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ぼくのかんさつ日記 5日目

5日目
さすがにまだ芽は出ていなかった。
しかしこうしてなにもまだ芽生えていないまっ平な土を眺めていると時間を意識せずにはいられない。
今この時間も確かに種は成長しているのだ。およそ人間の目には見えないスピードでゆっくりゆっくりと成長しているのだ。私は現在田舎の方に住んでいることもあって家の窓から山々を眺めることができる。
早朝、コーヒーを飲みながら緑で生い茂る山を見やる。
一見静止画のように見えるこの景色。
ずっと時が経つというのがどういうことかを度々感じさせられる。
例えば私たちはいつあの山の木の葉が赤みがかってきたのかを明確には知りえない。木自身が感じる時間と人間が感じる時間は全く違う。「変わる」という概念さえ異なるのであろう。よってこの土のなかでも人間には知覚しえないくらいのゆっくりとした時の流れがあり、気づいたときには芽が出ているということになるのであろう。土から芽が出て「芽が出た」というのではなく芽が出た状態を人間が認識して初めて「芽が出た」と言えるのである。この「人間が知覚しえない時間の流れ」というものを私は瞑想しているうちに考えずにはいられない。
瞑想。これをし始めた当初は時間がとかく気になったものだ。
今何時なのか。今何分ほど経ったのか。不思議と気にせずにはいられなかった。しかし、四半世紀ほどもこの瞑想を習慣として続けると私の時間に対する認識は変化した。時間と言うよりは意識が変化したと言った方が適切であろうか。自己内の意識に集中して他との境界線があいまいになっていくあの感じは瞑想でしか味わえない。頭の中で重力がさまざまな方向に向けられているのを感じる。本来の世界とはああいうのをいうのかもしれない。
植物の世界なぞいくら観察を重ねたところで理解できるものではない。しかし、先の芽が出たといった認識の違いを植物を観察する上で念頭においておくことがはなはだ重要なのであろう。


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