十一人十一色 7/11 弐
――河童がいた。あの河童だ。河童は木の枝の上に腰かけていた。声は高く、まるで少年が話しているようだった。
私は生まれて初めて自分を信じることができなかったよ。何を見ているんだ?とね。
「あの……河童……?ですか……?」私は木の上にいる河童に恐る恐る聞いた。
「みりゃあわかるだろ。そんなことよりお前、今危なかったぞ」
「……?」
私は自分の体を見た。
「………!」
幽霊になっていた。自分の体はあった。今の私とは別に。しかし触れられない。
「お前、もうちょっと頭の打ちどころがわるかったら、死んでたぞ」「頭……?私は背中から落ちたのでは……?」
「よく見ろ。なんとも運の悪いことに頭のところにちょっとばかり大きな石があったんだ」
私が目をやると確かに大きな石があり血がついていた。
「……!死んだのですか?」
「いや、死んでないよ。言ったろ?もう少しで死ぬとこだったって」
「ここは三途の川。けれどもお前は別に悪いことしてないから渡らなくていいんだよ」
「三途の川……?実在したんですか……!」
驚いたよ。そりゃあ驚いた。私は今でもあの風景を、河童を忘れられない。しかし先も言ったが私は相当な変わり者だった。こんな時にさえ予定時間のために一刻も早く帰宅しなくてはいけないと感じた。そこで河童に尋ねた。
「あの……早く帰らないといけないのですが……どうすれば帰れるのでしょうか?」
「なに?もう帰りたいのか。珍しい人間が来たというのに……まあいい」
そういうと河童は木の枝から飛び降りて言った。
「ここからもとの世界に戻る方法はな。俺の許可を得ることだ。けど何にもなしに帰すのはちとつまらん。そうだな……」
河童はそういうと私をじろじろ眺め始めた。ひとしきり眺め終えた後、河童は鼻で笑った。
「……お前面白いな。決めた。お前のその几帳面な癖をいただこう。それでもとの世界に返してやる」
河童はなぜだか私の癖を知っていた。「癖をいただく」というのがどういうことか分からなかったが私は了承することにした。
――私は嫌だとは言わなかった。別に言えなかった訳ではなかった。けれども言わなかった。予定を守ることに対して執着心はなく、おそらくそれはもう私の習慣に過ぎなかったからだ。加えて、私は心に感じていたことを河童に吐露した。
「構いません、お願いいたします。実をいうと私は自分の癖に少し飽き飽きしてきたのです。私の人生はまさに寸分たがわずすべて予定通りに進んできました。はじめこそよかったものの、次第にこれほどつまらないことはないと思うほどになりました。かといって習慣となってしまったものですからやめるわけにもいきません。こんな癖など欲しければどうぞ差し上げますとも」
私は藁にも縋る思いで言った。
「お前、やっぱり面白いな……ではいただこう……」
河童がそういうとだんだんと意識が薄れてきた……
次に目が覚めた時、私は自分の家にいた。後で話を聞くと、偶然私を見つけた知人が家まで運んでくれたらしい。妻と娘が目の覚めた私に気付くときつく私を抱きしめた。
数日後私が元の生活をし始めると、周りの人間は相当私のことを訝しがった。あんなに几帳面な人間だった私がその日を境に真逆の人間になったのだから。特に妻には驚かれた。いつも帳面になにかを書き込む私を見てきたのだから。それでも彼女は変わらず最後まで私を愛してくれた。
あの日から私は帳面に予定を書き込むことはなくなった。もう書こうという気すら失っていた。けれども真逆の人生も決して悪くはなかったんだ』
こんな内容のことをその人が一通り話し終えると、私は自身が深く感嘆しているのに気づいた。
なんとも奇妙な話ではある。しかしその人が嘘をついているとは思えなかった。
私はその人に対して厚く礼を述べた。そうして今日の人の話をまた手帳に書くことにした。
今日もまた、新鮮な出会いがあった。
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