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「何もしない」とはどういうことか

「お前なんもしてねーじゃん」
夢の中でこのようなお告げを聞いた。
というわけで今回はこの問いについて考えることにする。

「何かをする」とは何なのか

ここで逆に「何かをする」とは何なのかを考えてみたい。
しかしながら、何かをするということは主観的な視点と客観的な視点で違いが出る。つまり自分が何かをする場合と相手が何かをする場合では定義に違いが出るというわけだ。
よって私が考えるそれぞれの定義を以下に示す。

主観的(自分が○○する):自己の身体を使用して物事に取り組む、行為・行動
客観的(相手が○○する):対象の見える範囲で言語化し得る行為・行動をすること。

今回は主観的な視点での「何かをする」で考えていく。なぜなら過去のレテリジェンス(以下リンク)で示したように、主観無き客観は存在しないからである。

ではこの「する」という行為は何で決まるのだろうか?
私はこれに対して以下の3つの解答を示す。(漏れがありそうで怖いが)

・外界からの「する」の認識
行為は外界から認識することができる。例えば食べるという行為は自分の身体を使用しているさまを見ることができる。そして食べるという行為をしていると認識することが可能である。(外界から認識できるかどうかの話。初めて認識できる出来ないではない)

・詳細な言語化
行為は言語化することができる。つまり連続的な行為を一括りにできる。
Ex)食べる。座る。見る。立つ。などなど。

・他への影響
行動は他に影響を与える。これは物理主義的な見方をしている。
Ex)モノを動かす・他人に干渉する。

これら3つをすべて満たしている行為をすることを「何かをする」としたい。
そこで私は主張として、

主張:「ひたすら思索する(考える)」ことは「何もしない」ことである。

これを述べたい。
ここですぐにこのような反論が予想される。
「いや、言語化してるやないか!」
そうね。その通り。「思索する」とか「考える」ってもう言語化されてるわけだし。

けれども「考える」ことは詳細な言語化が可能なのだろうか?私が思うに感がることとは無限の広がりを持つ。

例えば学校のテストでこんな問題がでたとする。
Q「考えるとはどういうことか。可能な限り詳細に記述しなさい」

この問題に対してあなたはどう答えるだろうか。
「脳の中で……なにか緻密な……そう何か。何かがある……ことは確かだ……」

このことから詳細な言語化は難しいと考える。
残り2つに関しても、考えることは自己の内的なものであるため、外界から「する」とは認識できない。他への影響も内的なものであることから無い。超能力ならそれが可能かもしれないが。
とはいえ可能だとしてもここで私が論じているのは「考える」ことのみである。よって超能力は問題とはしない。

結論

「何もしない」とは「ひたすら思索する(考える)」ことである。

というわけで私は毎日何もしていないことが証明された。哲学者は実際何もしていないのである。
けれどもそれが人間にとって一番重要なことであることは言うまでもない。
……言ったけど。


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