見出し画像

世界を変えるのは認識か、行為か

「金閣寺」登場人物の溝口と柏木の間でも、「世界を変えるのは認識か、行為か」という議論が繰り返しなされます。 「認識」こそが世界を変えるという柏木に対して、溝口は最終的に「世界を変えうるのは行為だけだ」という結論に至り、金閣寺を焼くという行為に走ることになります。

 「100分で名著109金閣寺」NHK出版社

これ面白いよな。おいらもこれ見てちょっと考えさせられたよな。けどここで大切なのはやっぱ由紀夫の「世界」の定義だよな。金閣寺を読むにおそらく彼は世界ってのをこの世取り巻くすべての事象?っていうのかな。まぁ辞書に載ってるような意味で世界を使ったんだろうな(多分だけど)。

そうなるとおいらの世界の定義とは異なっちまうわけだけど、ひとまず彼の言う一般的な世界で考えてみようと思うんだ。

けど考えたら誰でもここにたどり着くと思うんだけどさ。これって対立するものじゃあない気がするよな。

彼の「認識」と「行為」のそれぞれの定義を厳密に知りたいところだけどそれはちょっと面倒臭いからこれも一般的な意味で把握することになるわけだけど、やっぱ認識あっての行為だよな。少なくともこれまでは。
となるとこれは決定論か非決定論かってことにもなってくるわけだ。
でもこの話は面白いけどきりが無いし完全に論点もずれるからまたの機会だな。

認識と行為どっちが先なのか?

話を戻すと、行為って認識のもとに成り立つ。
けど行為側の方の考え方から言わせればここでの目標は世界を変えることだからなにかでっかい物理的なこと(もの壊すとか)を成し遂げて世界に影響を与えるみたいな考えだと思うんだよな。んで、そのあとに人の認識を変える=世界を変えるみたいな流れにはなるのかな。

認識側からすると周りの人に行為でない方法で認識を変える=世界を変えるみたいな流れにはなるんだろうな。
あれ?けど行為でない方法でどうやって他人の認識を変えられるんだ?

おいら:認識→行為
これは確定だよな。けどこのあとには
おいら:認識→行為→相手:認識
が続くわけだからやっぱ行為と認識は対立するものじゃなくて世界を変えるという目標を前提にするなら表裏一体なところがあるんだろうな。
つまり誰に視点をおくのかってのもポイントだったってわけだ。

おいらの持論

おいらの世界の定義はレテリジェンス(=相対的な世界)だから世界を変えるってなるとそれは他生物に干渉することと同等だと思うんだ。
でも順番はやっぱりさっきの『おいら:認識→行為→相手:認識(→行為)』てな感じになるんだよな。世界を変えるってなるとこの営みが樹形図みたいに書けるってのも面白いよな。この視点で見れば人間ってのは結局認識と行為を繰り返して影響を与えてるってことになる。

結論

(自分が)世界を変えるためには(自分の)行為が必要で、
(相手の)世界を変えるためには(相手の)認識(を変えるってこと)が必要ってことにはなるんだな。因みにこの()をなくすことが哲学者の仕事らしいから、この問題は哲学には不向きってことなんだな。

でもおいらは結構面白かったぞ。こんなひと時も悪くはないよな。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?