眼球。鼻息に震える鼻腔。微笑みを作る唇。顔はそれぞれの意思を持って蠢きながら、皆揃って因果巡を見ていた。さらにそのうちの一つは因果巡に向かってウインクまでした。かわいいやつだ。巡は驚くことも嫌悪感をあらわすこともなく、その球体をじっと見つめている。
 まず、ファンファーレが鳴った。
くるぞ。
次に、それに合わせて球体表面の各々の口が動いた。
くるぞ。
そして、叫んだ。
きたぞ。

「SUGBN!(スーパーウルトラグレートベースボールニュース!)」

SUGBNだ! 球体にある全ての顔が満足そうにニヤッと笑う。実にクールだ。笑顔にまみれた球体は、次第にその姿を薄めて、消えた。それと同時に巨大なSUGBとが順に空の向こうから飛んできて、横に並んだ。

SUGB

 しかし、拍手はない。喝采もない。本当か? 本当だ。SUGBNが始まったというのにか? ああ、SUGBNが始まったというのにだ。異常だ。異常なことが起きている。何も起きないままSUGBの文字を空に残して、カメラはゆっくりと地上へ移動した。

γ時空線。
真夜中の王国(ミッドナイト・キングダム)
風の終点。星の通り道。六馬の棲家。

-リート草原-

 星空の続きのような濃紺の草原の景色。穏やかな風に草花が揺れている。風の軌跡がさざ波のようで広がり、それを追うように真っ白な馬のような生き物の群れが駆けていった。紺色の静寂。景色の映像がしばらく続く。カメラマンは少し、いや、かなりセンチメンタルになっているようだな。映像からそれが分かる。そこへ突然口笛の音が割り込んだ。下から上へ昇っていくような音だった。慌てた様子でカメラがそちらへ向くと、

真っ赤な唇が立っている。

ハンサム・リップだ!
 そう、ハンサム・リップだ。唇人、ハンサム・リップ。唇が立っている、といっても唇から手と足が生えている、のではない。人類が「アタマ」と呼ぶ部分に唇が乗っている。目もなく鼻もなく耳もない。髪は? ない。あごは? ない。歯はどうだ。歯はあるだろう、唇だから。じゃあ舌もあるな。ある。えくぼはどうだ。えくぼはない。あれは頬にできるものだから。色艶の良い唇だけがそこにある。仕立ての良いスーツを着たハンサム・リップは少しだけ唇を傾げ、カメラに向かって微笑みかけた。
 ハンサム・リップがいるということは当然その隣には。
EEだ!
 そう、EEがいる。EEもハンサム・リップとお揃いのスーツを着ているが彼は唇人ではない。彼はリビングメタルマイクロフォンだ。目も鼻も耳ももちろん唇もない。その代わりに冷たく熱い機械の頭(コールドホットマシンヘッド)を持っている。今日の彼のクールなその頭部が柔らかな夜の中で硬質な光を放っていた。ハンサム・リップとEE。彼らはSUGBNのたった2人のキャスターでありアンカーだった。ハンサム・リップの唇が動く。

「SUGBNのお時間です」

 あらゆる次元に彼の声のファンがいる。低いが不快ではない、聞き取りやすく心地よく耳に馴染む声。しかし今の彼はどうだろう。その声からは覇気も魅力もまったく感じられない。
「今季のSUGBは開幕から波乱の幕開けでした。前回の覇者である〈イエローイエローイエローイエロー〉が追加した規則(ルール)により全チームのユニフォームがイエローとなり、まさしくオールイエローとなった今シーズン。まさか〈イエローイエローイエローイエロー〉が自分たちのアイデンティティを喪失しさらに消失するとは思いませんでしたが」
 ハンサム・リップはそこで言葉を止めると、あろうことか舌を出し、それから唇を左右に振った。彼は疲れ果てているようだった。
「あとは、まあ、特に言うことはありません。打ったり投げたりBlah-Blah-Blah(何とかかんとか)それで、今シーズンを制したのは〈チルドレン・オブ・ザ・スコーン〉でした。彼らは勝者の特権である規則の追加を破棄し、その代わりに〈ザ・ゴッズ〉(その名前を言う時だけハンサム・リップはかすかに口角を上げた)の復活を願ったとのこと。来シーズンは少しだけ、そう少しだけ楽しくなりそうです。さて、EE。君は今シーズンについてはどう思った?」
 ハンサム・リップがEEに唇を向けた。カメラもEEをアップにするがピクリとも動かない。
「EE?」
 ハンサム・リップが再度名前を呼ぶとEEの金属の腕が動いた。関節部分や接合部からのノイズはない。日々のメンテナンスを怠っていない証拠だ。彼は細長い三本の指で自分の側頭部にある”つまみ”を大胆に捻った。
「さて、君は、どう、思っただと?」
 ひどいハウリングだ。カメラが揺れ、ハンサム・リップが唇を歪めた。
「リップ。リップリップリップ。俺たちが今シーズンいったい何を見させられたか忘れちゃいないよな? ええ? 子どもが遊ぶピポヤード(ほとんどの次元で遊ばれている球とカード使った遊戯のこと。残念ながら因果巡が暮らす次元では遊ばれていない、というか存在すら知られていない)みたいな試合ばっかりだったじゃないか」
 頭を激しく揺らしながらEEが早口でまくしたてる。
「正直に言おう。言いたくはないが言っちまおう。SUGB(スゥーグブ、と彼は言った。スーパーウルトラグレートベースボールの俗称。EEと彼の熱狂的なファンだけがそう呼ぶ)の人気はもはや地に落ちてる。いや、落ちる地もないからずっと落下したままだ。低迷なんてもんじゃない。そもそも今のSUGBを見ているやつが今どれだけいるんだ? 俺たち以外誰も見ていないんじゃないのか」

 過激で遠慮がなく、鋭くて力強い。それがEEの持ち味だった。彼の口調は常に乱暴で刺々しい。しかしそれも愛ゆえにだ。その証拠に彼の話にはいつだってユーモアがあった。だが、今は違う。彼の言葉は悲壮感に満ちている。言葉の”尖り”は内側に向いて、彼自身を傷つけている。
「誰もがSUGBへの興味を失ってる。誰もがSUGBに魅力を感じなくなってる。俺たちだってそうだ、リップ。それが、そのことが、何を引き起こすのか知っているのに。あれを見ろ!」
 EEが振り返り、空を指さした。リップもゆっくりと振り返る。カメラが追う。EEの指。丸くカーブした金属の指の先で、

空が弾けた。

 ぼこり、と。沸騰した湯の底から浮かび上がる泡のように。ぼこり、と。活火山の表面で吹き上がる泡のように。空のあちこちで。ぼこり、と。もう2度と誰も住むことができなくなった汚染地帯の泥のように。ぼこりと、ぼこりと、膨らみ、そして、弾けた。
 あかあおきいろみどりむらさきしろとくろ。
光り輝く鮮やかな液体が、弾けた空から溢れ、零れ、伝い、流れていく。弾けて混じる。弾けて混ざる。馬の鳴き声が聞こえる。何処かで生き物が泣いている。静寂の青で染まっていた、あの美しい空はもうなかった。あるのは色彩の暴力に晒されたキャンバスだけだ。不気味なほどに賑やかで、恐ろしいほど華やかな、極彩色の終末。次元が終わるときはいつもこうだった。


 因果巡は一つの次元の終わりを見る。黙って、瞬きもせず、見ている。その心にあるのは怒りか悲しみか、その顔に浮かぶのは嫌悪かそれとも歓喜なのか。違う。その、どれでもない。そのどれもがない。因果巡の心は凪いでいる。その表情は無である。なぜなら。なぜならば。

俺はこの光景を知っている。
僕は知らないよ。
何度も見た。
こんな恐ろしい景色は初めて見た。
ジャンボジャンボホテルで、
変な名前のホテルだね。
窓の外を見るたびに世界が死んでいくんだ。
それは悲しいね。
悲しい?

 因果巡の瞳が何重もの色で染まる。頭が、手が、足が、自分のもので、しかし自分のものではない。それらは重なりあい、時に離れて、また重なりあった。分裂とは違う。分かたれていない。どちらも初めからそこに存在している。のにも関わらず。確かに自分はここにいて、しかし別な場所にも自分が存在するような感覚。「2つだ」と因果巡は思う。

心が2つあるんだ。

 まずいぞ。まずいな。混乱している。この場合は混線じゃないか。確かに。どっちでもいいだろ! そうだな!


 番組は続いている。EEが再びカメラへ向き直って叫ぶ。
「いいか、いいか! SUGBがつまらなくなった結果あちこちで世界が崩壊し始めている。このままじゃ宇宙そのものがなくなるかもしれない。いいか、SUGBに必要なのは惑星をすり潰して作る豪華絢爛な球場でもなけりゃあ”お古”を呼び戻すことでもない。英雄(ヒーロー)だ。英雄が必要なんだよ! しかもSUPERでULTRAでGREATなBASEBALLELが必要なんだ! おい!見てるか! おい! お前、もしくはその隣のやつ、その子ども、その親戚、その隣人、どれかは知らないがお前! 来い! 今すぐSUGBへ来い! 来……」
 突然声が止む。それと同時に、急に息ができなくなったかのようにEEが喉(正確に言うならば頭部と体を繋ぐ金属の棒(ロッド))を掴んだ。それからハンサム・リップを(彼には目がないが確かに)睨みつけた。
「度が過ぎるぞ」
 そう言ってハンサム・リップは(彼にも目はないが確かに)EEを睨み返した。左手にはEEの側頭部についていたはずの”つまみ”を持っていた。
「私たちはニュースキャスターだ。そうだろ、EE。ニュースを読むのが私たちの仕事だ」
 自分に言い聞かせるようにハンサム・リップが言った。どういうわけか、その声にはほんの少しだけ活力が戻っている。”つまみ”を取り戻そうと掴みかかるEEを片手で押さえながら、ハンサム・リップがカメラを見た。彼らの頭上ではショッキングピンクとモスグリーンとレモンイエローが渦を巻き始め、背後からはパープルレッドとセルリアンブルーの火柱が迫っている。
「一部不適切な発言があったことを私が代わりにお詫びいたします。来シーズンも私たちはSUGBを見届けます。もうすっかり飽き飽きしていますが……おっとこれは失礼。面白くなるかもしれませんから。それではまた。次回のSUGBNでお会いしましょう」

Goooooooooood Bye


 テレビが消えた。Get out R.G.B. 光の波は消え去って、取り残されたように因果巡は薄暗い部屋に1人で立っていた。頭の中で絡み合っていた線は解かれ、レイヤーがズレてしまったような体の感覚もない。因果巡は自分の手をしばらく見つめた後、ゆっくりと自分の部屋へ戻った。途中2人の母の部屋の前で立ち止まり、彼女たちの寝息を聞いた。同じ世界。同じ場所に自分は生きているのだと感じたかった。それから自分のベッドに横になると目を瞑った。この世界の規則(ルール)に従うために。この世界で生きるために。しかしいつまでたっても眠りは訪れなかった。

第2話『この美しき世界で』

SUGBR
SUGBと関係する次元、
またそこに属する世界群は、
SUGBの運営に奉仕し、
SUGBの存続の為に尽力する

つづく

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