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支配欲はアプリオリなものか

支配欲とは愚かなものよ

  支配欲。他者を思うままにしたいと思う欲望。これに関して思考を巡らせてみる。
 支配欲の例としては他者の考えを都合の良いように解釈し、また自分の意図通りの行動をさせようとして暴挙に出ることが挙げられる。先の文章からわかるように私は暴力的なものだけではなく、意識内での事象も支配欲に含める。

なぜ支配欲は生まれるのか

この問いに関して私は1つの答えを見出した。
「支配欲は他者を認識する能力が一時的、部分的に欠けていることから生じる。」
どういうことか。まず私は他者を完全に理解することはできないと考えている。そして、1人の人間が他者を支配しようとするときその1人の人間は他者のすべてを包括した気に、また包括しようと図っているのだ。
(この考え方はレテリジェンスの図を想像すると理解しやすいと思われる。以下リンク有)
その過程で互いにずれが生じる。このずれを認識できない人間は無理にでも他者を包括しようとする。(これが暴力)また包括した気になろうとする。(これが解釈)
こうして「支配欲」と呼ばれる持続性をともなった状態が生じるということだ。

本題

では本題に戻る。「支配欲はアプリオリ(先天的)なものか。」言い換えるならば、人は生まれながらにして他者の言動を思い通りにしたいのかということだ。
 結論から述べると私はこの考えに対してどちらともいえないというなんともディベートのしがいのない答えを提示することとなる。なぜなら支配欲の始まりとは「あれなあに」という志向性に起因するものであると考えるとその志向性と支配の関係が厄介なものとなるからである。
 
①アプリオリの立場:A君
 アプリオリであることを主張する根拠としては人間の志向性「あれなあに」が挙げられる。
 人間は生まれて言語を習得し始めると、周りのものの名前を憶えようとする。「憶えなさい」と誰に命令されたわけでもないのに。
 ここから「志向性を持つこと」は先天的なものであると考えられる。そしてこの志向性によって物の名前を憶えようとするこの行為自体を支配欲の顕現であると捉えることができる。人、モノ、生物。名前とその内容(鳴き声、行動)を紐づけることによってその個体をカテゴリー化し、
「大体こういうものだろう」
と推し量ろうとする。これこそまさに支配欲ではないか。したがって「志向性を持つこと」がアプリオリであることからおのずと支配欲もアプリオリな欲望であると考えられる。

②アポステリオリの立場:B君
 Aの根拠には反論の余地がある。それはその志向性が現れた際に、言語を教えなかった場合はどうなるのかということだ。言語は文化的・社会的側面を強く帯びている。また、それに加えて言語とはそもそも自己と他者を区別する道具となり得るものである。つまり、言語を習得するまでは自己と他者を区別するという概念が存在しないためそもそも支配するという概念も理解できないはずである。支配とは自己と他者の区別があって成り立つ行為である。よって言語の習得の上に支配が成立することから、支配欲はアポステリオリなものであると考えられる。

①’アプリオリの立場
 いや、そもそも自己と他者の区別は必要なのだろうか?支配は他者の認識の欠陥のもと生じるのだから、言語などなくとも猛獣が獲物を食らうように、言語における区別がなくとも支配することは十分に考えられる。

②アポステリオリの立場
 それは生命の本能の事例ではないか。彼ら(猛獣)や我々人間は生きるために獲物を食らうわけであり、何も支配しようとしているわけではない。

①アプリオリ
支配する側は支配していることに気が付かないのでは?

最後に

 以上の白熱ディベートからおわかりいただけたとおもうが、明確な境界線、つまり支配しているのかしていないのかを客観的に判断することが難しいためにこのディベートは平行線をたどってしまった。 
 そもそも支配とは主観的な要素を多分に含んでいる。ここでの論点は他者の認識なしに支配はあり得るのか?そして他者の認識が全くない場合は支配と呼べるのか?ということであった。
 そしてこれに関してもいまだ私は納得のいく解答を見つけられていない。どちらともいえないと…嗚呼、もどかしい。修業が足りていない。

 よってこの問題の解答を導き出すために後日「他者の発生」に関する記事を投稿したいと考えている。宜しければ、ぜひ一読願いたい。

Column

 
 歴史を見てみると、人間は土地を開拓し、時に独裁、時に革命、時に戦争を行って数えきれないほどの命を本人の了解なしに抹消してきた。誰かが自己流の正義を抱え、柔軟な対応ができず、対話を諦めたために支配が起こる。(その相手には自然も含まれる)支配という観念を概念に昇華させるには言い換えると「あなたは支配している」ということを(ここでの)「あなた」に伝えるためには「あなた」の支配から免れたうえでの対話が必要となるのであろう。



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