SUGB 因果巡 第1話「廻と巡」

 雷が落ちて一塁手と走者がが吹き飛ばされた。
 いつにも増してジャルマウント球場の磁場は乱れていた。走者が出るたびに落雷が起きるので試合自体は全く動くことはないが、チームの人数は着々と減っている。両チーム共にネクロマンサーもバイオメトリックリペアーも用意しているもののチームメイトの肉片が少なすぎた。
 しかしSUGB(スーパーウルトラグレートベースボール)に引き分けはない。どちらかが滅亡するまで続けるのがルールだ。そして、SUGB(スーパーウルトラグレートベースボーラー)はルールを重んじる。だから試合は続行される。
 球場にいる者は、自分の運命を呪うような顔か、あるいは幸福そうな笑顔を浮かべていたが、マウンドに立つ因果廻だけは落ち着いた表情だった。捕手からのサインに二度、首を振り投球姿勢に入る。地を這うようなアンダースローだ。
 ベースボールは確率のスポーツだ。打者のコ・ロ・バモは初球から肩に備え付けている直進ミサイルを発射する確率が高く、今も実際に発射されたミサイルが廻の頭上を突っ切って、バッググラウンドをえぐり取るように破壊した。
 ワン・ストライク。
 捕手の背後に控えし球審の霊体の高らかな宣言が響いたその時、それをかき消すように「祝福を!」と相手側のベンチから誰かが叫んだ。
 コ・ロ・バモの身体が激しく発光する。
 瞬間。閃光。
 全てが赤い光に包まれていく。
 そして、ジャルマウント球場は次元ごと消失した。

 キングサイズのベッドのど真ん中で廻は目を覚ました。
 すぐに自分の身体を確認する。パーツはすべて揃っている。おそらく。最悪、右手が無事ならそれで構わなかった。サイドボードにはいつものように分厚いノートと鉛筆が置いてある。廻はノートを開き、右手に鉛筆を持つと1イニング辺りの投球数、球種、バッターの癖、そして自分の死亡理由と死亡回数を細かく記していく。
 たっぷりと時間をかけてノートを書き終えた廻はベッドから降りた。
 記録は武器だ、と廻は信じている。凡庸な投手である自分が、SUGBを生き抜くための唯一の武器だと信じている。
 ジャンボジャンボホテル888階。ガラス戸の外では、そこかしこで星が渦を巻いていた。変わらぬ景色。球団と結んだリスポーン契約により廻の身体と魂は必ずこの部屋へと返ることになっている。繰り返される景色。しかし廻は眼前の暗黒空間を見つめ続ける。予感がする。
(予感? そんなものはこの世界に存在しない。あるのは確率から導き出された真実だけだ)
 廻が振り返ると、女が部屋に立っていた。
「お疲れ様でございます。因果廻様」
 女の体は黄金で出来ていて、薄明るい部屋の中でも艶やかに輝いている。そして、巨大だ。その頭は天井にまで届き、廻を見下ろしている。目も鼻も口も耳もないが見知った顔だった。
 神の使い。勤勉な機械。E-R-Iという名のSUGBA(スーパーウルトラグレートベースボール協会)のエージェントだ。また、予感がする。
(予感ではない。ノートにも書いていた確定事項の一つが訪れたのだ)
「試合はどうなった?」
 因果廻はE-R-Iに聞いた。
「ジャルマウント球場・チーム・全て消失いたしましたので、当該試合は無効試合となりました」
「シーズンは?」
「対戦チームの消失により全試合続行不可能。唯一残った the gods が無条件で優勝となりました」
 いつも通りの丁寧な口調でE-R-Iは答えた。その声に感情は一切ない、ように聞こえるが、因果廻は彼女の声の微妙な変化を聞き分けることができる。その声には微かに揺らぎがある。もう、予感はしない。
「the gods はどのような『追記』をした?」
「因果廻様の名鑑登録です」
「そうか」
 廻は目を閉じた。
「おめでとうございます。因果廻様はSUGBD(スーパーウルトラグレートベースボール名鑑)に登録されることとなりました。SUGBにおける因果廻様のこれまでの功績はすべて余すところなく永遠に記録されます」
 E-R-Iが歌うような口調で祝福を告げた。
「名鑑登録までの時間は?」
「あと十分ほどです」
 廻はゆっくりと目を開いた。それからサイドボードのノートを手に取ると真っすぐにE-R-Iへ掲げた。
「このノートはSUGBL(スーパーウルトラグレートベースボール図書館)に寄贈する。契約は覚えているな」
「はい。そのように契約いたしました」
「よし」
 廻は頷くとノートをサイドボードへ置いた。それから、いつものリスポーン後のようにストレッチを始めた。E-R-Iは黙ってそれを眺めていた。

SUGBR(スーパーウルトラグレートベースボール規則)名鑑に登録された選手は永遠に記憶と記録の中で生き続ける。

「待たせた。登録を頼む」 
 ストレッチを終えて廻は言った。
「ユニフォームに着替えても構いませんよ?」
「いや、いい」
 廻はジャンボジャンボホテルの細いブルーストライプのパジャマを密かに気に入っている。
「かしこまりました。それでは、名鑑への登録を開始いたします」
 そう言ったE-R-Iの掌に小さな小さな本が出現する。本は自らパラパラとページを送っていく。それと同時に因果廻の身体が霞んでいった。突然、廻が何かを思い出したような顔でE-R-Iを呼んだ。音のない声だった。
「どうされました?」
(俺はカードにもなるのか?)
「はい。名鑑登録選手は必ずSUGBC(スーパーウルトラグレートベースボールカード)になります」
(それは楽しみだ)
 因果廻は微笑んだ。そして、消えた。跡形もなく消えた。消えた跡形はどこにある。SUGBDの中にある。永遠に。永久に。
 静まり返った部屋にE-R-Iは立ち尽くしていた。仕事が終わればマザーベースへ即帰投するのがエージェントの決まりである。しかしE-R-Iは動くことができなかった。彼女は因果廻の残した笑顔の残像を頭の中で何度も繰り返しながら、彼女らしく、彼女のやり方で泣いた。
「TEST…これは確認作業です。寂しくなります。TEST…実際の業務とは関係ありません。TEST…廻様。TEST…ああ、廻様。TEST…これは確認作業です。TEST…さようなら。TEST…実際の業務とは関係ありません……」
TEST…TEST…TEST…TEST……

 そして。

 飛んできたボールに向かって、因果巡は手を伸ばした。
 4月。季節は順調に春へと移り変わっている。
 透き通るような青い空を落下してくる白球は、巡が必死に伸ばした左手、新品のグローブの端に当たった。異常な重力の影響を受けたわけでも、抵抗できないほどの熱風が吹いていたわけでもない。それはただのキャッチミスだった。グローブにはじかれたボールは狙いすましたように巡の頭の上でバウンドした。驚きと衝撃に巡は身体をのけ反らせ、尻もちをついた。
「へたーくそー!」
 遠くで女性が笑っている。巡が取りそこなったボールは彼女が投げたものだ。後頭部を刈り上げた真っ赤なショートヘアが光を反射して、炎のように揺らめく。少年のような眼差しと女性にしてはがっしりとした体つき。お気に入りの黄色いフライトジャケットが陽光を受け、鈍く光っている。
 シュリ・マキシマ。巡の母だ。その笑顔は太陽のように眩しかった。
 ボールは巡の背後、セントラルパークの芝生に着地し、数回跳ね、転がった。巡は照れた顔をして立ち上がると、ボールを追いかけた。
「メグル。ゆっくりゆっくり。気を付けて」
 遠くでもう1人、女性が笑っている。巡がボールをキャッチできたのなら次は彼女へ向かって投げるはずだった。
 肩の辺りで切り揃えた金髪は、光を吸収したように明るい色だ。女性らしいしなやかな関節の動きで巡に手を振っている。耳元には小さなダイアモンドのピアスがささやかながら優雅に光っていた。
 ディアナ・ペールライト。彼女もまた巡の母だ。その笑顔は月のように密やかだった。
 因果巡には2人の母がいる。血の繋がらない、しかしキャッチボールを一緒にできるほどに仲が良い、大切な2人の母がいた。

第621次元。
天の川銀河。
Ω時空線。
太陽系第三惑星。青い星。奇跡の星。

地球。

 8年前、因果巡はこの世界に"落下"した。祝福にしてはあまりにも乱暴な閃光と共に落とされた。その光はこの世界に住む全ての者が目撃している。新聞にもTVショーにもネットニュースにも取り上げられ、SNSや動画サイトでは今でもその時の動画が拡散されている。しかし、その光の正体が赤子だと知っているのは、赤子本人以外ではこの世界でたった二人だけだった。
 因果巡の落下地点は、ニューアークシティー・セントラルパーク・オールドエリアにある球場跡地だった。建設から一度も使用されることもなく、そもそも完成したのどうかも分からないままに誰が何のために建てたのかすら忘れられてしまったその場所を、地元の人々は「忘れられた球場」と呼んでいる。ニューアークシティーの終わらない都市開発計画と終わらない緑地開発計画が生み出したキメラでありフランケンシュタインの怪物でもある奇妙な場所。色褪せたスコアボードに壊れた照明器具。バックネットもフェンスもない、ベースラインすら消え去った球場とは名ばかりのその場所に因果巡は落下した。昼と夜の境目の時間に。紫色をした空を駆け抜けて。一人で。音もたてずに。
 その場所へ最初にやってきたのはシュリ・マキシマだった。その日の彼女はガールフレンドにひどいフラれ方をしたばかりで、死にたいと思っていた。ガールフレンドの一件で(もちろん理由の一つではあったが)死にたくなったわけではない。彼女はときどき訳もなく死にたくなるのだった。例えば熱々のピザを食べ終えた時。例えば友人たちとビデオチャットを使っての通話を終えた時。例えば夜がいつもより深い時。
 死に場所を求めるようにふらふらとセントラルパークを歩く彼女がふと、顔を上げると、今までに見たこともないような激しい光が落ちてくるのを目にした。手を伸ばせば切り裂かれてしまいそうな眩い閃光。気が付くとシュリは光を追いかけていた。無意識のうちに死への欲求を振り払って走った。そして彼女は出会った。導かれるようにたどり着いた「忘れられた球場」で。誰に? 我らが因果巡に。
「どうなってんの、これ」
 マウンドに、仰向けで、浮かぶ赤子。近づくと、赤子はこの世のものとは思えないくらい白い布で包まれているのが分かった。ぼんやりと光っている。赤子は眠っているようだ。触れようか触れまいかと迷っていると向こうから誰かがやってくるのが見えた。
「誰?」
 シュリは身構えた。彼女にはカラテ、アイキドー、ジュードー、バリツの心得がある。そして宇宙人とかゴーストとかを信じている。
 待って、とやってきた誰かがほの明るい闇の中から叫んだ。
「怪しいものじゃ……いえ、怪しいのはあなたもだけど。私は星を追いかけてきたの」
 "誰か"は女性だった。紺色のスウェットの上下を着ている。綺麗な金色の髪。少なくとも宇宙人やゴーストには見えない。シュリは構えを解いた。
「じゃあアタシとおんなじだね」
「あなたも星を……ちょっと待って!? 浮いて、え? 子ども?」
 自分より驚いている人間を見て、シュリは少しだけ落ち着いた。
「言っておくけどアタシの子じゃないよ。アタシも今きたところ」
「宇宙人かしら?」
「どうだろ? 見た目は私たちとよく似てる」
 確かに赤子はこの星に住む種族、その中のヒューマン、ホモサピエンス、人間そのものだった。
 金髪の女性は赤子をしばらく眺めてから、この子の親もこれから来るのかしら、と言った。
「え?」とシュリは思わず笑ってしまう。その発想はなかった。
「確かに。来るかもね」
「そうよね」
 金髪の女性は真剣な顔で頷いて、それからグラウンドに腰を下ろした。どうやら待つつもりのようだ。そのこともシュリには予想外の行動だった。面白い人だ。「あたしも」と言って、シュリもその場に腰を下ろした。
 しばらくの間、2人は赤子の親が到着するのを待ったが、しかし到着する気配は全くなかった。その間に昼は夜になり、空は静かで、星は動かず、風が木々を揺らす音が聞こえた。2人に会話はなかったがシュリは特に気まずなくはなかった。金髪の女性はどうか分からない。でも見た感じでは居心地が悪いようにも見えない。
「あのさ」シュリが口を開いた。「よかったらスターバックスでコーヒーでもどうかな?」
「3人で?」
金髪の女性が赤子を見上げて言った。
「そう。3人で」
「悪くない考え……いえ、良い考えね」
「じゃあ行こう」
 シュリは立ち上がって、赤子を支えるようにその身体の下に両手を差し出した。そしてその手を支えるように金髪の女性が両手を差し出した。こうして、赤子は2人の女性の手の上にゆっくりと着地した。けっこう重いね、と2人は顔を見合わせて笑った。
 それからシュリと金髪の女性と光る赤子は、3人でセントラルパーク近くのスターバックスに入店した。その頃には赤子の光は落ち着いていたので、店員にも他の客にも不審に思われることはなかった。店内の一番奥の横長のソファ席を取り、それぞれに飲み物とドーナツを頼んで、横並びに座って話し始めると、シュリと女性が打ち解けるのに時間はかからなかった。
 シュリ・マキシマはスタントパフォーマーだった。ムービースターの代わりに生身で車にぶつかったり、炎上するビルからガラスを突き破って飛び出したり、サイボーグのゴリラに殴られたりする仕事だ。危険で給料は安いが天職だと思っているとシュリは女性に話した。
 金髪の女性、ディアナ・ペールライトは作家だった。代表作は不老不死の蛸と女子高生のバディ小説『オクトオクト』シリーズ。あまり売れているわけではないけれど熱心なファンに助けられいる、と彼女は言った(その話を聞いたシュリは、すぐに目の前で電子書籍版の『オクトオクト』の一巻目をダウンロードした。ありがとう、とはにかむようにディアナは笑った)セントラル・パークの近くのアパートに住んでいて、そして偶然にもシュリと同じくときどき無性に死にたくなる性質の持ち主だった。思慮深い話し方で、今日も死にたくなって窓の外を憂鬱な気持ちで見ていたら空を切り裂く光を見たの、と言った。
「ワオ」とシュリは言った。「ワオだね」
 2人は初めて出会ったとは思えない速度で互いに共感し、通じ合った。時間も忘れて話に熱中した。熱中しながらも時々赤子に目を向けた。そんなところもよく似ていた。示し合わせたわけでもなく、彼女たちは交代で赤子を抱いた。片方の腕が疲れたらもう片方が抱く。赤子は2人の女性の腕の中を何度も往復した。彼女たちは一切ブレーキを踏むことなく友人になり、そして同志になった。だからシュリが「3人で暮らそうか」と言ったときもディアナはまったく驚かなかった。むしろ、当然という顔で頷いただけだった。
「でも、ちょっと待って」
 ディアナが赤子を見ながら言った。
「この子の意見も尊重したい」
 やっぱり面白い人だな、とシュリは微笑んだ。からかいではなく尊敬の気持ちからそう思った。シュリも赤子へ目を向けた。
 赤子はずっと眠ったままだ。2人の話も聞こえているのかいないのか、分からない。
 君はどう思う、とシュリは赤子に聞いた。するとはじめて、赤子はその小さな右手をゆっくりと動かした。時間をかけて親指を立て、他の4本の指を柔く握ってみせた。それは寸分の狂いもない、まごうことなきサムズアップだった。
「ワオじゃん」とシュリは言った。
「アメイジングだわ」とディアナが言った。
 赤子は何も言わなかった。ただ目を閉じて、スターバックスセントラルパーク店のいちばん奥の席で、店内のライトが作る淡い光の中で、自分の意志をその小さなか弱い手で証明し続けていた。

 赤子は巡と名付けられた。めぐる。その一語の意味は見てまわること、各地を見ること。空から降り立った赤子はきっと様々なものをこの世界で見ることになるだろう。どうかその旅路が良いものになるように、と二人の母が共に願いを込めた名前だった。それから諸々の手続きと多少の賄賂と少々の時間と家族や友人からの多大なる協力があり、巡は正式にシュリとディアナの息子になった。巡・マキシマ・ペールライト。それがこの世界での因果巡の名前だった。
 巡が成長するに従って、彼が声を発せないことが分かった。先天的な病や肉体的な障害のせいではない。万事健康である。体内には発声器官も存在する。しかし発せない。発さない。原因がないのだから医者に診せたところでどうしようもなかった。医師たちは一様に「心の問題ですね」と言った。「家庭環境に問題があるのでは?」
 母2人の心配をよそに巡本人はまったく気にしてはいなかった。その代わりに、巡はよく見た。よく観察し、そしてよく学習した。巡はともかく目が良かった。単純な視力の話(もちろん視力も良いのだがそれ)だけではない。口や手、些細な身体の動きから目の前の人物が何をするのか、したいのかを敏感に察した。空気の流れ、陽の光、雲の動き、鳥の羽ばたき、虫の動き。巡は本を読むように世界を読んだ。そんな巡の様子を見て、母たちはカウンセリングの予約や小難しい本を前のめりになって読むことをやめた。
 この世界には声を発する以外の方法で他人と、世界と関わる術が存在していた。テレパシーではない。(その能力を獲得するのはもっとずっと先の話だ)それは手話と呼ばれる手や体の動きを用いる言語だった。試しにディアナが手話を教えると、巡はすぐにそれを覚え始めた。それは「目が良い」巡にはうってつけのコミュニケーションだった。指の動きが「楽しい」であり「空」であり「犬」であることが、巡には興味深いようだった。シュリも一緒になって手話を学んだ。(もっとも彼女は手話を用いなくても、勘のようなものでなんとなく巡の考えていることや言いたいことが分かったのだが)
 こうして因果巡は手話を得て、この世界により一層アクセスできるようになった。同時に家庭の中は、たちまち言葉で溢れた。幸福な日々が続いた。3人での暮らしは素晴らしいものだったが、しかし母が2人という特殊な家庭環境と声を発することができないという事実は、この世界において異質な存在と見なされるのに十分すぎる材料だった。世界はとても幼く強情で不寛容だ。母2人はそのことをよく知っていた。だからこそ全力でこの子を守るのだ、と2人は誓い合っていた。母たちは巡を心から愛していた。そしてそれは、因果巡も同じだった。

 拾い上げたボールを巡はじっと見つめた。
(本当なら掴めているはずだったのに)
 グローブのはまった左手をぎこちなく動かす。
(精神だけが先に行っちゃってるんだ。身体が追い付いてないんだ)
 声を発さないだけで巡は多弁だった。彼の中には常に言葉が溢れていた。
(早くこの身体を自由に動かせるようになりたいな)
「メグルー」「巡」
 母たちが呼んでいる。巡は振り返って、2人の母に手を振った。駆け足で戻る。戻りながら考える。
(母さんたちを守れるように強くならなくちゃな)
 因果巡は2人の母を愛していた。自分が2人の本当の息子ではないと聞かされたのは最近のことだが、それを聞く前から彼はすべてを知っていた。母たちには内緒にしているが、この星に”落下”した時から彼は全てを記憶している。誰が(生みの親以外にいないだろうが)何のために(最も簡単な理由は”いらなくなった”からだろう)この地球という星へ自分を落としたのかは分からない。しかしそれらは因果巡にとっては大したことではなかった。彼にとって重要なことは、2人の母が自分を拾い上げて育ててくれたという事実だった。あの日、名も無き球場で自分を支えた手。スターバックスの淡い光の下、覗き込む2人の笑顔を巡はハッキリと思い出すことができた。
(母さんたちが僕を守ってくれたように、僕が2人を守るんだ。何があっても。そう、何があってもだ)
 8歳にしてこの少年は、誰かのために命を懸ける覚悟ができている。因果巡。我らの因果巡。彼はボールをディアナへ投げるために構えた。しかしその瞬間、予感がする。頭上、いや、もっとずっと上のほうで何かが、何かというのは自分の運命にとって重要な何かが起こったような気がして、意識が全てそちらの方へ集中した。手から力が抜けた。
「あ」
 ボールは想定していない方向へ飛んでいく。それから地に落ちて、ボテボテと跳ねて転がった。
「へたくそー」とシュリが笑っている。
「大丈夫。大丈夫よ。メグル」とディアナが優しい声で言うのが聞こえる。
 巡は照れたように笑って、2人の母の方へと駆けていく。先ほどの予感のことは忘れている。

因果巡の頭上7528000キロメートル。
太陽系第四惑星。
軍神。
砂の星。
赤い惑星

‐火星‐


 3人の宇宙飛行士を乗せた探査車(ローバー)が火星の大地を駆けていく。火星はどこまでも赤く灼けている。ローバーの分厚いタイヤが火星の表面を覆う赤褐色の酸化鉄を巻き上げた。
 この世界の人類は火星に到達している。その原動力は未知への興味であり、探査と開発が主目的だ。地球から垂直に飛び立つ宇宙船に乗って、四年をかけて火星にたどり着く。今現在、地球外への進出を阻む障害はない。そして、地球以外に生命体が観測できる惑星は今現在発見されていない。
 眼前に虹色の蜃気楼が揺らめいているのが見える。地球にある管制塔からの指示に従い、3人の宇宙飛行士はローバーを降りた。ここからは徒歩で向かう。宇宙飛行士たちの身体は分厚い宇宙服にすっぽりと覆われている。ヘルメットで表情は読めないが全員が緊張した面持ちでいる。

 きっかけは数日前の砂嵐だった。火星において砂嵐自体は珍しいことではない。地球よりも気圧が低い火星では嵐が起きやすく、それは砂粒と酸化鉄が舞い上げて巨大な砂嵐となる。
 しかし、今回の嵐が運んできたものは砂粒と酸化鉄だけではなかった。砂嵐が去った後、火星のとある地点から異常な磁場が観測された。直後、その地点から窒素が噴出、さらに続いて酸素も発生した。異常は続いた。探査基地近くに青々とした何らかの植物の葉(ネネリスの葉だ。チャレーを作るときの隠し味に使う)が漂着したかと思えば、見たこともないスナック(マッスルハッスルポテト。自分がマッチョになったと思い込む幻覚作用が見られたために現在は販売中止になった)の袋まで流されてきた。(あと口笛も聞こえた)そう、口笛も聞こえてきた。異常。圧倒的なまでの異常が火星で起こっていた。
 報告を受けた地球の管制塔はすぐに厳戒態勢に入った。異常はすべて火星の”ある地点”から起こっているのは明らかだった。人類はいまだかつて地球外の生命体と遭遇したことがない。地球と火星とその両方で会議に会議を重ね、次の嵐が来る前に”ある地点”「アノマリー・ポイント」へ少数精鋭のチームを送ることが決定した。

 アノマリー・ポイントに近づくと同時に無線がクリアに聞こえるようになっていく。そして、火星の宇宙飛行士たちは聞いた。何を? 歓声を。自分たち以外誰も存在しない死の大地で、確かに人々の歓声を聞いた。ああ、懐かしき熱狂の声。
 やがてその声はアノマリー・ポイントへの到着と共に地球にも伝播した。
 周辺に異常はない。人影もなければ奇妙な構造物も宇宙船もなかった。ただ、赤褐色の大地に何かが突き刺さっていた。2.5インチ×3.5インチの長方形。なあ、誰かこの形に見覚えがないか?
「ベースボールカードじゃないか?」(そうだよ!)
 宇宙飛行士の中の一人が気づいた。いいセンスだ。きっと彼はベースボールが好きなんだろう。この次元にもベースボールはある。SUPERでもULTRAでもGREATでもないが。
 それは確かにベースボールカードだ。とてつもなくクールなベースボールカードだ。そのカードには魂がある。よく見てくれ、褐色の肌のスマートな選手がバッターボックスで作り出した美しいスイングの瞬間を生き生きと切り取っているじゃないか。惚れ惚れするよ。
 3人の宇宙飛行士が魅了されたようにベースボールカードへ近づいていく。彼らの眼とヘルメットに付属したカメラがカードをハッキリと捉える。初めのうちはカードに何も描かれていないように見える。しかし段々と黒い線が浮かび上がり、やがてそれは変化する。その場にいる誰もがそれを言語として理解するのに時間はかからなかった。当然だよ。SUGBCは全宇宙全次元すべての言語に対応しているからね。
 誰かがカードを手に取る。そして読み上げる。それが宇宙飛行士か管制官か、その両方か。それはたいして重要じゃない。重要なことは、この次元にもついに、偉大なるSUGB(スーパーウルトラグレートベースボーラー)の名が届いたという事実だ。さあ、言ってくれ。その名を言ってくれ。

「コ・ロ・バモ」

 歓声が大きくなる。甦る熱狂。繰り返す。選手へ向けてのマントラ。
 赤い、砂、人、投げる、転がる、球、血、羽根、嵐、赤い、砂、人……

第1話『廻と巡」 終

SUGBR(スーパーウルトラグレートベースボール規則)
 SUGBに関わる用品、物品、雑貨が一つでも存在する次元は
無条件でSUGBの管理下に置く

(つづく)

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